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3月26日から4月2日までタイを訪問し、5月3日から8日までバングラデシ
ュ、シンガポ−ルを訪問して現地の演劇人たちと接触した。
今年からITI日本センタ−主催による「アジア太平洋舞台芸術家交流プロジェ
クト/APP」(国際交流基金アジアセンタ−助成プログラム)をスタ−トさせる
こと、その企画ディレクタ−となったことがきっかけである。と同時に私自身か
つて20代早々で「演劇集団アジア劇場」を設立し、また長年に渡って日本の
伝統文化とその基本的な考え方を創作活動や方法の基盤としてきたことが今
回の企画の立案にもつながっている。
APPでは第一回交流プロジェクトとして7月10日−17日までマレ−シア、シ
ンガポ−ル、バングラデシュの舞台芸術家を日本に招聘し、フォ−ラム、ワ−
クショップを盛岡、東京で開催する。
タイ訪問ではNGOとして主にスラムや農村で上演活動をし、自らの活動をエ
デュケイショナルシアタ−と名付けるマカンポンシアタ−の若者たちと対話を
重ねた。
バングラデシュではITIバングラデシュセンタ−のセッティングで短い滞在期間
に実に多くの演劇人と対話をし、また彼らの歴史も理解することができた。
ダッカの演劇学校が企画してのワ−クショップでは、日本の能、歌舞伎、文楽
についてレクチャ−をし、また現代の日本の演劇について歴史的な観点から
説明をする。その後、実技を実施し、彼らの即興演技を実演してもらい、それ
に対してコメントするということも行った。
シンガポ−ルは滞在日が限られたため、今回招聘予定のオン・ケン・セン氏
の拠点、ナショナル・ア−ツ・カウウンシルを訪問し、彼のグル−プの活動ビ
デオと膨大な資料をもらい、いま翻訳しているところ。
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バングラデシュの複数の演劇人と昨年南米ベネズエラで開催されたITI世界
大会で知り合うようになるまで、私はバングラデシュに関して殆ど知識を持っ
ていなかった。
せいぜいジョン・レノンらが20数年前に開いたこの国の独立時の悲惨を救う
ための「バングラデシュ救済コンサ−ト」に関してかすかに記憶があり、また毎
年自然災害、特に洪水のため多くの人々が犠牲になっているというニュ−ス
を聞くくらい・・・・。
ノ−ベル賞を受賞した詩人タゴ−ルはベンガル人であった。タゴールはベンガ
ル語を話すベンガル人であり、バングラデシュの演劇人の仕事を今も大きく
支えている精神的支柱である。
バングラデシュは現在のインド国内であるカルカッタ地方とあわせ、かつてイ
ギリス統治下、ベンガルという独立した国であった。彼らはインド、カルカッタ
地方の人々と同一民族、同一言語であり、第2次大戦後インドとともに分離独
立したパキスタンとは民族も言語も異なり、そのためパキスタン政府から多く
の弾圧を受けた。ついに彼らの母国語であるベンガル語使用を禁止されたこ
とがきっかけで起きた言語運動が、1971年の独立戦争に繋がったのだ。
独立に至るまでの苦悩と植民地支配からの脱却。他の多くのアジア諸国と同
様、西欧列強からの非植民地支配との闘いの歴史を通して彼らのアイデンテ
ィティ−は形成され、それは言語と深く関わり、それゆえに演劇と彼らの歴史
が密接に関係することを今回の訪問で知った。
南アジア地域が戦後、インド、パキスタン、スリランカと宗教によって分かれた
分離独立は、イギリスの200年にわたる植民地支配下、宗教を利用した支配
民同志の牽制政策が大きく影響している。この分離独立に反対し、インドの独
立に先鞭をつけたスバス・チャンドラ・ボ−スはベンガル人である。彼はいまで
もこの国ではタゴ−ルと並んで民衆の最大の英雄である。ボ−スはバングラ
デシュだけでなく、インドでもガンジー、ネールと並んで独立の三大英雄として
崇敬されている。それも初めて知った。
非暴力主義を唱え、いつ独立ともわからぬガンジー、ネールらの国民会議派
に対し、実力による独立を唱えたボースは、第2次大戦中、イギリスの現地兵
として日本軍と闘ったインド兵たちに、「インド開放」(英国からの独立)を訴
