「イグアナの娘、たち」


2006年4月
(新)テラ・アーツ・ファクトリー 第2回公演『イグアナの娘、たち』、『フローター』


2005年4月の試演会を経、9月新テラ・アーツ・ファクトリー旗揚げ公演後の新テラ第二回公演として
翌2006年4月、ディプラッツ「MSAフェスティバル」参加作品として上演する。

2005年2月24日〜3月5日(上演まで13ヶ月)
ロンドン、パリを歩いてみる。


2月24日〜3月5日までロンドン、パリに行く。『イグアナの娘、たち』 のプランを日本から離れて考えるのが目的のひとつ。

旅の基本は<歩く>、街を歩く、人を歩きながら見る。建物を、街路 を、そこにある生活の表象を<歩く>中で眺める。ぼんやりと眺める、 ぼおーっと眺める、何気なく眺める、そして息を吸う、息を吸い込み、 からだの感覚を楽しむ。街が、すれ違う人が違えば、まず身体感覚が 変わる。それが日本より、他の国へ行ったほうが強まる。国によって ずいぶん違うから、更に身体感覚が鋭敏になる。ロンドンのストリート を歩くのとパリの町並みを歩くのではぜんぜん違う。まず耳に聞こえて くる音声・・・英語とフランス語の語感がまったく違う。そうしたことに敏 感に反応するからだ、が何かを覚醒させ、目覚めさせる。その「目覚 め」の感覚から、あるいは日本との差異、の身体感覚から、逆に<日 本>という場所が持つ特殊な「けはい」に敏感になる。その日本ならで はの「けはい」が地となって人々の行動、考え、趣味、好み、そして永 田洋子の生き方も現れてくる。あるいは、その「けはい」という<地> から浮かぶ<図>をイメージしながら、作品の「地図」を描いてゆきた い。

2005年2月3日 
試演会に向けて(公演14ヶ月前)

先週の木曜日に続いて集団創作『イグアナの娘、たち』の稽古。

<空間構成>の基本稽古と作品構想をめぐる話しあいをする。

私たちの集団創作は、出演者が企画者であり、作者でもあり、方式。 創作に当たっての「権力関係」を排除する、「民主的」創造スタイ ル。。。。誰もが作品自体に発言権があるし、責任もある、方式。だか ら最初の段階は時間がかかる。

それゆえ、最初は週一回ペース、続いて週二回、週三回。。。4月の 試演会で最初の試し、更にじっくり思考し、練り直し、試演を重ねたり してみて、2006年秋上演をめざす。


通常の芝居は戯曲がまずあり、配役を決め、本読みし、そして立ち稽 古と決まっている。だが、私たちは最初の段階を劇作家個人ではな く、出演者全員で考えるスタイルを取る。

だから、試しで作ってみたり、しばらく寝かしてみたり、横から眺めた り、その間に別のことをやったり、本を読んだり、そして再び集まり、再 検討してみたり、遊んでみたり旅に出たり、というじっくり「練り込み」ス タイルになる。


世の中、消費社会真っ只中、演劇さえ消費的。だから逆にじっくり手 間隙掛けて、出来上がったらレパートリーにして、国内はもとより海外 でも あちこち声がかかれば「出前一丁」、スタイルを取ろうと思う。 だ から「身軽」な、からだ一つあれば出来る、そういう作品を作りたい。余 分な金はかけない。<持たない>からこそ出来ることがある。

『イグアナの娘、たち』は同名の漫画のストーリーは無視し、タイトルか らのイメージをスタートに創造作業を始める。前回の稽古は、参加予 定メンバー(8名ほど)がこのタイトルに関連性があるのでは、という書 物を持ち寄り、それぞれが内容を紹介したり、何が面白いかを語り合 った。

で、皆も更にイメージを膨らませ、大雑把なアウトラインやら、アイデア やら希望やらを語り合った。


集団創作では、演出は従来の芝居作りと逆転し、「聞き役」に徹するこ とが要求される。聞きながら、先導してゆく、スタイル。出すぎても駄目 だし、遅れても駄目、という阿吽の呼吸で併走してゆく感じだ。

作品の軸としては「被害妄想」を通じて現代日本の状況(症状)をここ ろの側、こころに巣くう病根から捉え返してみたい、という方向、だが、 まだまだ始まったばかりで白紙に近く、その分、可能性は無限大 (笑)。

2005年3月8日(火)

「イグアナの娘、たち」稽古

連歌・・・「アンチゴネー/血」スタイルで。だいぶいい感じになる。
参加、松山、根岸、中内、上田誠子、入好、黒沢、横山  休み:う め、井口

連歌形式をたとえば移動しながらやる形、ある動作をしながらやるか たち・・・鉛筆を削る、芯を折る、また削る、などの象徴行為。パラレル に使う掲示板テクスト、これを書く、かき消す、を象徴、とかに応用、あ るいは転用する。語るほうは首の上を梱包・・自分を隠す。これはネッ トでの匿名投稿・・・という隠蔽された内面の露出、とリンクさせる。・・・ そこから「いじめ」「差別」「被害妄想」という展開に持ってゆく。

