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体育館という「劇場」、いい

2006年3月4日
イスラエルの若いダンスグループ公演(TIF)を見に西巣鴨へ。『ストロベリークリー ムと火薬』(ヤスミン・ゴデール振付。7人の20代〜30代のダンサー、女4人、男 3人、舞台には検問所の「遮断機」のみ。床は木目の敷物。。。。

TIFだし、イスラエルだし、ちらしの文言がすごかったしで、どうなんだろう、と見に 行ったが、やはりダンスだった。ダンスではこの程度しか表現できないんだなあ、 というダンスの限界を改めて確認した公演。

ダンスは言葉が欠如しているから抽象は免れないのだが、イスラエルのこの集団 はかの地の「政治状況」を反映させる意図を持ってはいるようだが、ダンスという 制度ではそれは駄目だ。「肉体依存」を捨てないと。言葉と向き合わないと。。。。

じゃあ、私たちはどうなの?
私たちは、フィジカルと言っても、それはあくまで言葉あってのもの。エクリチュール (書かれた文字)が、身体を持った言葉に転換する際の「転換」そのものによって 生じる差異、発語行為、発声行為の持つ意味が、書かれたテクストと声によって発 語(表出)されるテクスト(上演)の間に決定的な差異を生じる、この〈差異〉の隙間 に舞台、演劇としての可能性を見出すから、発語を支える身体の個別性をより自 覚した上で、言葉を使ったメタフィジカルな空間を考える。つまり言葉=制度、と制 度=観念の先にあるものとの〈隙間〉にこそ、演劇表現の可能性がある、そこが演 説や文章表現と異なる位相を生み出す場の生成に通じる、と思うわけである。

更に、上演では声による言葉だけでなく、ものとしての身体、それが生み出す空気 の変化、楽曲、観客の息遣い、気配、光と闇、それらもテクスト(糸)となり、上演と いう織物(テクスチュール)を形成する。そのことに自覚的な演劇は少ない。意識 はするが、せいぜい場面転換を埋めるためのBGM、効果としての照明、言葉を 説明するだけの身振り・・・。つまりは舞台の現実として無数のテクストがあるにも かかわらず、書かれたテクストにしか目を向けていない演劇が「演劇」と思い込ん でいる状況が上演者と観客双方に横たわる。その頑強な意識の構造(固定観念) を溶きほぐすことを方法的に提示しつつ、作品世界を成立させる、そういう上演を 探っていきたい。


劇場のこと…。
西巣鴨創造学舎、旧西巣鴨中学校の体育館。入ったとき、気楽な感じでいいな あ、と思った。劇場(中劇場以上)の堅苦しさがなくていいなあ、と最初に思う。風 通しがよい、密閉感がない。ただでさえ一方向に向かった席に沢山の知らない人 間たちがおしこめられるのだから劇場というのは妙に緊張する。行きたくない場所 の一つだ(笑)。それがないからいい。元体育館、だからか。だいたい子供の頃、 体育館は昼休みの遊び場。体操の授業以外の時間、つまり休憩時間にバスケット ボールを楽しんだり、とにかく教室で50分、椅子に据えられ拷問を受けたあとの 身体を伸び伸びさせる場所だったのだから、そういう場所こそ劇場にふさわしい。 状況劇場をはじめて見に行ったときは、テントのなつかしさ、というか堅苦しさのな い雰囲気と、不特定の観客が密集して押し込められたにも拘らず、何か時代の空 気を共有している、とりわけ「アンダーグラウンド」と反体制が直結していて、そうい う人々が集まったという連帯感があって、居心地が良かったが、時代が人々をば らばらにし、孤立化させた(孤立は近代の必然であり、それは資本主義の行き着く 先だが)現在において、劇場も様々な人種が集まり、緊張を強いる場になってい る。それをほぐすのが空間であり、それには新築ビルの中や文化施設より、こうい う旧体育館のような時間を持った、子供たちの遊んでいた気配が染み込んだスペ ースが似合っている。  



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