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1999年9月 出発前
大変な一年になった。3月公演が中止。
事後処理に終われる中、8月に予定していたクロアチア現地でのプロデュー
ス公演もコソボ空爆のあおりを受け、現地からいったん中心連絡が来る。
が、何とか実現、クロアチアに一ヶ月滞在し、現地俳優との共同作業を終えて
再び帰国。
その間に住まいと事務所の片付け。体調不安定。
ともかく25年間の舞台活動で溜まった荷物やら資料を全部整理し、栃木の倉
庫にぶちこむ。すごい量だった。まるまる3ヶ月を要した。栃木倉庫まで6往復
はしたか。
そしてようやく何もかも処分し、ヨーロッパへ旅立つ。もう二度と戻らない、そ
のつもりの旅であった。両親の新しい墓所も購入し、ささやかな墓を建てての
出発。
しかし、本来はフランスに行く予定だった。大学でもフランス演劇、文学、詩を
学び、アテネフランスにも通い、卒論はアルトーだし。なのにひょんな手違い、
からオランダに来る事になってしまった。まあ、ロンドンにもパリにもここからな
らひとっ跳び、のつもりでオランダにしたはいいが。
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1999年10月7日(木)
かって何度も立ち寄ったアムステルダム、スキポール空港に到着。
今回は今までとは違う、一年は日本に戻れない(その後も戻れないかも)「長
旅」になる。まずはいつもの空港ビル出口近くのビッグバーガーでコーヒーを
飲む。
6月から延々と続いた日本での引っ越しは事務所引き払いを済ませてから、
クロアチアに行き、『デズデモーナ』現地創作の一ヵ月を過ごして、再び帰国
し、今度は自宅の引っ越しと続き、ぎりぎり日本出発に間に合った。上落合の
自宅の引っ越しもかなり大変だった。最後に荷物のほとんどなくなった部屋で
時間を過ごし、レンタカーでバンを借り、成田乗り捨てで、空港へ朝早くに到
着。そのまま、レンタカーを返し、飛行機に飛び乗った、というあわただしさだ
った。
欧州第一日目は、かつて何度も宿泊したアムステルダムの「QUENTIN
ENGLAND HOTEL」に宿泊。フランスにアパートを依頼していたのだが、まだ
見つからないとのことで、今日は一日、ここに仮滞在。
ホテルで、日本でオーバーホールしたばかりのヴァイオコンピューターを取出
し、ハードディスクから保存ファイルを移そうとしたところ、ハードディスクから
「煙」が立ち上る!220V対応ではなかったのだ、このハードディスクは。
一年近くかけて作ったデータが一瞬にして霧と化した。いきなりの滞在初日に
「呆然自失」状態を体験。ソニーに修理に出して、バックアップ以外は全て消
えている。そしてソノバックアップがいま目の前で「煙」に変わった!絶句・・・。
これからの一年をこれは暗示しているのだろうか。
夜、フランス・エヴァース、ホテルに来てくれ、歓迎。一緒にホテル近くの市立
劇場カフェへ。
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1999年10月8日(金)
デン・ハーグ、HAGE HOTEL泊。
アムスのホテルを引き払い、フランスの車にヘビーな荷物を積み込んでRC
(王立芸術学校)へ。フランスから生徒のマイクを紹介される。部屋を探してく
れているそうだ(どうも、これから探すといった感じ)。
個人主義のオランダで人にものを頼んでも、お金を払わないかぎり、決して人
のために親身に動くことはない、と後ほどよくよく理解するようになったのだ
が、この時はまだ日本人的「人の良さ」をどこかで信じていたようだ。それが災
いするのだが。
一ヵ月くらい、仮の宿に泊り、その間に一年間住む場所を見つけたら良いとい
うフランスの意見に従う。フランスの車を借り、マイクが運転して、ハーグの北
側、海側に向う。マイクの心当たりのホテルは誰も人がいず、「個人旅行」ガ
イドに載っていた「ノルド・ズィー・ホテル」(北海ホテル、という意)に行く。
ここは北海に面しているのだと、何故か一人感激。そこは満室で、かわりに隣
