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死と再生の国、トルコ
トルコから『アンチゴネー/血』へ。
トルコに行ってきた。初めて訪ねる地。
6月のメキシコは、 ITIの会議中心の渡航だったため、メキシコ湾に面
したタンピコ市という何の面白みもない町しか見られなかった「腹い
せ」と「悔しさ」もあってか、今回はエーゲ海から内陸まで旅をし、様々
な風景(荒涼とした大地、森のない山々)とギリシア、ローマ、更に古い
ヒッタイトの遺跡、そして長年の夢だったトロイの地も踏むことが出来、
濃密な旅となった。
一年間以上にわたるヨーロッパ暮らしから帰国したあと、三年ほど海
外は「禁止」にしていたのだが、メキシコで解禁してから、また放浪癖
が出てきたみたい(笑)、というだけではなく、新テラ・アーツ・ファクトリ
ーの活動再開へ向け、今後パイプを作ってゆこうと思う地域を特定し
たく、面白そうな場所(国)を物色に歩いている、つもりかな?前に触
れたエムレ君ともすっかり仲良くなり、彼もぜひトルコで公演してくれ、
と後押ししてくれているし。。。。。
でも、まずその土地が気にいらなきゃあ。次に相互に共通する関心を
持つ演劇人とつながらなくちゃあ、というのが林的活動スタイルなの
で、どこでも海外なら良いってわけにはいかんのよねえ。でも、今回の
たびでトルコは林のつぼにはまった。。。。
で、いま、創作を行っている『アンチゴネー/血』のことをあれこれ、日
本から遠く離れた地で夢想した旅でもあったり。新作は自殺志願者の
投稿サイトを舞台とした創作だが、「死と生」をこの荒涼たる大地を前
に改めて考えたり。。。。2、000年前から原型を留めたまま残る神殿
の柱を、彫刻を前に、たかだか100年程度もこの地上に居ることの出
来ない人間。そんな心もとない人間が、神々を創造した由縁が何とな
くわかる気がした。
『アンチゴネー/血』は「カルト的」な作品になると思うが、それは死とい
うものを題材にしているからか、あるいは死というものを日常から排除
したはずの近代の果てに、若い世代が感覚的に隣接し始めた死、が
日本だけでなく、世界的視点からも今後キーワードとなる予感がした
からか、あるいは昔から何とはなしに惹かれていた題材だからか、そ
のいずれかはわからないけれど、『アンチゴネー/血』は、われわれの
中に「膿」のように溜まる何かを吐き出す欲求と無縁ではない作品に
なるか、とは思う。
今回は最初の「試作」なので、序章的なものになるだろう。「実験・創造
工房」の枠の中で9月23日に、藤野芸術の家クリエーションホールで
上演する。いま、わくわくしながら、ぞくぞくしながら「もの作り」の楽しさ
を味わっているところ。
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2006年6月24日
試演会(2004年版)をたたき台に公演へ向かう
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9月公演の宣伝写真を撮影するため、いつもお世話になっている森さ
んのスタジオに。西新宿に自宅兼スタジオを持ってられる。それだけで
もすごい。観客を呼んで小芝居が出来る、と思ったり。そういうわけに
は行かないか。今回の被写体は吉永睦子。絵を描く彼女は舞台にも
立つが、宣伝写真のモデルは今回が初めて。
次回公演は『アンティゴネー』をメタテクスト化する『アンチゴネー/血』。
やはりアンティゴネーもジャンブダルクも(実はギリシア劇以前に、学
生時代、フランス語の授業で教科書に使われていたアヌイの『アンチ
ゴーヌ』が頭から離れず、アンティゴネーとアンチゴーヌがごっちゃにな
って「アンチゴネー」になってしまった。しかし本来の意味のアンチ(反)
の意図をより出したくて、というのもあり。。。です、この命名は。)
「反」、「叛」の象徴、とも読み取れるし、そうである以上、それは美しく
ありたい。世の中まるごと保守化している現在、「反」の勢力は消えそ
うだからこそ、「反」はことさら声を大きくしたい。で、演劇的には言葉で
はなく、身体で拡声するわけだから、フィジカルに美しくありたい。何だ
か、こじつけもひどいが、まあそういうこじつけである(笑)。で、森さん
の力のおかげで美しい写真が撮れた。やはりプロフェッショナルだ、と
感心ひとしきり。
