「ノラー人形の城ー」


2007年7月
(新)テラ・アーツ・ファクトリー 第4回公演



2007年2月21日
テラの稽古日。

稽古というか、現在は創作プランニング中心。それぞれが考えてきた 案を試してみたりって感じ。

戯曲がある場合、それが設計図で、演出の仕事はそこからどう観客 に戯曲で描かれた世界を提示するか、あるいは自分の考え(思想)に 変奏して見せるか、を考えることなんだけれど、テラが今やろうとして いる集団創造は、シーンを皆が平等の提案者 となって考えてゆく。の で、それを「編集」する構成者、が演出の主な仕事、といったところ。だ から、今は皆のやっていることを様子眺め、している。し、気づいたこ とやそこで何か案が浮かんだら、すぐに言って試してもらう、ような感じ だ。まあ、はじめに基本の方向やどこに持ってゆくか、課題、などを具 体的に出して、それにもとづいてみなで創作してゆくわけだから、編集 者と言っても、編集者次第で「本」(舞台)の意図も内容も変わるから、 作り手である集団メンバーの「船頭」役でもある。そして一緒に掛け声 合わせながら、同じ船に乗って一つの岸に行くために、皆で力を合わ せて櫓をこぐ、そんな感じかな。

今日は『ノラ』の7月公演を念頭に、具体的なものを使って試してみ た。その後、私から提案した作り方のサンプルを試してもらうが、これ はかなり行けそう。面白い。基本コンセプトはイプセンの女性主人公ノ ラを念頭にしつつも、あちらのノラは女性の自立よろしく家を出るわけ だが、現代の「ノラ」は「私はここを出ない」、である。だからイプセンと は逆行というか、イプセン的近代主義、に疑問を出す形になる「ノラ」 だ。それに昨年見た、ベルリ ン、シャウビューネの「ノラ」のラストも何 それ? って感じだったので、ドイツに宣戦布告、というほど大げさでも ないが、かなり刺激的なコンセプトではある。で、あとはどう料理する か、それが問題じゃが。。。。。

まあ、稽古は抱腹絶倒、ナンセンスの極み。もっともっと行けるわ、こ れって感じだった。サイコーにおかしい。。。この「ノラ」は。

2007年4月21日
7月の『ノラー人形の城ー』に向かって、エンジンをかけ始め る。


まずは「テラ通信ー春2号」を作った。5月の企画と7月の公演情報を 載せる。つづいて、ちらしの作成。宣伝キャッチコピーが決まる。どうし ても最後の一語が決まらなくて、古語辞典やら、 図書館で俳句集など を探すが見当たらない。日本語(現代の) って、コトバが圧倒的に足り ない。用事はある程度、それでも済ませられるが、芸術表現に関わる ものになると、ホントない!まあ、自分の言語力不足が大きいのだ が、しかしやっと、唐突に思いついた。これだ!という奴・・・。残念なが ら、最近では生活の変化からもはや死語に近い。それでも説明する と、若い子も 「ああ」と気付いてくれるのでコトバとしてはぎりぎりセーフ か。種明かしすると・・・・「<匿名の私>の発するコトバが・・・」ぐるぐ る駆け巡り、群れ集い、やがて一つの糸のようによりを束ねて集まり だす。それを表現する日本語、しかも動詞・・・・さて、何 だろうか。


答えは「綯う」(なう)、である。縄を綯う、の綯う。いく筋ものよりを結ん で一つに束ねるの意味。「<匿名の私>の発するコトバが、カラダを 綯う」、この文字が吉永さんの絵のまわりに絡みつ き、という絵にな る。久しぶりのヒット! まるまる二日、この一語をひねり出すのに苦 しんだ。コトバは難しい。。。。


さて、『ノラ』創作に向け資料の本やネット関連記事などをあれこれ収 集しはじめる。これから連休にかけて、テクスト作成、編集のため資料 の収集に集中する。これまでと同じように「裏世界」 (アンダーグラウン ド)な世界、が背景となり、前面に出てくる。 娼婦に関するもの、フーゾ ク関連で働く女性たちの生の声、 事件、犯罪・・・・、小生の専門分 野?

2007年4月29日
チラシ作成のための二回目の打ち合わせを奥秋氏、藤井、吉永、中 内とともにする。チラシはそれ自体、一個の美術作品であり私たちの 表現作品であると考えているので、絵、文字データ、 構成、デザイン、 全てにこだわります。で、コンピューターのサンプル画像を前に幾つか の案が出て、頭の中がパラサイト崩壊寸前状態に。


で、『ノラ』の音楽家候補、三人のサンプルCDが届いたので、そ れを 聞きながら、頭の回線は超日常ワールドへ。それもあってか、迷宮に はまってしまった(笑)。

いや、きっとまたいい「作品」に仕上がります。テラのチラシのファンは 多いから頑張ります。実際、後々に残り、チラシ展が行われても耐えう る、そういうものをめざしている。で、問題は裏面に掲載する文言。明 日がデッドライン。よくあるパターン(芝居の物語説明や観客感想、劇 評を載せるなど)は却下。文字も遊ぶつもり。で、主題と関連するも の。。。。必死で考えなきゃあ。連休、なんて関係ない日々、である。頭 使うなあ。頭が綯(な)う、 いや縄で縛られる、って。