の「ハフ・ホテル」を紹介してくれる。一泊130ギルダー(6、700円相当、この
時のレートでは。まだありがたいことに円高)部屋は広く清潔。電話線のアダ
プターが旧式でコンピューターに接続できない。ここはハーグ北方
「Scheveningen」(スフェニンヘン。オランダ語の発音は難しい!日本人にはと
ても発音できない。特にノドを震わすハ行がだめ。美意識としてダメだ。痰を
吐くような発声なんて下品で、そんなの出来るか!)このあたり、夏はバカンス
客でにぎわうとか。
スフェニンヘンの海外添いを歩く。冬(実際はまだ10月なのにもうすっかり冬
のたたずまい)空がどんよりとした冬空だ。北海はとても荒んだ印象。
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1999年10月9日(土)
Hage Hotel泊
ライデンに行く。ハーグから列車で10分。
名門、ライデン大学周辺を歩く。落ち着いた大学町のたたずまい。閑静な雰
囲気。アムステルダム、ハーグ、ライデン、オランダの中の三つの都市は同じ
国の町とは思えないくらい異なる。建築も景観も人々の雰囲気も。何か落ち
着きなく、品のないアムステルダム、政治の町でどこか冷たいハーグ、古い伝
統がそこここに生きているライデン。
市の中心部から歩いて、「出島通り」、「シーボルト通り」と名付けられた一角
まで行く。思った以上の距離。くたびれはてる。ヨーロッパの町は日本の同じ
人工程度の都市より広く大きい感じがする。
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1999年10月10日(日)
Hage Hotel泊
オランダでは土曜、日曜は時間が止まる。人々は週末は働かないらしい。従
って店もレストランも開いていない。ホテル暮らしの身では、食事をする場所を
探すのが一苦労。コンビニもないし、立ち食いそばもないから、どうにも困った
ものだ。
ハーグのユースホテルを下見し、日本大使館の場所を確認したあと、市立近
代美術館へ行く。この美術館には、ピカソ、ゴッホ、モンドリアンの作品が数
点、つつましく展示されていた。
全体にこの時期のこの国は暗い。いままで、この時期にオランダに立ち寄っ
たことがなかった。初めて来たのは、1993年。ベルギー、アントワープ公演
のあと、バスでベルギーからアムステルダムに来て、カフェに入り、アンネ博
物館に(私は行かなかったが)立ち寄り、そこからスキポール空港に移動した
ように思う。時期は12月。粉雪が舞っていたように思う。
その後は、飛行機の乗り換えでスキポール空港に何度か立ち寄ったが、この
空の玄関スキポールの近代的な装いにすっかり「だまされていた」ようだ。実
際には、まったく「非近代的」なところであったのを知るのはもっと後。日本か
ら来た者には、全てにおいて生活は不便さを感じざるをえなかった。彼らに
は、それしか知らないからそれでいいのだろうが、こちらは何かと比較するか
ら、たまったものではない。
こちらにきてからまだ数日だが、不安定な状況、一向に進んでいない居住場
所探し、暗くどんよりとした気候、などのため気分がすっかり落ち込む。オラン
ダを選んだのは失敗だったのか、何となく幸先の悪い感じ、予感。
Oさんから「オランダはヨーロッパ(パリ)でも、誰も相手にされない三流が落ち
ぶれて行き着くところ。文化のないところよ」とまで言われたのだが、その「忠
告」は正しかったのか?英文の演劇に関する情報もなく、オランダ語はわから
ないし、いったいどうしてオランダを滞在先に選んだのか(理由はあるが、そう
思いたくなる)。今更ながらユーウツな気分に陥る。
ハーグの日本食レストラン「すずらん」を見付け、とんかつ定食を。数日ぶりの
日本食、まともな夕食に、少し元気回復。
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1999年10月11日(月)
Hage YH泊
今日も天気は曇り、のち小雨。重い雲が空からのしかかってくるように頭上を
覆う。冬のヨーロッパの気候がこんなに、精神、気分に影響を与えるとは予想
しなかった。
この時期の北ヨーロッパの気候は人々に大きな影響を与えている。人間もど