さて9月公演のちらし、、表紙絵は吉永さんに描いてもらったおどろお
どろしい絵を使う。また、胎児。私のコンセプトは爆発する胎児がばら
ばらに血しぶきをあげる(えぐっ)であったが、さすがにこんな馬鹿な要
求は当然無視され、絵はきちんとした絵になった。で、裏面は描いた
張本人の写真、別にしゃれのつもりではないが、ジョークではアル
(?)。。。。。衣装を作ってくれたかおり、小道具(爆弾)作ってくれた
西君、応援にかけつけて撮影の手伝いをしてくれたあんこ、うめ、よし
き、岸、中内、ありがとさん。あ、写真のテーマは「自爆」です。
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『アンチゴネー/血』のちらしの色校正版が出きて来る。思った以上に
いい感じ、やった!!好きな人は好きでしょう。テラ・アーツ・ファクトリ
ーのちらしのコレクションをする人も出てきそうな感じ。独特の手作り
感。最近のちらしはコンピューターでお手軽に出来そうなものが多い。
演劇も手軽に作れば、ちらしも同様。「コンビニ演劇」の「コンビニちら
し」が多い。だからまずそれ専用の絵(今回は水彩画)を製作し、それ
を元にスタジオで裏面の写真題材も撮影し、で手間隙かけ、魂もさい
て作ったちらしは、同じく手間隙かけて作る集団創作スタイルの舞台
同様、大量消費社会真っ向から「アンチ」する態度の表れ、でもある。
印刷して出来上がるのは来週、それから折込などをする。ポスターも
一緒に作成。迫力ある、と思うな、ポスターは。
夜はテラ・アーツ・ファクトリーの稽古。7月に入って週3回集まり、基礎
稽古と基礎プランに関しての話し合いが中心。なかなか思うように進
まない。大いに壁にぶつかっている。集団創作、という体制がまだメン
バーの中に十分なじんでいないのと、どう稽古を進めてゆくか手探り
の状態。戯曲が先にあって、あるいは演出の指示に従って、そういう
システムが特に日本人気質と合うのだろう。容易にそこから出られな
いでいるメンバーたち。すでに一度形が出来ている作品だが、それを
「模倣」するのは安易。あくまでたたき台にして、まずは出演者が、そ
こから更に立案し提案する。これがなかなか出てこない。意見が出な
い。出せないのか。。。その状態をなんとか打破するにはどうすれば
いいか、藤井と二人、悩む日々。こっちが段取りをつけてその通り、や
ってもらう。それは手っ取り早いが、それでは集団創作にはならんでし
ょ。。。。待つ日々が続く。我慢比べ。。。
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テラ・アーツ・ファクトリーが新メンバーで上演活動を始めてもうじき一
年。20代前半の若者を中心にした集団だが、演技訓練は5〜6年以
上積み重ねてきた。しかし、演劇集団という組織活動を体験するの
は、初めてのこと。その分、みな手垢にまみれていないから、ここで純
粋に〈芸術創造〉を徹底する集団と出会い、舞台芸術家としての基本
姿勢が強固に形成されるのはすごいことだと思う。将来、この経験を
ぜひ活かして欲しい。そのためには何として継続してもらいたいし、辞
めるといまやっているこの労力と苦労が意味を失う。
が、テラ・スタイルの集団創作の創造経験をすると、他の団体に客演
する場合、物足りなさも出てくるだろう。しかし、今回の公演が終わっ
たら、2月の紀伊国屋ホールでの某劇団の公演、世田谷パブリックで
の企画などにも、あるいはもっと小さな規模の企画やワークショップに
も積極的に参加させたいと思っている。客観的な目で演劇、舞台、演
技、社会、世界、自分・・を見つめる広い視野を持ってもらいたいと思
うから。
今日はお盆休み前、最後の稽古だったが、演技者連中に稽古場を任
せた。で、ほぼ大枠が固まってきたので、今日は演技者が選んで来た
テクストの再検討、などを稽古後にいつものマックに集合して行う。
先週、今週と毎日、稽古後終電まで話し合い、をする。みなも、積極的
に話す、話し合いをするようになってきた。言葉を通じたコミュニケー
ション、日本人の一番苦手なところだが、表現者たるもの、これができ
なければ駄目だ。特にそのための演劇集団、という場なのだから。。。
自分がやっていることを自分の言葉で語ること。言葉では話せないか
ら・・・、という言い訳が日本人は得意だが、では、何で他人と脳の中
の情報を共有するのか?もちろん、最終的に舞台となったときは、言