え、日本陸軍の藤原機関と協力し、インド傭兵を再組織して初めて「自由イン
ド国民軍」を作った。また「自由インド仮政府」を初めて設立し、大英帝国から
自主独立する先鞭をつけた。
彼らはバングラデシュ北方のインパ−ル周辺で日本軍とともにイギリス軍と闘
い、悲惨な敗北を招いた(インパ−ル作戦)。そして日本軍の敗北後、ボース
は不慮の飛行機事故で死んだ。しかし、「自由インド国民軍」に参加した兵士
に対するイギリス政府による過酷な裁判をきっかけに独立運動の火が沸き起
こり、結果的に独立に結びついていったのである。が、宗教による分離独立
に反対したボ−スは死に、彼の蒔いた革命の果実を吸い取ったネ−ルはじ
め国民会議派が分離独立を果たすことになる。その結果として民族も言語も
違うベンガルの東半分がバングラデシュとしてパキスタンと同じカテゴリ−に
入れられた。
バングラデシュ(旧東パキスタン)は、民族、言語の違いのため、西パキスタン
から支配と弾圧を激しく受け、多くの犠牲者を出した。独立運動の際の犠牲
者は100万とも300万とも言われる。現地の人は300万と言っている。いま
だに十分解明されていないらしい。1971年の9か月に及ぶパキスタン駐留
軍との戦闘の結果、バングラデシュはようやく独立を果たした。これらは初め
て知ることばかりだった。
世界的な綿の産地としてかつて富裕な地域であったバングラデシュの災禍は
1750年の東インド会社設立から始まる。ベンガルの富はイギリスに奪われ、
大英帝国繁栄の礎となった。そしてその膨大な植民地支配による世界構造の
固定化の破壊として始まった第2次大戦、そして現在に至までその影響は続
いている。
ベンガルとのきずなを再検証することは、私たち日本人の歴史を検証するこ
とでもある。東京裁判でその戦争渦中の問題、戦争犯罪だけに限定され、西
欧諸国=善、日本=悪という単純な図式の中で判定され出発した戦後の日
本。そのため真相が曖昧となった第2次世界大戦。この戦争は日本が世界経
済、植民地支配にもとずく世界構造の中に組み込まれ、どろ沼の中に自ら引
き込まれていった戦争である。軍国主義が犯した戦場での罪悪、非人道批判
に終始し、情緒的な嫌悪だけに走った戦争批判は日本の戦後の演劇人の精
神的な出発点にもなっている。しかし、それはどこか歪曲している。一方的な
自責と自虐はいつしか裏却って、居直りに繋がりかねない。
戦後50年を過ぎたいま、歴史を検証するためにやっと客観的な立場に立て
る時間が経過したのではないか。歴史の判断には時間の経過が必要であ
る。そして善・悪だけの価値基準では何も生まれない。また世界構造の中でと
らえかえさないと、個別の現場の悲惨さだけでは客観化は出来ない。
バングラデシュ滞在の折に見た劇で、日本軍がインパ−ルに近づいた際(少
なくとも戦争が終わるまで日本は彼らにとって、ベンガルをイギリス支配から
救うヒーローであった)、大量に動員されたイギリス兵の慰安のため現地娼婦
がなかば強制的にイギリス総督府によって集められ、彼らに自ら申告させ、
「慰安婦許可証」(英国兵相手の)を発行していた、というシーンが劇中に登場
する。これは事実に基づくのか、と半信半疑同行したベンガルの演劇人に質
問すると事実に基づくものだと彼は答えた。イギリス植民地支配下での、ベン
ガル人女性に対するイギリス人の差別的、高圧的な態度が、この劇の中心を
なしていたが、正直言って驚いた。
帰国後インパ−ル作戦、ボ−スと藤原機関の関係、ビルマ戦線とビルマ独立
と日本の関わり、戦争中西欧諸国に対して独立を初めて勝ち取ったアジアの
リーダーたちとその苦悩、などを調べる内に、私はこの東南アジア、南アジア
との50年前の関係の検証は、私たちをもう一度知るきっかけとなる、と感じる
ようになった。西欧対アジアの構図における人種問題、それが今度は日本対
朝鮮、日本対中国に置き換えられ、また戦中のビルマではビルマ人対カレン
人、ビルマ人対インド人間の人種差別に繋がってゆく。
その人種間の差別問題が根底に大きく横たわり、いまも潜在化していること。
これらは互いに他者に対して十分認識しないこと、無知から始まる。「国際化」
を考えるというのは、海外を動き回ったり、海外公演をやったりすることではな