んよりとし、重く活気がない。それがまた自分に強い影響を与え、気分が滅入
る。他にも接する人々、フランスの生徒の宿探しがどうなっているのか皆目見
当が付かない、など不安定要素が加わり、最悪気分。
午前中、ライデンに行き、「蘭日協会」なるものを尋ねてみる。ライデン大学の
「日本韓国学課」のスミッツさんが応対してくれる。彼の紹介で「インターナショ
ナルハウス」へ行ってみる。中年女性モーリーンさんが、家のことで親切に対
応してくれる。心当たりが一軒あるそうだ。
2時、RCのクラスミーティングがハーグの駅近くの美術学校(ロイヤルアカデ
ミー、ここに教室を間借りしている。新参の学課なので、ロイヤルコンセルバト
リーの校舎の方に教室がない)で開かれ、参加。40名の生徒に、日本から来
たゲスト教師の私。文化庁には「教師」では派遣資格が取れない。で、教育研
修名目で書類を提出している。が、こちらの対応は以前からゲスト教師だった
ので、今回もそういう紹介となる。すでにお馴染みの生徒も多数いる。
エヴァース、話は全て英語でやってくれる。私の滞在の趣旨、コンセプトなどを
生徒達に説明してくれる。日本にはきちんとした演劇教育を行なう学校さえな
い現状、演劇を狭く限定しないで総合的な芸術、人間教育の一貫として研究
し、このRC、インターファカルティーの「実験」を日本に反映させたいなど彼に
語った話、だ。一応、オランダを選んだのは、フランスの総合芸術学課、があ
るからだ。
オランダの気候がいかに気に入らず、オアランダの食物がいかにまずく、オラ
ンダ人がいかに無愛想だとて、それは二の次と考えなければならない。とは
言うものの日々、生活にかかわって来るものは避けようがなく、自分の精神の
領域に踏み込んで影響を与える。つらいところだ。
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1999年10月12日(火)
晴れ、ハーグYH宿泊
ハーグの日本大使館へ行く。
そのあと、RCへ立ち寄り、エヴァース、マイクを探すが見つからず。
午後。アムステルダムへ行く列車で一時間、結構遠く感じる。ヨーロッパの
冬、列車で夜、通うのは詫びしい感じがする。人々の表情も暗く、活気がな
い。
午後、ハーグセントラルの「イスタナ」というインドネシア料理店でランチ。安く
てボリュームたっぷりのチャーハンをメーンにしたランチを取る。
そのあと、滞在許可問題で、「外事警察」へ行くためアムステルダムに向う。
午後7時、フランスとレイチェ広場のアメリカンホテル前で待ち合わせ。外に出
ていたテーブルは冬のせいか、全て引き払われ、寒空のしたで待つが、30分
しても現われず。やっとフランス登場し、すぐ近くの彼の自宅に初めて行く。5
階建てビルの3、4階がフランスの「家」。
宿が決まらず焦りが募る。こういうことで足止めとはまったく予想外だった。ア
パートなどすぐ見つかると思っていたのが甘かった、というか思わぬ生活事情
の違いにショックを受けている。部屋を紹介する「不動産屋」というものが存在
しないなどと誰が想像したであろうか。日本ではごく当たり前の物ゆえ、「しま
った」という感じ。
とにかく、この国の人はのんびりというか、気長だ。逆に言うと、日本人は気が
短い人種、ということか。何もかもが、のんびりと、よく言えば「ゆったりとした」
「ゆとりのある」、悪く言えば、きわめて「のろまな文化」なのだ。とは言っても
ホテルの仮住まいの身では何でも不自由だ。
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1999年10月14日(木)
アムステルダム、ABBAホテル
ハーグのユースホステルからアムステリダムのレイチェ広場にも近いABBA
ホテルに移動。ハーグでは何をするにも不便のため。
RCでCDーROMをピックアップし、ハードディスク試してみる。幸い、接続が
出来た。また、部屋からインターネットもつながる。やっと目の前が少し明るく
なった。さっそくクロアチアのアレクサンダーとロンドンのベスにメールを送る。
「孤立」からの脱出だ。