語表現は最小限にしたいし、言語が表現する限界性のその先に突き
抜けてゆく表現をめざすが、そこに至るプロセスにおいては互いに頭
の中で考えている思考のプロセスも共有するべきだ。そのための手段
としてのコミュニケーションである。
25時過ぎ、山内、中内、そしてシーン2の動作テクスト(身振りのスコ
アー)作成を任せられた横山と佐藤が終電過ぎても打ち合わせは続
く。朝まで、かな。。演出(作家)が演技者を支配するのではなく、演技
者が自分の表現するものの作家であり演出家である、ためにはまず
演技者が自分の言語テクスト、動作テクストも作るべし。これがテラの
やり方。はじめは戸惑いもあるが、任せてみるとどんどん力量があと
からついて来る。責任が伴うからだろうが、こうしたやり方は演技者も
膨大な思考と時間を要する。そこがいいところ、他にはないテラの創
造集団としての本領かも。
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『アンチゴネー/血』の創造作業に関して、悪戦苦闘が続いた8月も今
日で最後。
8月中に大まかな目処を立てる!とメンバーともども死に物狂いの格
闘戦の日々が続いた。錯綜、紆余曲折、壁・・・、まだまだ先は続くが、
3/4のシーンはほぼ固まる。あとは、研ぎ澄ましてゆくこと。これから4
つに大きく分かれるシーンの最後の場面を構想、構築する作業。切り
口が「ええっ」という斬新さを持ち、それが命だから、詳細は事前に明
らかに出来ないが、頂上まであともう一歩!!がんばれ、みんな!!
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『アンチゴネー/血』新版、今日、何とか完成の目処が立った。今日は
久しぶりに肩が軽くなった感じ。かなりいけてると思う。表現の手法、ス
タイルも面白いと思うが、何より神経を使った象徴的表現の背景のし
っかりした裏づけや、即興的に作っているシーンの語句の絞り込み、
一行一行へのこだわり、動きの一つ一つへの配慮、思慮、高度なテク
ニックを必要とする箇所を妥協せず徹底する、など若いメンバー主体
だからといって、容赦はしない。
メンバーもきっちり、付いて来てくれる。もちろん、納得するものがある
からであって、理不尽であれば誰もついては来ない。だから、作品の
詰め、見ている観客は一瞬だから見逃すかもしれないところも、丁寧
に練り込む。ずいぶん時間をかけて話し合い、考え、テクストに関して
は全員が参加して作っている、文字通り、役者は演技だけでなく、創
作主体でもある集団創造の味が出ていると思われる。
全体に抑制し、抑えを効かしつつ、観客も決して飽きない。目で飽きな
いだけでなく、様々な舞台の情報によって、想像力のレベルでも飽き
ない、そういう作品になりつつある。
だから今日はほっと、する。長い、苦しい夏。そろそろ秋の気配もする
今日この頃。すっかり芝居作りで明け暮れ、今年の夏は過ぎてしまっ
た。
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あれこれ試しながらの現場はきついが楽しい。
あれこれ探って試行錯誤していた滝がようやく照準を合わせ始める。
すると稽古場は爆笑の連続。いい歳こいて、脂肪もたっぷりついた彼
(失礼)が、あれこれ必死で動くとおかしい。その上、佐々木君が女も
のの服を着る、脱ぐシーン、これも一同、腹を抱えて大笑いの渦。笑
いを取る舞台ではないが、人間の行動が実に不可解で、視点を変え
れば、実に奇妙でおかしい、ということだろう。
今回はユーモラスなシーンも盛り込まれ、しかし、笑いは目的ではな
く、あくまで主題と密接に絡んでのこと。とは言っても観客には理屈よ
りまずは目と耳と感覚のアンテナで見てもらいたい。
固めるところと、試すところを並行してやり、試しの中で行ける所はそ
のまま固め、固める箇所を少しずつ増やしてゆく。
何より、はじめから図面が決まっている通常の芝居つくりに比べて、試
しをこれだけ稽古場の中でやれる場はみなの意志が一致していない
と難しい。
その点で、これだけ試しを稽古場の中で重ねられるのは、なんて幸せ
なことだろう、と稽古後の飲み会でつくづく思う。
たいがいは労を、時間を惜しんで出来るだけ早く形にすることを考え
てしまう。つまり最短距離の稽古を、稽古場を作ってしまう。それのほ
