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欧州滞在記11月

工事途上


居住するためのもろもろの手配手続きが煩雑で時間がかかるが、
仕事をしなくていいのが何よりの贅沢。
住む所も決まった。とんでもない村はずれ、近くの店まで歩いて45分、
牧場の中の一軒家、画家のブルートさんの「離れ」をお借りすることに。
目の前には牛たちが、こんな田舎での生活は北海道以来30年ぶり。

時間はたっぷり、日本に居る時には考えれられないほどのんびり、過ごす。

1999年11月14日(日)
 
久しぶりにアムステルダムに行く。人混みがうっとおしいと同時に、恋しい。ホ テルオークラのヤマ$H料店に調味料などを買いに行くが、休みだった。 ウォータールーまで歩き、そこから商店街を駅まで歩く。黒の冬物セーターを デパートで買う。

ワッセナーの部屋が寒く、日本から送った荷物がまだ届かないので衣料品不 足に悩む。が、大概のものはこちらで入手できるし、安いからわざわざ高価な 郵送料を払うより、こちらで買った方が安いかもしれない。ただし、魚の網器 や日本の食料品は非常に割高。米はデン・ハーグの中国食料店で5kg30fl (1,500円)、ただし、カリフォルニア産の「錦米」。

1999年11月15日(月)

朝10時、RC(王立芸術学校)へ行く。

幾つかの教室に分かれ(いつもの4階の部屋の暖房が効かないところで)、生 徒たちもグループごとにミーティング。こちらから行動を起こさないと、何も起 こらないの。エバ(ギリシアから来ている女の子)の入っているグループが英 語でミーティングをしていたのでオブザーバーになってみる。彼らは自分たち で行動スケジュールを決め、調査をする段取りを決めていた。こういう状況で は生徒たちは自分で事を進めないとならないことを自覚する。

まさにフランス・エヴァース(友人、芸術学校の学科長)の思い通りだ。教師の 方も態度を変えなければならない。通常ならば、カリキュラムを決めてその通 り進めてゆくのだろうが。

1999年11月16日(火)

朝10時半、大家のブルートさんの車に乗せてもらい、ワッセナーの市役所 (村役場と言った方が妥当)へ行く。住民届けのため。

住民届けを市役所に提出するには、日本大使館で翻訳してもらった日本の戸 籍謄本に、オランダ大使館の証明印を押してもらわなければならないとのこ と。そのため今度はハーグの外務省へ行くが、12時20分頃となり、事務終 了。明日の午前にまた来いとのこと。何と手間をかけさせるのだ、とうんざりし てしまう。


そのあとブルートさんと中古車店(デッカー通り)に行き、手付金を払って確保 した車の残金の半分を出し、オランダのドライバーライセンスがおりるまで車 をキープしておいてもらうことにする。

ブルートさんとRC裏のカフェでお茶する。オランダは芸術(絵)を「無用の物」と 考えている、とブルートさん。絵を目指す者が生活していくのは困難とのこと だ。どの世界でも共通していることか。芸術と表現は人間の心になくてはなら ないものだ。しかし、生活の心配がなくなってはじめて必要とするものでもあ る。だから昔、生活の心配のない王侯貴族は芸術に熱心になれた。今、人々 はその日の生活で頭がいっぱいだ。どこに芸術という「潤い」の余地があると いうのか。


ブルートさんと別れ、このカフェでサンドイッチを昼食にとり、RCへ行く。エバー スと待ち合わせるが車がトラブったとのことで、一時間の遅れ。その間に日本 大使館へ免許証の翻訳依頼に行く。中年の上品な女性が対応、外事警察の 許可証の確認に関して11月19日に一応アムスに'出頭'した方がいいか尋ね てみる。オランダの行政は複雑な仕組みになっていて、担当者にもよくわから ないのではないか、との日本大使館の分析。日本大使でさえ、何度も現地役 所との往復を強いられているそうだ。

エヴァースと――、12月の企画に問題があったようで、深刻な様子。終わる まで待ってくれと言うので、RCの2階ロビーでコーヒーする。

エヴァースによると、300年の間、オランダのやり方は変わっていないとのこ とだ。交易は相手を信用しない、いつも天秤にかける。だから書類が重要だ。 何事も書類にして残す。何をいくつ、いくらで買ったか、そういう書類がこの国 にはボーダイに残っているとのことである。人を信用しないということが、法 律、行政、契約全ての基本にあって、これはキリスト教の「人間はすべて罪深 き者」という思想が基盤にあるらしい。