このシーンの背景、あるいは芯に永田洋子の書簡、総括文、あるい批 判書、日誌などをパラレルに使用する。

宿題:音をたてるもの、鉛筆削りを探してくる。顔を包むものを探してく る。今週中に。

2005年3月10日(木)
イグアナ稽古 OC

休み、佐藤和紅、黒沢亜希子
前回に続き、連歌を移動でやってみる。また顔を覆う形でやってみる。 奇妙な感じ、奇怪なものたちによる奇怪な行動に見えて面白い。

2005年3月15日(火)
イグアナ稽古 KC

音を立てる。繊細なシーンだが、それが表れていない。行為にさまざ まなテクストが表象してこない。まいこは根本が違っている。ヒューマニ ストの演技、あるいは慈善家の表現。底辺の演技ではない。根岸がや はり芯になるのがいい。今日は和紅と根岸のふたりに「日記を記す」 で中心にいてもらったが、和紅だと受験生。
まいこは、「喰えない」女。どうもセンスがいただけない。

2005年3月15日(火)
イグアナ稽古 OC

「りっちゃんの相談室 おたく女」のテクストをどう扱うか?からさまざま な質問をする。

おたくとは、アングラとはどう違うのか、死とは、人間性とは(今日の舞 台の話と絡む)、Mが耳学問を披露する。「・・だって」、「それは誰かが 言ったことでしょう」と林。横でうめがぽつりと「豆博士」とつぶやく。今 日の稽古で「音を立てる」をやった時、Mがやたら傘を開いたり閉じた りうるさく音を立て、それまでの「小さな音」全てを抹殺してしまった。う めがそれを指摘する。かなり明確に指摘したので、Mにはかなり効い たであろう。結局、この子は自己客観化、他者からの批評が不在だっ たのだと思う。

学生運動の話。
「どういう人がやっていたのですか?」、Mの質問に「演劇をやっている 人」にもいろいろいるようにいろいろいた、と答える。「話題になってい たから関心を自然と持った」、「私は流行とは無縁だから」、「流行とい うか、ただ世界の中心とは言わなくてもその一部にいたいと思っただ けでは」。当時も全く無縁だった連中はたくさんいた。それは流行とい う問題ではなく、ただ自閉していた、というだけ。

おたく女のことばに「空虚を感じる」(うめ)、確かに虚像を彼女は作っ ている。誰しも自分はこうだ、と虚像を作るように。今日の私は昨日の 私とつながっているかどうか、わからない。私が不変であると思えな い。私は曖昧だ。「私の脳をMに移植したらMはMか?」

終了後、OC近くの食堂にうめ、かおり、中内、佐藤和紅、根岸で駆け 込む。問題があるたびにこうやって話をしあう、そのためにはほどよい 人数である。これが集団形成の要である。

2005年3月18日(金)
イグアナ稽古

うめと電話で話す。今日の稽古はうめに任せる。みな、集団創作を理 解していない。林が提示したものがあるからそれを元に思考をもっと めぐらすべき。Mは考えが浅い、「軽い」ほうに、「面白い」ことに気が 行って、創作を忘れている。

今日見た『狂気』を見ながらいろいろイメージがかけめぐる。
「拘束着」の女が一人。「りっちゃん相談室」のテクスト。拘束着、ときど きぼそっと、何事かつぶやく。そこにぬっと立つ女、登場。無神経に音 を立てる。びくっとする拘束着。足音、さらに反応する拘束着。静寂、ノ ートを破る音、鉛筆を削る音。。。「ぶつ・・・」はじまる。
女性的な魅力を持つ女、きれいな衣裳。縛られる。服を破られる。「ぶ た」、「死ね」・・・拘束着の脳の中の記憶。。音を立てるビニールシート で覆われる、女。白いシーツをかぶる女たち。

2005年3月22日(火)
「イグアナ」、シーンを具体化する。
拘束着の女が軸になる。その「妄想」の世界。しかし、悪夢から覚めた ら悪夢は現実、のような感じで妄想は終わらない。。。。

2005年3月25日(金)
イグアナ稽古、KC・A

33分位までは、昨日のラインで固める。

その後、3人の女(「処刑の女」と命名)たちに「言虫」、破急の後、背 後に立ち、前へゆっくり前進。その際、永田洋子の日記、頭痛などの 記述部分を語る。重層的に、連歌、掲示板も絡めて。前で「言虫」、女 たち絞殺。動きはためを作って、リアルではなくクローズアップ。

「言虫」、事務的にシートを持ってきて、女たちを包み、蛆虫のようにが さがさとその上を這いばる。その際、赤い花、を撒き散らす。その音と 音楽高鳴り、言虫はキーワード(「革命」「処刑」「裁き」「埋めろ」などを リンクしながら高揚。被告(拘束着の女)、苦悶。金属音が一つ。静 寂、言虫静止。拘束着、はずれて、被告、ゆっくり「頭巾」をはずしか かる。暗転。悪夢から覚めたら、それがまだ続いている・・・・、感じに。