うがやる方も面倒くさくないし。だからそれをやりたくない。
稽古場自体が実験の場であり、だから創造の場である、そういうこと
が可能な集団や場を持ちたいがためにやっている。それがいま実際
にそうなっていることに幸せを感じた一日。
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今日は一日かけて最後のシーンを作る。ほぼ形は出来た。
テレビで維新派の舞台を見る。「軍隊」、これが印象。動き方が全部、
イチニイチニ・・・。軍事訓練、のような動き。この演出家はニンゲンに
は興味がない。セットがあって人はセットの一つにすぎない。私には全
く関心のない世界だ。軍隊と同じ、人はコマにすぎない。大きな歯車の
コマ。そういう動き方、身体のとらえ方をしている。
演劇界には頭では反戦、などと言いながら体質的に軍隊的な立ち居
振る舞いを好んだり、集団の仕切り方は独裁、無意識の部分は権威
主義者、が多い。演出家は独裁者だが、通常・・・・。
が、それが嫌でテラは集団創作、つまり独裁体制が難しいやりかたを
する。何事も話し合いが必要、手間はかかるし、説得、納得を重視す
る。創作では上下関係を取っ払い、よりリベラルな集団形式を取る。
だから維新派はいわば敵である。あれは軍隊、つまり戦後の日本の
会社と変わらない。こんなものを喜んでいる自分自身の無意識の体質
をこそ知れ。いや、そういう人は自分では決してわからないものだ。思
わず、山本七平氏の戦争体験ドキュメントを思い起こす。
パパ・タラフマラ、維新派・・・・、もろもろ。これらはようやくニンゲンが
奴隷や下僕(神、王、貴族の)から解放された市民革命以降の世紀に
対する反動でしかない。
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午後から稽古、夜は初めてラストまで通す。
うん、作品的にはばっちり。構成はうまく行った。ラストにきて、なるほ
どと納得する。何が、っていうのが、おそらく思考の始まりだろう。理屈
では完全にわからない、 つまり舞台上の言葉でそこを説明しないし、
4つのシーンは それぞれ独立した断片にも見えるからすぐにはわかり
ずらいが、ラストにきて、思いの部分で納得する。それから何故、納得
したのか、それを知りたくて自分自身への内省、探る思考の旅が始ま
る。そういうことがかなりうまくいった作品になる。こうした舞台がやり
たい、というものが出来たことは確か。
ラストはまだ完全ではないが、ほぼ全体像が見えた。頭で(観念)であ
れこれ考えても、実際の舞台はそうはならない。実際にそこに身体を
置いて、感じたものを先入観なしに受け止めて、何が感じられたか、
そこから逆行して思考作業を進めるようにしている。
で、ラストまで通して、それを前にした自分の身体が、なるほどと納得
するものがあった、それもかなり強く。だからこれはいける、と判断し
た。
その「強く」感じた何かが、何だったのだろう、という思考の探索が、劇
場を去った後、観客の中で始まる、そういうものが良い舞台であると
私は考えている。
見た際には、理屈では完全にわからない、だけど「強い」何かに引き
寄せられる。感覚的にも情念としても、それが強ければ強いほど、何
故なのだろう、という探求の気持ちも強くなる。それが作品の強度だと
思う。
だから自分自身への内省、思考の旅が始まるわけだ。 そういうことが
かなりうまく仕掛けられる作品になったと思った。
こうした舞台がやりたい、というものが出来たことは確か。後は、まだ
詰めの甘いところが随所にあるので、これから最後のやすりで仕上げ
を完全にしてゆく。
『アンチゴネー/血』は2004年9月の試演でスタートし、2年の時を経
て、今日、ほぼその形が仕上がった、と言える。
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北欧公演ツアーに行っていた照明の福田玲子が帰国し、稽古場に来
る。今日も通しを一回やる。終わった後、食事をしながら福田と雑談。
照明で考慮すべきポイントはどこか、と聞く。さっそく彼女から指摘され
た箇所は、私が想定していた何気ない場所。一度見て気づいて欲しい
場所だが、普通の照明さんは一度見ても、だから10回見ても気づか
ない。さすが、歳は取っても(失礼、まだ若い?)鈍くなっていないので
安心。
まあ、だから信頼しているわけだが。これが普通はなかなかそうは行