1999年11月17日(水)

朝10時ワッセナーをバスで出て、ハーグ駅より一つ手前のバス停で降り、巨 大な外務省の建物に入る。

昨日ブルートさんに連れていってもらった2F受付で、戸籍謄本翻訳の承認印 を押してもらうために来たのだが、ものの1分で(つまりただスタンプを押され ただけ)済み、外務省(オランダ)にお金を払うためだけに、こんな手間をかけ させるのか、と思い、改めて腹が立つ。


市内の本屋で、日系アメリカ人でドキュメンタリー映像作家 Ruth.L.OZEKIの 『My Year of MEAT』が何冊か店頭に重ねてあるのを見つけ買う。読み出 す。英語だ。英語の小説を読むのは(きちんと読むのは)初めて。わからない 単語は飛ばし、大筋をつかみながら読む。一気に100頁は読む。この1年間 で本を読む、それも英語の本を読むというのも良いかもしれない。日本ででき ないこととは案外こういうことかもしれない。

午後、ワッセナーに戻り、ワッセナーの市役所へ承認印付き戸籍翻訳書を、 昨日のやたら巨大なオランダ人の事務員に渡す。市役所の職員というよりプ ロレスラー、それも悪役の方が合っている男だ。「ウェルカム ワッセナー」と 市職員として新入者への'歓迎'の言葉をガラガラ声で言われる。妙な気分。

初めてここでの生活を始めた日、ブルートさんに案内されたスーパーへ一人 で行き、食料品を買って帰宅。4時頃に帰宅するというのも妙なものだ。要す るに'仕事をする必要がない生活'の全てが妙で、慣れなく、気持ちばかりが苛 立つのだが、のんびりする時間を1年間、天から与えられた、と考えれば、と ても贅沢な身分と言える。こちらの人間のようにゆっくりかまえればよいのだ。 どうも日本人のせっかち、あくせくしてしまう気性が染みついてしまって慣れな い。その点、睦子は大したもんだ。あせらず、ゆったりとかまえ、ここの生活、 ゆったりした時間の流れを楽しんでいる。

昼に購入した英文の小説を夜半まで読み続ける。

1999年11月18日(木) 雨

昨夜、ブルートさんが、車のことで嫌な予感がする、夢を見た(トラブっている) と言って、保険に入っておいた方がよいと、勧めてくれた。

こちらの保険や車検(APK)のシステムがよくわからず、また中古店の店主(こ いつも悪役のプロレスラーみたいな品のない男)が2日目に行った時に応対、 どうやら最初の日に会った男は主人に雇われている修理屋で、こちらの方が 店主のようだ。こいつは失敗したかと思ったが、すでに手付金を100fl 払って いるし、これは一種の賭けのようなもの。だから、迷わず残金の半分を払って 車を押さえたのだが)がくれた、APKに関する書類が何を保証するものかもよ くわからず(全てオランダ語)、この買い物が失敗であったら、これも「勉強料」 とあきらめることにした。10万円の車で1986年ものだから、ある程度修理費 をかけないと乗れない、と考えておいた方が無難だろう。

ともあれ「オランダ便利帳」に記載されている「ANWB」(日本のJAFにあたると か)に行ってみる。ワッセナーのバスでハーグ市内に入る手前まで行き、そこ で別のバスに乗りかえ、探しながら何とか見つける。突然雹が降る。寒い日 だ。

「ANWB」の女性は親切に対応してくれた。こちらの役所や警察、あるいはこう した公的な機関ではじめて'まともな'対応の出来る人間に会った、と驚く。ここ で保険の案内も出来るし、車検のチェックも受けられるということで少し安心 する。とにかく車を購入したのはよいが、そのあとの諸々の手続きが複雑な のと販売店が全くケア―せず、全て'買い手'が自分でやらなければならないと いう、ヨーロッパ式の「自己責任」スタイルの個人主義は大変だ。銀行の「投 資」における日欧の違いと同様の問題にもしかしたら直面しているのかもしれ ない。大変な'リスク'が伴うし、その'リスク'は全て本人が背負わされるというこ と。

こんなところで日欧の「文化の違い」を痛感する。それは人間の行動に対する 態度の違いであり、個人主義は人間をひどく孤独にさせる。だからこちらの人 間は会社より家族を大切にするのか、家族以外は全て他人、「外部」というこ となのだ。会社や仕事は自分自身の生活を補い、あるいは経済的に支える 手段以外の何者でもない。だから、たとえ役所や警察のような公共のための 仕事であっても、必要以上のことはしないし、そんなに仕事に責任や労力を払 うこともない。最低限やらなければならないことだけ、しておく。ということなの だろう。
 
