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ヤン・ファーブル公演『わたしは血』(さいたま芸術劇場、大ホール)観る。1986年の
東京公演以来。あの時は、テラは制作集団として、来日公演を裏から支えたが、
今回は、単なるお客で観る。
やはり、アルトーからアルトーへ、か。。。。「キリスト生誕から2007年、人間はい
まだに中世を生きている」、人間の文明自体を問題にしている。これはアルトーの
後継を自負してよいものだ。
舞台は壮絶でお茶目で、残酷で滑稽なシーンの連続。ロックの鳴り響く中、純白の
ウエディングドレスを脱ぎ、女たちは血で股間の汚れたパンツを脱ぎ捨て、丸裸に
なったダンサーの若者たちが、水で滑る舞台上を、滑りながらもうはちゃめちゃに
ブレークダンスを踊りまくるラストシーンは圧巻、爽快。
あれだけの大観衆の前で、着る物全部脱ぎ捨て、まる裸になって好き放題に踊り
狂えば、ダンサーも爽快だろう。もう恥だ、外聞だ、そんな下らない人間どもの偽
善的な分別世界は越えている。ヤン・ファーブルの真骨頂。静寂のあと、舞台上に
血が流れ出す光景に人類がキリスト生誕以来、いったいどれだけの血を流し、そ
してそれはいまこの時もあちこちで同じことを繰り返している、そういう愚かさとやり
きれなさ、そして怒りを思い起させてくれる。革命のための芸術、まさに前衛、ここ
にあり・・・。
ただ、他の世界ではリアリティを持っても、「日本」という世界の現実からすっかり
はずれた「夢の島」では、ただのゲージツにしかならないのだろうか。。。。あくまで
額縁の中に納まった、さいたまの立派でキレイな大ホールで見たこの舞台は、どう
も「日本」では意味を生成しずらい、舞台上の「テクスト」はいいが、それを支える
観客席のコンテクストが、成立していないのだから。客席は大金(7000円!)を払
って押し寄せた「ゲージツおたく」一杯。彼らは何を見るのか。まあ、バレエだモダ
ンだ、見ている舞踊ファンには、この舞台はあまりにショックだったろうが。芸術、
なんて笑い飛ばすくらい、ばかばかしく騒々しく、どろどろでハレンチで、これでもか
とこれでもかと裸になり続け、まるでぼろくずのように肉体を、人間を扱い。。。
20年前に渋谷のパルコ劇場で見た『劇的狂気の力』が、変奏されながら相変わら
ずそこに繰り広げられていた。それにしても、当時ヨーロッパでもまだ無名のヤン・
ファーブル、今では20〜21世紀の演劇史を塗り替える存在に成長した。とは言っ
ても、渋谷の居酒屋で一緒に呑んだ20代の若者のやんちゃ精神は、まったく変わ
っていない。変わったのは初来日公演の際、全裸シーンのたびに照明が暗くなっ
たのが、今回は公共劇場にも関わらず、そのままだったこと。法律的には猥褻物
陳列・・・で犯罪なのだろうし、それってアングラならまだしも税金で作られている公
共劇場で、これだけ堂々と法律破って、それで許されているってどういうこと?って
疑問も出た。知人のW氏が事業部長らしい。受付周辺をうろうろしていたので、目
で挨拶、かなりの久しぶり。かつて情報誌を担当していて、全面的に応援してもら
った人。ま、彼が牢に入ればいいのか(笑)。それともゲージツってことで許されて
いるのかなあ。便利なものだ、ゲージツは。体制をぶち壊すゲージツでさえ、体制
に包み込まれる。それが「日本」なりき。。。。なんていいかげん。しかも、何故かダ
ンス関係者、舞踊関係者が目立っていた感じ。これも日本、か。演劇をやっている
人間こそ見るべき舞台だと思うが。。。。何でも「縦割り」社会、〈横断〉発想がない
んだよなあ、官も民も。ダンサーがたくさん出ているけれど、一貫してテクストが語
られ続け、これって完全に「物語る演劇」でしょ。
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