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『ワールド・トレード・センター』を観て

2007年11月6日記

燐光群の『ワールド・トレード・センター』を観る。9・11と日本人。世界の一部であ る、が世界から外在化されている私たち。私たちは世界をどこまで知っているか? 私たちが触れられる世界とは?

ニューヨークの日本語新聞の編集室での9月11日。同じところ、同じいま起きてい ることのはずなのに、しかし詳細は衛星経由の日本のテレビを見るほうが早い。ア メリカに住みながら、アメリカの「外部」にいる日本人たち。これは東京にいたって 同じこと。地下鉄サリン事件の際、なにかよその惑星で起きていることのように感 じた私たち。その日、稽古があってメンバーの一人が事件のあった地下鉄日比谷 駅を経由するはずだったので心配したが、しかしそれ以上の実感は湧かない。

私たちが触れられるもの、それは観念の中でしか構築(再現)出来ないのか。今 はたくさんのメディア情報がこの観念を補強してくれる。だからかえって、私たちは 世界のそのほんの一部(たとえば目の前にいる人、毎日すぐそばにいる人、観客 にとっては舞台の俳優)とさえ、きちんと触れ合うことが出来ない。情報/記号の交 換だけで生きている、そういう「つぎはぎだらけの生の現実」を生きている・・・の か?

再現とは、今起きていることのように現実を模倣する。しかし、9月11日にNYで起 きたことは単一ではない。その時もアフリカはあり、インドもアフガニスタンもパレス ティナもそこの人々も生きている。「悲劇」の主役、ニューヨーカーだけがマスメディ アで世界中に流布され、その「悲劇」を悲劇としてブッシュは、「正義の闘い」を開 始する。日本はその戦列に加わり、「テロ」との聖戦が始まる。。。。まさにアリスト テレス流演劇の実現である。いや、観客は「行為」に駆り立てられる、という点では アリストテレス流演劇の革命的転換というべきか。観客(アメリカ人)は起きたこと を自分の「悲劇」のように体験し、感情を動かされ、怯え、恐れを抱き「戦争」に動 員される。

そして今。熱は醒め、別の現実が姿を見せる。より複雑な実相。9・11を上回るた くさんの犠牲者がイラク人にもアメリカ人にも続出し、無数の悲劇が無数の家族を 襲う。

出来事を単一化(「歴史」化)することが演劇、とするなら実体としての「9・11」(そ の後の展開も含めて)は演劇化自体が不可能となる。いや、実際に起きたことを 演劇化すること自体が矛盾。演劇はそこに対応できない。いや、演劇はあくまで虚 構である、虚構は現実のように複雑であっては成立しない、と物知りは言うかもし れない。演劇が対応するのは、単純化であり、断片化であり、主役(登場人物)へ の観客の感情移入のためには、複数の人間が複雑な人生をそこに現出させては ならない。俳優は全人格を生きる、ことをしたがるが観客にとってそれは紛らわし いと物知りは言うだろう。


劇として『ワールド・トレード・センター』は観客には不評だったかもしれない。「すっ きりしない」、「何が言いたいのかわからない」、「カタルシスがなかった」。しかし、 私個人は様々な「自問」が生まれた。やろうとしている意図は興味深いし、素直に 彼らの「無力」さも見えてくる。「無力」ゆえに、その現実を認め、しかし「無力」と言 って放棄せずに(社会に生きている以上、誰もが政治に無縁ではありえない)、そ こから立ち上がる勇気を、与えてくれるものでありたい。


世界で次々に起きる「悲劇」に何も出来ず立ち尽くすだけ、それでも、演劇をやっ ている者たちに出来ることは何か?声を出すこと、「発言」し続けること。。。私たち の抵抗の「武器」である身体、銃に撃たれればイチコロの身一つを「武器」に、か。


南アメリカで「被抑圧者のための演劇」を提唱し、劇場の演劇を否定し、民衆のた めの演劇ワークショップを開始したアウグスト・ボアールなら「演劇は権力の強制シ ステムを補完するものでしかない」と喝破するだろう。彼の目から見た、9.11とそ の後の「北米」の動きはどう映るだろうか?そして自分の場合は?

演劇が国家、あるいは統治者の権力維持機能(ギリシア悲劇自体が秩序、エート スの承認を前提に成立した国家事業である)を補完する機能を持っていることを 認識した上で、「脱」逆説的に何が可能であるのか、と思考をめぐらす。牧歌的に 「社会批判」としての演劇を唱える者がにわかに勢いを増して、最近は日本の過去 の戦争や歴史をテーマにする劇がやたらに多い。それはそれで構わないが、問題 は方法である。いかに演劇本来の、あるいは演劇が政治の下部にならず、芸術行 為として自立しながら世界(の困難さ)と直面しうるか。

1980年代には近未来ものが流行り、核戦争後の虚無がテーマになった。平和す ぎる、それが80年代の感覚。それが突き進んで、本物の戦争が日常的に(日本 ではテレビを通じて)毎日、食卓に運ばれる。この日常の中で、戦争は遠いのか、 近いのか?そのことと燐光群のWTCは無縁ではないように思えた。

少なくとも、今回の『ワールド・トレード・センター』は、そのスタンスの態度が否定す べきものではなく、正直な困惑に裏打ちされている分だけ、深刻に向き合ってい た、と感じた。



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