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アジアと西欧、近代

2006年10月7日
フィジカルシアターフェスティバル、インドネシアの舞台を見る。舞踊と身振りの混 合表現を探求しているグループらしいが、ダンス的だった。ただ、西欧のダンスで はなく、東洋武術的な動作も入り、ラストではインドネシア版「阿波踊り」、というか 始原的、土着的な身振り舞踊となり、ここら辺が彼らのアイデンティティー、の自己 証明、となのか。

日本人も海外に出ると、西欧的舞踊よりも舞踏などのように「アジア的」、あるいは 伝統を取り入れた舞踊が主流となる。西欧の観客がそれを期待するし、だからバ レエやモダンダンスの人たちでさせ、西欧では能面をつけたり、着物を着たりす る。ここらへんが私には??だ。だから海外では、そういう「伝統」は博物館の中に しかなく、現代日本の生きた現実はすっかり欧米化していますよ、その上で芸術的 に身体性、をわれわれは追及しているだけ、と言い続けてきた。

という目で見るとインドネシア人がしっかりバレエやモダンダンスを身に付けて、そ れを我々の前に披露しても良いのではと思う。たとえ西欧のものをそのままやって もそれをインドネシア人がやれば差異が出る。たとえばニューヨークのブローウエ イで、ミュージカル『キャッツ』を観たことがある。日本人ダンサーも混じっていた が、明らかに白人とは異質。伝統的日本ではないが、現在の日本、は少なくとも彼 の身体が体現していた。体型ももちろん違うが、所作がアメリカ人ではない。

文化的アイデンティティー(文化的自己継承性)、が20世紀末の西欧の演劇関係 者の中では叫ばれていた。ポストモダンの影響だろう。そういう会議や、ネットワー クの人々と何度もかかわった。しかし、ここで??が残る。それは、今の安倍総理 が主張する「教育再生」の中での「愛国心」や「文化伝統」・・・・何か戦後を無視し ていきなり戦前回帰するような、語り口への違和とも通じる。ポストモダンの果てに 「伝統回帰」って奴か。

我々(現代日本人)は西欧の制度の中で育ち、資本主義の世界で育ち、戦後民主 主義の中で育ってきた。科学技術の進歩で世界の情報を同時的に入手し、その 環境の中に生きている。そういう現代日本人を無視して、いきなり戦前回帰も伝統 回帰も、一体何を求めているのか、非現実的にしか思えない。つまり「ノスタルジ ー」、「古き良き・・・」という空虚なものへの依存。いまが空虚だから、過去に存在 の核心を求める、か。

しかし、問題はこれからであり、未来である。教育再生を考えるなら、現に高度資 本主義社会にあり、近代化をなした日本と日本人が、その上でこれから何が満た されていくのか、をきちんと考慮したうえで、「伝統」とか「文化」とか言って欲しい。 多少、そういうものに触れ、勉強した者としては余計に。


演劇(近現代演劇)、舞踊(ダンス)と呼ばれるものは基本的に西欧のものである。 インドネシアの舞台は、文明(あくまでヨーロッパ、キリスト教を文明と呼ぶなら)の 外にある「野蛮の力」(文明に対しての相対的な概念に過ぎないが)という図式を 描いて見せた。しかし、それ自体が、どうも日本人ダンサーが海外では、着物をま とって純粋和風、純日本風を演じてみせる、とどこが
違うのか、と思ったりした。

と同時に西欧文化の受容が、日本と他のアジアでは違う、ということも背景にある のを考えるべき、とも思った。植民地化による強制、あるいは中国や韓国のように 「遅れた時間」を取り戻すため、という都合によるもの、これがアジアだ。しかし、日 本は不平等条約解消というやむを得ない事情だけでなく、どこか無原則、無批判、 無思想的に「欧米化」に走った。

結局、日本人の心性に自律原則が欠落している。だから尊王攘夷を叫んでいた 人間が、何の思想的変節も示さず、開国欧化に180度転換できるのだろう。それ は天皇のために死ね、と教育した教師が戦争が終わると、これからは民主主義 だ、と同じ口で語りだしたり(むろん、職を辞した教師もいようが)、1968年、69年 に大学解体を叫んだ団塊世代が、そのまま髪を切り、企業戦士となり、高度成長 の機関車になってしまった。そして今の空漠とした社会を作ってしまった、ことと同 列である。


団塊世代・・・・、
映画監督若松孝ニに「連赤を撮らせたい」というちらしを見かける。制作費カンパ を求めるちらし。カンパしようかな。。。。ただし、これは団塊世代へのノスタルジー として上映されてはならならない。彼らこそ、見たくない、見られない、映画にする べき。直視したくないが、直視しなければならないような、そういうものしか意味が ない。私的には「連合赤軍事件」を団塊世代はきちんと総括せよ、と考えている。 そこをはずすと、現代の青少年の心の荒廃の大本が見えなくなり、未来の図を描 くのも、軸がずれたものになりかねない。

団塊世代の自己本位(私の演劇のキャリアの初期は、彼らとの闘いから始まって いるから、体験的にこの世代の連中にかなり批判的)はまた別の機会に触れたい が、援助交際もニートも、家庭の空虚も、教育の問題云々で教師ばかりが責めら れるのも、もとは彼ら団塊世代に行き着く。いつもスクラムを組み(キャンパスだけ でなく、会社でも、飲み会でも、組合でも)、塊となり、やたら説教を垂れ流し、「俺 たち」をいつも叫び、そして「俺たち」に入らないものを学生期は「反革命」とレッテ ル貼りし、果ては「おたく」にまで至る排除・・・・典型的な日本人の「ムラ共同体」の 継承・・・をやり、一方で会社では自己保身に走り、若年者の求職を抑えさせ、大 量の「ニート」を生み出し、いまは熟年離婚に怯え、娘、息子達からも尊敬されず に、退職後の「自己保身」に汲々とする。。。。。むろん、例外はどこにでもあるが。


アジア的、というものと、明治以降の日本人の「心性」との差、現代の日本人の空 虚な内面、とその経緯を考えつつ、インドネシアの舞台を見た、考えた。。。



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