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自立した個人、を抱擁できる社会
2006年9月16日 日記より
小学生の校内暴力が激増している。昨年度は2018件、中でも対教師への暴力 が倍加。教師が黒板に向かって背中を向けた際に、ハサミや彫刻刀を投げつける などの行為など。授業中、注意をしただけで「きれる」らしい。原因に少子化などを マスコミはあげているが、私は根幹原因は違うところにあると思う。少子化は中国 でもヨーロッパでもある。少なくともヨーロッパでの体験では、日本のようなことは起 きていない。

この問題は、基盤にある日本社会の精神構造が大きな盤層となっている。その上 にいろいろな要因が複合的に重なる。いじめと自殺、それらは枝葉の現象として 表出しているもので、その盤層となる部分は戦前から続いて存在しているものだ。 たとえば戦前の軍隊内での執拗な私的制裁、連合赤軍事件で明らかになった、 「革命」集団内での私的制裁、教室内での執拗な私的制裁、コンクリート詰め殺人 事件で明らかになった少年たちのリンチ・・・。この異常なまでの「執拗さ」は日本人 の特殊性、などではない。日本人が陰湿で、裏表が激しくて、内面はどろどろして いて・・・、そういう問題ではない。構造の問題だと思う。それをヨーロッパに行った ときに一番実感した。オランダでは、子供は純真である。大人が子供に厳しい。そ してそういう大人に子供は憧れ、早く「大人」の一員になりたい、と希望する。丁 度、江戸までの武士階級の子供が早く元服して、いざという時には合戦に参加で きる「大人」になりたい、と思ったように。つまり早く社会の一員、大人の世界に入 りたい、という希望の光を子供に与えられたのである。今は、大人になりたくない、 社会の中に入りたくない、というのが日本の子供の本音だ。親や大人が楽しく幸せ に生きている「社会」に見えないから、子供は早くに絶望するのである。

江戸には子供のいじめはあっても一時的なもので、それは共同体内でのしつけで もあり、教育でもあり、「大人」になるための鍛錬でもあった。しかし、いまは違う。 一過性ではなく長期化し、その集団から離脱しない限り、いじめから開放はされな い。小学生、中学生の自殺はこうした環境、社会へのギリギリの抵抗の声である。

原因は制度としての近代システムと、建前でしかない自立した個人の尊重(西欧 近代の基本)、実態としての非近代社会とのギャップ、その裂け目に子供たちは迷 い込むのだ。子供は原因がわからないから、物事を「不条理」としてしか受け止め られない。その結果、様々な行動を表出させる。個人が自立していない未成熟な 市民社会、制度、教育、家庭、地域、政治、これらが一体となって日本がどういう 社会をめざすのかをはっきり定めない限り、解決はないだろう。明治は「富国強 兵」、戦後は兵、つまり軍国化の部分を経済、そして兵士は経済戦士にすりかわっ てここまで来た。これで国民が「幸せ」で生きやすい国になっていれば問題はない が、世界一の自殺大国が意味するものは、そうではない。「生きずらい国」を何よ りも雄弁に語っている。しかもムラ社会(非近代社会)はかつてはそれなりに機能 していたが、いまは「ムラ」自体が崩壊し、資本主義システムの進行で、個人は自 立ではなく、「孤立」化を深めるばかりだ。資本主義は当面、変わりようもない。そ れは個人の自立を求める。個人の心の拠り所は信仰や哲学、である。欧米ではこ れが機能している。が、日本人にはそうした心の支えはない。共同体(ムラ)が変 わりに支えであったが、それが崩壊したいま、新たな精神の支えを確立してゆくし かないのだが、そこが上手く行っていない。だから大人は「寂しく」、それを見た子 供は生きてゆくこと、人間のあり方に直感的に不条理を感じるのである。人が「寂 しい」と思う社会からの脱却、そのためのビジョン、方法論、哲学、それが必要な のではないか。

テラ・アーツ・ファクトリーの集団論、舞台の主題、はこういうことと直接的に関連し ている。よりよき日本の未来社会への提言的な活動、になりたいと思っている。そ のためには、つらいが自己の現状を正直に見据え、内省し、その負の部分から未 来への糸口を必死で探り出すしかない、と思う。



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