言虫の衣裳、処刑の女の前半部の衣裳を考える・・・香織
シートを作る。

終了後、クマノのmdでミーティング。うめ、かおり、中内、根岸、上田 誠子、黒澤、入好が参加。はじめはイグアナのプラン、テラのメンバー が残った後は、テラの運営方針などの確認をする。正式には4月の試 演会が終わってから、劇団総会を開く。

9月の藤野合宿の予定、テラの会計での一般会計と事業会計を分け る事、当面、「苦労」を重ね安易なことは考えないで行く方針、テラの 公演で、演劇関係者特に役者(キャリアのある)に関しては招待するこ と。努力の蓄積に対しては「敬意」を払う、お金が入ったからと言って (助成など)安易にばら撒きはせず、蓄積する。事業での赤字は事業 で補い、一般会計での蓄積(預金)は基礎資金として出来るだけ保持 し、事務所や稽古場、海外公演の軍資金などに投入する。

●連歌形式、空間構成は『ヌード』でも使うし、今後もテクストリンク、 言葉の重層化
(二重、三重、四重、五重と重ねる方式もこだわる)。方法論の確定。

<テクストとの関係の問題>
作家の自己表現=戯曲の上演ではなく、演出家の解釈表現でもなく。 集団創作では、複数の視点、複数の解釈の余白を作る。「一人の作 家の目」を排除して、集団の表現の可能性を探る。書かれたテクスト から生きられるテクストへ。書かれたテクスト、文字の固定化から、生 成されるテクスト空間=舞台空間の創造を可能とするテクストとの関 係を探る。

上演テクストのあり方、余白を持ちえる言語テクストの使い方と は・・・。

2005年3月29日(火)
イグアナ稽古

スコアーをコピーし皆に渡す。流れはこれでよい。あとはKの読みがだ め、身体の強度が弱い、などの問題。上田誠子はよくなっている。「掲 示板」テクストの読みもいい。MAは集団創作の流れが少し理解でき てきたのだろうか、落ち着いてきたようにも見える。

終了後、うめと二人でクマノのmdで演出「作戦会議」。雑談多し、現時 点では大きな問題はない。

あとは後半からラストにかけてのテクスト、永田洋子からの引用を絞り 込む作業がある。

2005年3月31日(木)
一日、休む。体調はだいぶ回復する。が、まだ外に出られる状態では ないので、「イグアナ」の稽古をうめにまかせる。スコアーの決まってい るところまで、実技面の練習をするよう指示。

永田洋子の『十六の墓標』の下巻に入る。森が加わり、組織内部はあ まりの「凄惨」でかつ「陰惨」な状況に陥るため気持ち悪くなる。まだ革 命左派だけの時には、どこか「のどかな」楽天的な面もあったが、森ら 赤軍派との遭遇で一気に「陰湿」な、まさにスターリニズム的な様相に 入り込んでいるのがわかる。が、それを許し、誘引したものが革命左 派にも、永田自身にもあったことも事実。上巻を読んでいる段階で理 解できたし、上巻最後の「処刑」の場面のあまりに安易に人を、仲間を 殺してしまう態度、「他愛のなさ」にやりきれなくなると同時に、これを 自然と受け入れさせた集団心理のメカニズムの問題、ある目的を持っ た集団が非人間化するプロセスを学ぶことが出来る。

2005年4月7日(木)
イグアナ稽古

かおりの案による衣裳、ぼろ着を重ねる案をやってみる。案外いけ る。

3人の女を「処刑」したあとの処理を試す。シートに包む、ばらの花び らをどう扱うか。。。。最後に、どこに行きつくべきか、それを皆で稽古 の中で考える、それが集団創作の面白みだろう。最初に結論、帰結 点がはっきりあると、思考作業が進まない。「考える」、それが一番の ポイント。答えはない。が、どの地点に持ってゆくか、それをきちんと提 示するのは創作主体側の責任、だ。

2005年4月8日(金)
イグアナ稽古 KC

『十六の墓標』の「はじめに」テクストと『獄中からの手紙』の日記テクス トをコピーし配布する。試し読みをする。これで使用テクストは決定。こ れをどう扱うか、使うか、が次の決定すべき課題。
中国で反日デモ再び。貧富の差の拡大による民衆のストレスが溜まっ ているのだと思われる。それと共産党政府の自己の歴史の正当化を 強調する政策に基づく反日歴史観が蓄積し、今回の下地になってい る、と思われる。先のサッカー試合での「反日暴動」の延長線にある。

2005年4月9日(土)
イグアナ稽古 OC 13−17時

「33分以降」に関して昨日、口頭で話したA案とB案をホワイトボード に書き示し、意見を聴く。A案が整理されていて一見わかりやすいが、 実際に大雑把な流れを試してみるとB案のほうが身体がしっくりくる感 じ。ここが大切か。

2005年4月14日(木)
イグアナ稽古  OC24

ビデオで撮影し、みなでチェック。やはり撮影すると大いに助けになる ようだ。
後半部を2度繰り返し、それから通しをやる。初めての通し。


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