い。他者に向けて自分を開いてゆくこと、その時自分自身をまず知り、自分を
知るために客観化する手段として歴史を学こと、ここからスタ−トすることと私
は考えた。今回の訪問は私にとってあらためて、日本の戦争に至るまでの歴
史、他のアジア諸国の歴史を勉強しはじめるきっかけにもなった。
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1971年のバングラデシュ独立戦争は言語運動から始まった。
当時、バングラデシュはイギリス統治の結果として、イギリスからの独立の
際、便宜的に宗教の同一性により、民族も言語も異なるパキスタンと同じカテ
ゴリ−に加えられ、西パキスタンとしてパキスタン政府の統治下に置かれる。
パキスタン政府の圧政は厳しく、しまいにはバングラデシュ独自の言語さえ否
定されるまでに至った。1971年の独立運動は、当初ベンガル語を公用語と
してパキスタン政府に認知させる運動から始まった。この頃、パキスタン政府
の弾圧は厳しく、後の調査では300万人を越える虐殺があった。のちに初代
大統領となるラ−マンは西パキスタンの監獄の中で閉じ込められていた。
ベンガル語は現在のバングラデシュ/1億2千万人と現在のインド領にあるカ
ルカッタ地区/約1億2千万人(バングラの人々はカルカッタ地方を西バング
ラデシュ、今のバングラを東バングラデシュと言う。同じ言語、同じ民族であ
り、この二つの地域はもともと古くから独立した国として一体化していた。異な
るのはヒンズ−教とイスラムで、そのため、第2次大戦後のイギリスからの独
立の際、宗教によってインド側とパキスタン側に分割されたわけである。バン
グラデシュはベンガル語でのこの地方の古くからの呼び名、ベンガルは統治
時代の英語による呼称。日本とジャパンの関係と同じ)の合わせて2億4千万
人が使用する一大言語圏である。
ベンガル語の公用語化をきっかけとした独立運動に対し、駐留パキスタン軍
は大量虐殺を行い)、パキスタン政府はこのことを世界に対し隠蔽し続けた
が、潜入した西側ジャ−ナリストがまずレポ−トをイギリスの新聞に掲載し、そ
の後全世界に虐殺の事実が広がり、ジョン・レノンらによるバングラデシュ救
済コンサ−トなども含め世界的にこの国に関心が集まった。大量の武器によ
って武装されたパキスタン駐留軍に対して、バングラ人は素手に近い状態で
闘いを挑み、ゲリラ活動を行った。学生たちは短い期間に銃の訓練を受け、
「自由戦士」として戦った。現在のバングラデシュ演劇やITIの中心メンバ−た
ちはこの時、学生としてあるいは知識人として言語運動、独立戦争をリ−ダ−
的に担った人々であり、ITIバングラデシュ会長は言語運動のリ−ダ−として、
その理論的主導者として彼らの運動を支えた。今回日本に招聘するマムヌ−
ル・ラシッドもこの時期、銃を持ちゲリラ戦を戦った「自由戦士」の一人だった
そうである。
独立戦争は1971年の9か月の戦闘ののち、駐留軍が降伏し、多大の犠牲
を払ったのち独立を達成した。
バングラデシュ演劇については、カルカッタ(西バングラデシュ)を中心に英国
統治下の早い時期(200年以上前)から英語による英国劇の上演が盛んで、
現地の英国人劇団が地域全体を巡業していたということである。こうした英語
による英国演劇の伝統的上演に対して、1971年の言語運動をきっかけに始
まった独立戦争と、独立達成後、ベンガル語による彼らの演劇の構築は必然
的に始まって行ったわけである。現在でもテレビが国営局一局だけ、また2
0%の普及率でしかないこの国の人々にとって、演劇は独立戦争やイギリス
統治下の歴史、人間性の問題、人々の啓蒙、歴史の理解、社会問題の検
証、教育などあらゆることに対して重要な役割を持っている。独立記念日には
独立運動の舞台となったセントラル・ショヒド・ミナ−ルの広場(ここで多くの学
生運動家が虐殺された)で野外劇が必ず上演される。(バングラデシュでは通
常こうした野外での上演が室内での上演は3割、野外が7割となっているそう
だ)。
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◆5月3日(金)