R.L.OZEKIの『My Year of Meat』、出だしが珍妙で面白く、英文であるにもか かわらずどんどん読み進む。主人公は日米のハーフ。自ら「ハイブリット」の 「フリークス」と呼ぶ女性。アメリカに来た日本の典型的なビジネスマン(何とも 味気ない男だ。日本のビジネスマンとは、欧米の人間から見ると、仕事をのぞ けば人間的に何の面白みもない人種なのだろう。)とその妻の'悲惨'な家庭内 環境、'不幸せ'な結婚、そして'営利'だけしか追求しない彼の仕事に対する態 度と、この「アメリカの婦人」という番組放送を通じて、日本人の持つ固定観念 の「アメリカ婦人」あるいはその家庭ではなく、現実のアメリカの家庭を紹介し たいと仕事の中に'使命'を見出す日米双方の「種」を持った主人公の対比で 話は進んでいく。(約2/5のところ)

「ANWB」に寄って用を済ませたあと、再びバスを乗り継ぎ「トビアス通り」の日 本大使館へ。運転免許の翻訳が出来た。と昨日電話をもらっていたので早速 受け取りに行く。日本では役所の仕事は何てのろいのだ、と思い込んでいた が、こちらに来て、日本の役所の事務処理は何て素早いのかと認識をかえる ようになる。
 
一人でハーグのセントラルを歩く。本屋を2、3軒のぞく。新書と同時に古本も 置いてある大きな本屋をセントラルに見つける。演劇書の英文本もあったが、 シェイクスピアが多く、限られていた(ラシーヌの『イフジェニー』を見つける)。 もう1軒、「アメリカンブックセンター」をRAそばに見つける。

1999年11月19日(金)

朝9時、ワッセナーを出てアムステルダムへ。

外事警察に本来なら「出頭」する日なので、一応確認のため行ってみる。申請 の時に応対したポリスに説明すると、ろくに話も聞かず、赤い線に沿って行 け、と言う。すると待合所に行きあたり、そこに怪しげな麻薬の売人のような 顔をした「西洋人」、不法滞在者のようなアフリカ、アラブ系の連中がごそっと いる。

40分程待たされ、部屋に入るとパートのアルバイトみたいな長髪の品のない 男(こいつも役人)が応対し、説明をすると『何しに来たんだ、来る必要ねぇだ ろ』と追いかえされる。「公務員」の態度の悪さと横柄さに一日ムカつく。この 日、「明治屋」発見。エヴァースの家で小包から本をピックアップ。

1999年11月20日(土)

週末をのんびり過ごすことにする。生活態度を現地に合わせよう、頭をきりか えれば、あせることもない。
 
今日からブルートさんの個展はじまる。客が沢山来る。14時〜18時まで。家 の近くのアメリカンスクール(バカでかい)の米婦人バザールとやらに行く。

1999年11月21日(日)

ブルートさんの個展会場(といっても家の裏だが)に顔を出す。

夜、ブルートさんのお宅に顔を出し、奥さんともども談笑する。ブルートさんの 数代前のおじいさんとかが、スリナムで強奪された子供(そういう風習のある 地域がこの島にあったそうだ)を助けて育て、それがブルートさんの何代か前 のおじいさんになったとか。そう言われれば目の「かわいげ」にクリっとしたと ころはインド人の血筋が流れているかと思うし、オランダ人にしては小柄なの も、うなづける。

1999年11月22日(月) ハーグRC
 
RC(王立芸術学校)へ、朝、エヴァースがロビンともども車で小包を4箱運ん でくれ、そのままRCへ一緒に行く。

1999年11月23日(火) ブルート氏エキシビジョン
 
朝、エヴァースが荷物を一つ届けてくれる。14時ワッセナー市内へ。カフェに 入り、スーパーで食料品を買う。17時半にブルートさんのエキシビジョン(最 終日)をのぞく。

1999年11月24日(水) ライデン

15時25分のバス(43番)でライデンへ。商店街へ。HEMAで鞄を購入し、カ フェに入る。ご飯用茶碗とお茶用の碗を購入する。街を歩き、19時頃バスで 帰宅。

1999年11月25日(木) アムステルダム、フランス・エヴァース宅へ

雨。12時頃家を出て、アムステルダム、フランスの家で授業進行に関するミ ーティングをする。生徒のグループ2チームを担当することになる。明治屋で 買い物をし、19時に帰宅。