かない。まず、わからない。誰でも気づくところは気づくが、そうでない
ポイントが幾つかある。それがそのシーンの「位置」を決定付けたり、
登場する人物の意味を意味づけたりする場合があって、なかなかなの
だが、そういうのを見抜ける照明家は演劇界では非常に少ない。
彼らはだから、こちらに常に答えを求めてくる。自分の全感性と思考を
通していないから、言われたことをなるほど、とうなづくが、結局、命令
された通りやる、という〈軍隊形式〉と変わらない。だからギクシャクし
たものになる(ちなみに軍隊には「命令」しかない、とは私の尊敬する
山本七平氏の体験談による)。
それにしてもフィンランド、ノルウェー、アイスランドと、行った国はなか
なか渋い。その国の国情、人々の様子で席は花盛りとなった。楽しい
ひと時、でした。
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気温が急変している影響を受けてか、2、3日前から持病の眼痛が出
てくる。目の奥から延髄にかけて、錐で突き刺すように痛い。これが出
るともうただひたすらこらえるしかない。
『アンチゴネー/血』、舞台の大きさを設定しての通し稽古。ほぼ作品
的には仕上がった。あとは、演技面を更にアップ。『イグアナの娘、た
ち』では、殆ど試演会で構成は完成したが、演技面でぎりぎりまで苦戦
した。技術だけでなく、思考力が問われる。これが今後も若いメンバー
の課題。作家の思想に依存するのではなく、一人一人、個々の演技
者の思考が左右する舞台だから、若いメンバーにはすごく鍛えられる
場になる。思った以上に、構成的に良い感じに仕上がる。今回に限ら
ず、時を改め、再び上演の機会を作ってみたいと思う。
早めに仕上がったので(構成面だが)、これから本番までの余裕は出
来た。パンフレット作成、スタッフとの打ち合わせなど、やることは一杯
あるが、十分対応できる時間が出来たのでありがたい。演技者は、ま
だ残っている個々の課題をクリアしていってもらいたい。
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眼痛が堪えられないほどの痛みに変わって、日中は何も手につか
ず、夕方まで休む。その間も思考は『アンチゴネー/血』世界を駆け巡
る。
で、夕方までにまだ稽古でクリアできていない部分(第4のシーン)をや
っておいて欲しい、とテラ女子陣に頼むも、結果的に夜の稽古で見せ
てもらったが、進展が見られないかった。時間が足りなかったのかもし
れない。が、アプローチの意識が甘いとも感じた。構成はいい、作品
「世界」はかなりハイレベル、主題も明確、しかし演じる者の思考、思
慮がついていけてない、では話にならない。自分が演じる(表現する)
なら、自分で何とかするが、他人に託するしかない演出という仕事に
歯がゆさを感じた。。。。もう一度、自分たちで自分たちの頭を使って、
考えてもらうことにする。問題は作品全体のとらえ方、そこから俯瞰し
てみた自分たちの〈位置〉への考慮、そこがアプローチする場合、の
具体面(演技、発語、居方、行為行動、身振り)での基本方針を生み
出す。演出が指示してその通りやる、ではロボットに過ぎない。何とか
するのは本人たちの力で、どこを何とかして欲しいのか、の指摘はす
る。そのためのあれこれのヒントは演出が提示する仕事。それをどう
料理するか、それは演技者の仕事である。
稽古後、演技者でかなり突き詰めて話し合いをしたらしい。思考が深
まったようで、明日の稽古が楽しみ。10回くらい公演をして皆がどのく
らい成長するか(思考レベルで)、そういうことを目指して活動をしてい
る。今のテラのメンバーには十分、成長の可能性を感じる。先が楽し
み。もちろん、10回先、と言ってもそれまでのんびりやっていては進歩
は生まれない。一回一回、課題をクリアしていかないと。だから真剣勝
負、一期一会でのぞむ。。。。
以下は、一般論として
質、量共に有能な人材が少なくなったのは事実だろう。理由は勉強を
していないからだ。あるいは学ぼうという姿勢、努力が不足しているか
らだ。演劇界の話だけではなく、日本社会全体のことだが。だから結
論が早い。すぐきれる。中国で靖国問題への批判があると、その根幹
の問題を考えずに、表層だけで反発し、排外的になる。
勉強不足、演劇の世界で言うと、たとえば言語で語っても伝わらない。