イギリスの機関が進めている全世界の演劇体系のアジア地区編集者6名が
東京に集まり、編集のための会議を行うと言う事で(アジア地区編集版の資
金は国際交流基金が負担するとのこと)突然来日することになったITIバング
ラデシュセンタ−のラマンデュ−・マジュンダ−事務局長と同じ飛行機で、向こ
うは初めての日本からの帰り、こちらは初めてのバングラデシュ行きという道
中が始まった。日本を12:00AMに経ち、シンガポ−ルで乗り換えて、ダッカ
には夜の11時前に到着。
◆同日10:45PM、バングラデシュ空港着。ビザを取っていず、現地でと考え
ていたのが失敗。空港の入国管理は大勢の人が並び、いつ終わるかわから
ない。ところがマジュンダ−は入国審査の人間もよく知っていて、私は彼の友
人ということでその場で判を押してくれ、 国出来てしまった!何故だ、と彼に
聞くと、この国の演劇人はお金は入らないが、そういうことをやっている人に
対して、人々は強い敬意、尊敬の念を持っているんだよ、だから頼めば快く聞
いてくれるのさ、と笑っていた。シンガポ−ルからダッカへの飛行機の中でも
彼は沢山の人から声をかけられ、すごい有名人であるのに驚く。テレビでニュ
−スリ−ダ−をしていた、ということで皆顔を知っていたのである。
この夜は彼の家に留めてもらう。劇団員がたくさん来ていて、彼らと夜おそくま
で話す。いつもラシッドの家には劇団員が沢山来たり泊まってゆき、外国から
演劇人が来たときも泊まるのだと言っていた。
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◆5月4日(土)2:30PM
ラシッドの家を出て、動き易い場所をとお願いしておいたためあらかじめ手配
してくれたゲストハウスに移動。マジュンダ−、ゲストハウスに迎えにくる。一
緒に彼の学校へ行く。生徒が40人ほどいる。その二階がITIセンタ−で、来れ
は彼が所有するビルディングであるそうだ。彼は広告会社を経営していて、そ
の資金をITIの活動にあてている。事務所もITIに提供しているということ。198
1年に韓国で開かれたITI主催の第三世界演劇祭に参加したのがきっかけで
1982年にバングラデシュITIを自力で設立し、今も自己資金を投入して運営
している。政府の援助は一切なく、会議などで外国に行く資金を作るのは大変
らしく(日本にくる航空運賃だけで、彼の一ヵ月の収入に匹敵するそうだ。それ
でも彼はこの国ではお金持ちの方である)、しきんめんの援助を必要としてい
るという。
ワ−クショップは特に日本の伝統的なものを中心に、西欧のものは他に沢山
教えるものがいるから、という要望。に従い、用意したビデオでまず能と歌舞
伎、文楽の違いを説明、その歴史的背景、ドラマツルギ−、演出の方法、歌
舞伎の台詞の実演などののち、伝統演劇をベ−スに、そのコピ−ではなく、
自分なりに現代化させたもの、ということわりの上で、林のトレ−ニングメソッ
ド、身体の基本的な動きの訓練を実施する。
生徒はビデオの時も、実技の時も次から次に質問を寄せ、アシスタントが少し
遠慮するようにと注意するほど熱心、積極的。
◆同日7PM:SYED SHAMSUL HAQ作 ALY ZAKAR 演出の『KHATTA
TAMASHA』を見る。
NAGONIK NATTO SOMPNOAKI 劇団による。
イギリス統治下のベンガル。第二次世界大戦中。日本軍が近づいてきたとい
うことで(おそらくインパ−ル作戦のこと)イギリスの兵隊が集結し、そのため
現地の女を大量に慰安婦として駆り集め、娼婦の許可証を自ら申請し、イギ
リス政府がこれに判を押して許可するという馬鹿げた法律が出来た時の話
し。これは本当にあったことか、と驚いて聞いたら、こんな馬鹿げた(娼婦が娼
婦業を営むために、本人が申し出る免許制度を採用したこと。勿論娼婦の相
手はイギリス兵)ことがこの国で昔、実際にあったのだよ、と皮肉っぽく答え
た。
◆9PM:マジュンダ−の案内で中華料理店に行く。ABDULLAH AL-MAMUN
氏(NATIONAL INSTITUTE OF MASS COMMUNICATION の DIRECTOR