1999年11月26日(金)

14時40分、ワッセナー市内へバスで行く。警察で車の「APK」の件を聞き (本当に2001年1月までか)、市役所へ行くが、15時で閉まっていたので住民 票受け取れず。カフェに入り、スーパーで買い物をし、帰宅。(17時40分)

1999年11月27日(土) アムステルダム

朝11時、ブルートさんの部屋に顔を出し、レンタカーの相談をする。いつの間 にか長話になり、日本とオランダの過去の「傷」の話にまで及ぶ。オランダで は(ブルートさんの世代だろうが)反日感情が強いようだ。第二時世界大戦中 に収容所でひどい目に合った、ということだけが人々の記憶に浸り込んでい る。いろいろと説明をすると、ブルートさん、理解してくれる。 


昼(14時頃)、バスでライデンに出る。

駅の西側を歩く。レンタカー屋を捜すが見つからず、ランドリーを見つける。カフ ェに入る。ウェイトレスが少しインド系の血が混じっているか、あるいはスリナ ムの血が入っているのかエキゾチックな顔立ち、オランダのカフェではめずら しくウェイトレスが笑顔で迎えてくれる。

そのあとアムステルダムへ。「アンネの家」(初めてアムスに来た時に訪問)を 一時間程捜し歩き、やっと見つけた時には陽はとっぷり沈んでいた(17時 頃)。

そのあとライツェ広場のインド料理店へ。19時、明治屋まで行ってみるが閉 まっていたためトラムで「BiMa」の公演会場を捜す。地図を見ながらしばらくア ムステルダムの「足立区」あたりをさまよう。若干、通り名が違っていたよう だ。結局劇場に着いたときには始まっていたため、後半のみ観る。

1999年11月28日(日) ハーグ散策
 
こちらで知り合ったユリアさん(日系オランダ人)から展示会(漆器)案内の手 紙届く。

バスに乗ってハーグへ。商店街の端に少しモダンなカフェを見つけ入る。18 時53分ハーグ発バスで帰宅する。

1999年11月29日(月) ハーグRC、愛車入手!

朝、ワッセナー市役所へ行き住民票入手。

市役所の人間によると車の名義変更にオランダの免許証は必要ないはず、 と。新たな見解。はじめに行ったハーグの郵便局で必要と言われ、入手する ため日本大使館へ2度も足を運んだのに…。

とにかくワッセナーの郵便局へ行ってみる、とすんなり書類をくれる。一体この 国はどうなっているんだ。行く先々で言う事やる事が違っている。

12時、遅れてRCへ。ジョルジオ(レストラン「ポセイドン」の息子、ギリシア系オ ランダ人)のグループとヘルミール(アイスランド)のグループの担当をフランス から申し付けられる。すぐに彼らとミーティング。まず彼らのプランを聞き、タイ ムスケジュール、プランの英文での説明書作成を申し付ける。



15時、車を購入した修理工場(ガレージ)へ行く。その場で1986年型ニッサ ン・ミクラの譲渡手続きが済む。何とあっけなく車は入手できた。(今までの気 苦労は何だったのだ!?)

が、そのあとが問題。こちらの車は左側にハンドル、アクセル、ブレーキ、クラ ッチ(オートマチックはヨーロッパでは浸透していない)、右側サイドミラーなし (オランダは必要ないとのこと)…不安になってガレージを見ると彼らも(オー ナーと技術者)心配そうにこちらを見ている。

「ANWB」にTelし、保険入会。陽は暮れてきた。やばい。とにかくハーグ市内を 抜けなければ、と命がけのドライブが始まった。ワッセナーに着いた時には思 わず、運転の無事を神に感謝。ブルートさん、顔を出し奥さんともども「良い車 じゃないか」と言ってくれる。

1999年11月30日(火)

朝10時、ブルート宅に。リビングで談話。午後、ワッセナーのスーパーまで車 で買い物。たくさん購入する。やっと車が手に入ってワッセナーの生活も悪くな いと思えるようになる。とにかくこのアーモンストランチャの「我が家」は悪くは ないが、足の便が不自由でそのため行動が大きく制約されていた。

18時、ブルートさん宅に家賃を払いに行く。夜、突然エヴァースが最後のダン ボール箱(日本から送った荷)を持ってきてくれる。おお、服の替えやら生活必 需品やら、やっと揃い、これから人並みの生活が始まる。

まったく、「難民生活体験」の巻であった。



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