勉強していないから教養が欠如しているし、思考力が極端に落ちてい
る。いや、思考の方法がわからないと言った方がいいか。。。。
アルトー、グロトフスキー、デリダ、メイエルホリド、世阿弥、フーコ
ー・・・・、これらは学生時代に読むべき基礎教養だと思うが(少なくとも
演劇、文化系なら)、いま役者をめざす連中で読んでいる人間は殆ど
いない。本を読まない、難しいものには手を出さない風潮ゆえ?だか
ら読め、と言っても言語世界の修練がなく、「感覚世界」(ムード、気
分、フィーリング)で育ってきているから、言語理解能力の基礎自体が
なくて読めない、理解できない。
テクストも象徴的、観念的、形而上的な文言は手に負えない。わかり
やすいものしか発語できない。演出からある言葉を語られても、その
象徴性や暗示するもの、含意、含蓄、それらが理解できない。日本の
様々な現場で外部の俳優、役者、スタッフたちと交流したり、仕事をし
て、その驚くほどの不勉強、知性の欠如、自分を磨くこと(知的に)に
対する怠慢さにしばしば唖然とし、絶望的になった90年代の実感。
その分、海外では救われることがしばしばだった。舞台人はたとえ若く
ても教養人であり、知識人でもあるし、学生でも対等に議論が出来
る。自分の考えをしっかりと持っていて、その裏づけを言葉で伝えられ
る。要するに芸術家としての自覚と精神的、知的自立がきちんと形成
されている。
「自分の考え」は日本人の若者もあるようで、しかし「その考えの根拠
は」、と問うと全くあとが続かない。「いや、何となくそう思う」だけだ。こ
の調子で最近は何となく若者は右翼気分、なのだろう。右傾化が顕著
なのと思考力の欠如はパラレルである。思考が欠如し、学ぶべきこと
を学ばない人間が増えたとき、国は滅びる。
とりあえず昨日の「シアターファクトリー」のワークショップで新人組(20
歳〜21歳の若者)には、20世紀の傑出した演劇人、書物に関して調
べて置くようにと宿題を出す。アルトー、グロトフスキー、カントール、ピ
ナ・バウシュ。だいたいこのレベルのものを演劇に関わろうという人間
が名前すら知らない、というのが唖然とする。絵を学ぶのにピカソもカ
ンデンスキーもゴッホも聞いたことがない、と平気で行ってしまうような
ものだ。が、それが日本の演劇の世界の実態である。
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『アンチゴネー/血』の通し稽古も今日で7回目。
今回の舞台の完成度はかなり高い、良い作品が出来た、と何故か小
屋入り前にして、気が楽になっている。新しいテラの代表作になるだろ
う。
新メンバーのテラで活動を始めて5作品目。ようやく思うことが思うよう
に出来る集団になりつつある。技術面でも思考面でも。
自分が単独で構成・演出をするのは、前回上演の『イグアナの娘、た
ち』に続いて2作目。正確には『アンチゴネー/血』を最初に試演したの
は、2004年9月の実験・創造工房で、『イグアナの娘、たち』は2005
年4月に最初の試演だから、「アンチゴネー」が7年ぶりの「日本復帰」
第一作(テラ・アーツ・ファクトリー公演として)、と言っても良い作品だ。
通し稽古も今日で7回目。
通し稽古によって、全員が作品全体を俯瞰できる。今回の作品は現
代日本の社会の基層の問題を、一つの切り口から鋭く俯瞰したり、再
考する契機を与えるものになっている。
今日の通しでは、作品の柱、芯がしっかりしてきた感じで、太い幹が舞
台を支えている感じが伝わってきて、見終わった後、強い手ごたえを
感じる舞台になっていると思った。象徴性や暗示に富んでいる分、わ
かりやすくはないが、決して難解でもない。誰でもが共有できるもので
ある。演技やパフォーマンスも楽しめるから、見飽きないように出来上
がった。
あとは観客がどれだけそれを持ち帰り、「そこ」から思考を発展させて
くれるか、それ次第だろうが、上演側としては十分、観客に仕掛けられ
ている「能動的」で、アクティブ(観客席側に関して)な作品になってい
ると感じた。
抽象度の高い語句は、感情やテンションで入り込めたりする芝居のセ
リフに比べ、はるかに演技者の力量が問われる。
通しを繰り返し重ねることで、演技者個々が全体を俯瞰し、それぞれ
がキャッチしたものを背景に、もう一度冷静に個別シーンの「位置」を
把握し、そこから個別演技や発語、身振りへの〈態度〉を明らかに出