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1999年10月15日(金)
アムステルダム、ABBAホテル
小田切さんにパリEXCOMの件で確認のメール。モリーンに宿の件、ロンドン
YHに予約確認のメール送付。
午後、ホテルオークラの「山里」でランチを取った後、エヴァースの家に行く。
エヴァース名義でノキアの携帯電話を契約。これで「外部」と、何とかコンタクト
が取れる。ふう・・・。
エヴァースとアムステルダム大学すぐそばのお洒落なカフェで談笑する。ここ
は地元の「先端的」な人々が集まる場所とか。11月、パリから帰ってきてか
ら、RC(王立芸術学校)で、週一回規模のワークショップをやってみようという
ことになる。
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1999年10月16日(土)
コンピューターのトラブル発生のため、一日中町を歩いて修理店を探すが、な
い。ソニーのバイオは、いやノート型コンピューターはこちらではまだ普及して
いない。
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1999年10月18日
アムステルダムからロンドンへ移動。東京にて手配しておいたKLM航空で。
Oxford CircusYH 宿泊。ついにロンドン出発前に部屋は見つからず。何もか
も調子が狂ってしまう。はじめにこれだと、はずみがつかない。コンピューター
も回復せず、外部との連絡もままならず。焦りは募るばかり。こんなはずでは
なかった、のお・・・。
10時25分初KLM、2時間遅れて出発。ロンドンに着いたのは1時半くらい。
空港のカフェ(パブのよう)で軽食。
オックスフォードYHは、場所は良いが、42ポンド(約8000円)の部屋は狭
く、シャワーもついていないのにこの値段。まったく日本料金並み、高い。ロン
ドンは物価が高い!たばこが4ポンド=800円なんて、ふざけている!
アムステルダムに長居してから、ロンドンに来ると、さすが「都会」と思わせ
る。店には豊富な電気製品があふれているし、ファッションも華やか、全てに
おいて、アムステルダムの比ではない。音楽、演劇、情報、商品、町の活気、
すべてにおいてアムステルダムに比べて「エネルギッシュ」、やはり物静かな
場所では自分は生きていけないことを痛感する。
アムステルダム=オランダを主要な滞在先に選んだのは、間違いだったか、
と心底思う(この文化庁の欧州滞在中、ずうっと、選択の誤り、に悩まされるこ
とになるのだが・・・)。まあ、問題は、選択をまちがったとして、それを自分に
有利に変えること、が重要なのだ。とにかくオランダは第一志望ではなく、たま
たま転がり込んだ場所。本来はパリに行っているはずだったし、ずうっとフラ
ンス滞在を求めていたのだから、いまさら悔いても仕方がない。それも「運」、
運を生かすしかない。
が、オランダよ。コンピューター(ノート型のみだが)の修理一つできないおま
え、不動産屋さえない、お前はいったい何物。ヨーロッパの「変り者」、異端と
いうほどかっこよくも、しっかりした何かもあるわけでなく、ただ「変」さが売り物
のオランダよ、お前の所にきたことを「恨むぞ」。
とにかく芝居を見たい。オランダにきてからまだ一本の舞台も見ていない。さ
っそく「Times」(ここでは情報を手にすることが出来る!これがオランダは問
題。何せ全て「口コミ」の国なのだから)を手にする。
オランダの良さももちろんある。近代、モダンを否定し、メディアの介在より、
人から人、個人と個人、のつながりを大切にする「原始共産主義」というか「原
始的コミュニティー」が残存しているし、産業革命の本拠地、イギリスはまった
くそういったものを払拭した地なのだから、全てやりかた、発想はモダンだ。
スチーブン・バーコフの名を見付け、さっそく出掛ける。ストランド通り(ピカデリ
ーサーカスそば)のプールバール劇場でスチーブン・バーコフの「EAST」を見
る。残念ながらあまり面白くはない。休憩時間に劇場を出る。
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