GENERAL)、M.A.QOUADER 氏(今月24日に来日するとの事。在日本バング
ラデシュ会の招聘による日本公演を行うとのことで、マジュンダ−の奥さん(女
優)も来日予定。
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◆5月5日(日)
朝9AM、『クライ・オブ・エイジア』に参加していたシャ−アラム、ゲストハウス
に私を尋ねにくる。フリッピンを坂手洋二、金守珍と一緒に訪問した際に、親
しくなった仲。
◆10AM、バングラアカデミ−に行く。バングラアカデミ−の会長と会見。
Munsur Musa 氏。日本に三度来たという。北海道苫小牧、札幌、函館など地
方を回った。初めは1960年代、そし1980年代と1990年代。日本の変化
はダイナミックだと言う。『おしん』がこの国で人気があるとのこと。この国の
人々はみな『おしん』だ、だがその国がいまこうなった(経済世界第二位)、
我々も努力すればいつか幸せな暮らしが出来るようになる、そういう希望を
人々に与えてくれるのだと言う。この国の人々はみな日本人が好きだ、尊敬し
ている、自分たちに力を与えてくれると信じている、と語っていた。
その後、ダッカ大学に行く。演劇学部を訪問。若い教授と会う。偶然、チョドリ
−氏の講義がある。中に入れてもらうと学生が5人。セネカとヒュ−マニズム
についての講義をしていたそうで、とても優しい人格の良さが滲み出る人物。
日本から来た私を友人のように快く歓迎してくれた。私を引率してくれたダッカ
大学の学生でマジュンダ−の劇団員でもあるマム−ルによると、チョドリ−氏
はこの数カ月間の騒動でも、理論的リ−ダ−だったそうで、政府の腐敗に対
し、彼のヒュ−マニズムとデモクラシ−の開化的な論理は若い学生たちの支
持を強く集め、みなに尊敬されているとのこと。学内のあちこちで学生たちが
6月の選挙(民衆運動で選挙のやり直しを勝ち取ったあとのやり直し選挙。マ
ジュンダ−と3か月以上も連絡が取れなかったのは、実はマジュンダ−はこ
の選挙のやり直しの民衆運動のリ−ダ−格として先頭に立って闘っていたの
だということも、この学生から教えてもらう。マジュンダ−は謙虚なのか、ちっと
も彼がこの国で有名人であることも、運動のリ−ダ−として働いていたことも
語ってくれなかった。彼の人柄がわかった)その後、広い野外ステ−ジのある
公園。SHAHID MINAR に行く。70%の劇がここで上演されているという独立
運動の記念的な場所。
◆同日1PM:ダッカクラブ。ITIバングラデシュEXCOMメンバ−12名(18名
の内)が私のため集まり昼食会を開いてくれる。昨日見た芝居の作家、演出
家も混じる。演出家はベネズエラで会った、ITIドラマチック委員会のアリ・ザカ
−ル氏。抱き合っての再会。チョドリ−氏も来る。
◆同日3:30PM、ワ−クショップ実施。
6時終了には学生がみな駆け寄り、別れを惜しんでくれた。アシスタントの者
に彼らは喜んでくれたのだろうか、と聞くと、非常に喜んでいる、と言ってくれ
た。
この日は彼らの即興的なパフォ−マンスをまずやってもらい、私が観客にな
る。そして感じたこと、考えたことを発言し、また他の学生たちともデスカッショ
ンをするという内容を前半に行い、後半は私の身体訓練のベ−ストレ−ニン
グを実施する。
◆同日7PM:『LEABEDIFF 』。マムヌ−ル・ラシッドの戯曲によるダッカ劇団
の舞台を見る。200年前のベンガル。イギリス人による英語劇団しかなかっ
たカルカッタ(当時はベンガルの中心)にやってきたロシア人が、ベンガル人
によるベンガル語の劇団を悪戦苦闘しながら設立した、実際にあった話しに
基づく内容。タイトルはその人物の名前。ラシッドが主役をぬけぬけとやって
いたのにのけぞってしまう。
◆10PM:芝居のあと、ラシッドとともに彼の家に行く。7月の企画のことを話
し合う。
12PM:ゲストハウスに戻る。ほとんど眠らず朝まで何故か興奮。
*ITIバングラデシュセンタ−
EXCOMメンバ−は18名、設立1981年、ランデュ−・マジュンダ−設立発
起人。
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