来たとき、舞台は演技者個々の「意思表明」(コメント)の場となりうる。
その〈態度〉の強度こそ、作品の強度だ。だから舞台は演者次第、演
者が主体であり、そこまできて初めて演出家や作家のものでなくなり、
演者と観客が作り出すものに「変成」されるのだと思う。かなりそうした
ものに近づいている。自信を持って、観客に提示できるものに何とか
仕上がった。
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最後の通しを終えていよいよ小屋入り。
今回の出来はこれまででもサイコーと勝手に自負。 前回、前々回作
を見た観客は、今回の作品を見ることで、 前の作品も更に見えてくる
ものがあり、更に面白いのでは。
で、観客用資料を書く。演出があれこれ書と、 舞台を説明してしまう可
能性があるから、あくまで「主張」は舞台で、資料では参考程度と思
い、 何を書くか悩んだが、やっと書けた。
タイトルは「死者を弔うのは誰か」、気づくと4000字の小論文になっ
た。まあ、作品を作り始めるまでの経緯に関しての記述で作品内部に
は触れていないので、いいだろう。
アンチゴネーは法を巡る議論の劇である。人為法(国家の法)と自然
法の対立の劇。
それを参照しつつも、現在の我々の社会(日本)を取り囲む問題を主
題に、一つの切り口からかなり意表をつく展開で深入りする。
この舞台はみな再演して行くつもりいる。稽古場の雰囲気もいい。作
品がつまらないとまず最初に出演者が醒めてしまうのが現場だ。今回
は、もうみな再演する気でいる。好きな作品になったのだろうし、良い
作品だという手応えが強くみなぎっているからだと思う。
稽古場に何人かの擬似観客を呼んで見てもらうが、みな一様にすごく
面白い、深いけど楽しめる、これまで以上に作品の拡がりを感じる、な
どと絶賛。
残念ながら、時期的に(連休でもあるし、夏最後の終末だろうし)数あ
る舞台に埋もれて、今回、見に来る観客はわずかに過ぎないだろう。
が、良い作品をうずもれさせたくない。観客に触れる機会を作る努力
はこれからのテーマでもある。自信作は繰り返し、やるしかないだろ
う。
繰り返しに耐える作品になった。題材は普遍性があるし。
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今日の夜ソワレー公演でやっと初日が出た感じ。途端に、観客の反応
はかなりうなぎのぼり。
問題だったのはテクニカル面。
シーン3の女性陣による動作表現の背景で、パラレルに中高生の自
殺サイト(出演者によるテクスト創作)が淡々と読まれるシーン。本来
は、演技者と平行して、読み手が深夜番組のディスクジョッキーのよう
に語る(試演会版)予定だったが、狭い小屋の中でスペースが取りず
らく、背後の幕裏で語ってもらうことにしたのだが、スペースの音響とマ
イク自身の音質の問題、更に語り手が喉を痛めて、声がかすれ本来
の魅惑的な声(内容が自殺なので、声が陰湿でないほうがよい)が、
ちょっとつらそうな声になっていて(声を出すのが難儀ことによる)本来
の効果が狙えなかった分、演出的には頭を抱えたのだが、声も今日
の夜には少し回復し、マイクの音質も何とか調整でき、するととたん
に、このシーンもよみがえった感じで、 丹念に構成面で練った作戦通
りに、全体が運んだ。
声、質感、動作表現、言葉、構造、「アンチゴネー」世界との間合い、
非演技的演技、行為表現、アルトーの引用、これらの計算の歯車が
合って、今日のソワレーでやっと演出的に満足できる舞台になった。
途端に観客の反応も更に良くなる。
演技者に関しては稽古場で十分、演出の意図が浸透できるがスタッフ
ワーク(照明とか音響とか)は小屋に入ってからしか出来ないから、演
技や演出との調整に手間取る、こういうタイプの舞台はここが難し
い。
これまでは、スタッフ関連が舞台と一致してくるのが、やっと最終日の
最後の舞台辺り、そこまで直しに直し、説明に説明をし、くたくた状態、
それでも満足行く状態に行くのは難しく、演技者陣の奮闘が十分生か
される前に公演が終わる、感じだったが、照明の福田さんも今回は二
日目でほぼ演出の希望とのずれを修正してくれた。
これから一ヶ月のロングランなら、尻上りに出来も評判も良くなるのだ
が、そこは悔しい。
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