2007年5月6日
日曜日、今年の連休は何となく連休の実感もなく過ぎた。

連休中に開催された日韓演劇交流センターの会合では、役員改選と 規約見直し。で、規約の下案を次回の委員会までに作ってくる担当に なり、あわてふためく。こういうものの文言って、領域外だから困ったな あ。。。。

夜は、21時から近くの西新宿ジョナサンで遅くまで藤井と今後の稽古 の進め方、作品作りを巡って打ち合わせを行う。

テラ・アーツ・ファクトリーの基本ポリシー、態度に対しての確認、のよう な話にもなる。観客に対してどういう姿勢を取るか。受けを狙ってはな らない。受け入れらるかどうかではなく、信じることを貫く、そういう姿 勢を持ちたい。客受けする芝居の作り方は、はっきり言ってある程度 の文法を知れば、それほど難しくはない。それはゼミの卒業公演でい つも示している。ゼミは演劇初心者が舞台を経験する場だから、出来 るだけ演劇の基本をやることにしている。結果的に観客には大好評。 つまりそこそこ行ける脚本があれば、あとは演出が手品をかけてそれ なりの良品に仕上げられるのである。役者が素人でも、アマチュアで も、役 者がやる気があって、演出がしっかりしていれば良い舞台は出 来るのである。

演劇には基本的な幾つかの基本的なテクニックがあって、それを組み 合わせると、観客が単純に喜ぶ芝居はかなりの確率で出来上がる。 それを(テクニック、観客受けする文法)それなりに学んだ。特に20代 で勉強した歌舞伎は、観客を惹きつけるための多くの基本知識、テク ニックを教えてくれた。

しかし、テラは一貫して、それを捨てる。つまり作家、演出家の才能や テクニックで作る舞台を捨てる。これは難題である。

俳優、役者、演技者が表現者として生きている舞台、だけでなく、彼ら /彼女らが作り手、である舞台をめざすとは。。。別に、 かわったこと をやろうとは思っていない、素直なこと、正直なこと、素朴なこと、をや りたい。その過程を大切にする、集団作業 を行いたい。

結果としての上演ではなく、その過程の「集団作業」の方に、上演に至 る長い期間(テラは1年とか3年とか、そこに辿り着くまで 時間をかけ る。題材探し、資料探し、思考、あれこれ含めて)を大切にしたい。そう いうことを行う場が、可能とする場が、私が 考える「演劇集団」の理 想。観客に受け入れるためにやるか、自分の理想を優先するか。9 9%は、人々に受け入れられるこ と、評価されることをめざす。結果 (上演)が全て、だと言う。それは否定しないし、またその気持ちはわ かる。が、私はだから そうではない1%の存在があっていい、そう思 う。

2007年5月9日
昨日火曜はテラ・アーツ・ファクトリーの定例稽古日。連休明け早々の 稽古で、連休中に皆に提示した課題の発表。終了後、作戦会議。稽 古後、稽古場近くの西新宿もうやんカレーに。皆でここのぼりゅーむ一 杯カレーを満喫。そのまま演出的な打ち合わせを横山、志村とする。 今日、皆が出した案を受けつつ、また二人の意見も聴きつつ、次の稽 古(私は名古屋にいて不在につき)で何をするかを私から提案する。

皆の案はまだまだだが、「集団創作」スタイルの実体化を集団の生命 線、基本ポリシー、めざすべき方向とするテラ・アーツ・ファクトリーの 一員として、少しずつその自覚、態度、態勢が出来てきていると思う。 一歩一歩、のカメの歩み、でしか物事は進まない。出来ていないこと は一杯あり、出来たことはわずかかもしれないが、その「わずか」を良 し、としよう。決してゼロではない、そこを(そのわずかではあるが確実 な進歩を)大切にしたい。

こういう慣れないこと(作品の骨格、台詞、方向、つまり劇作家、演出 家が通常先行的、超越的に行うこと、メンバー皆で考えるスーパー民 主主義スタイル)、<集団創作>がテラのメンバーにとって、まだまだ 初歩的な段階にしか達していない。だから面白いのだとも言えるし、こ の時期の山あり、谷あり、壁あり、の歩みこそ、私達の集団の作品で ある、つまりこのドキュメントの部分こそ、現実の変化の日々の記録こ そ、私達の作品である、 と私は考えている。

今日水曜日はシアターファクトリーグループBのワークショップ。 まる ごと一冊分の戯曲を二つ渡す。『糸地獄』(岸田理生作)と『舞え舞え かたつむり』(別訳実作)。これをテクスト(演技の材料)として扱う、の である。

そして明日から名古屋へ。

2007年5月15日
ある日のテラ・アーツ・ファクトリー











4月から5月にかけて、7月公演『ノラ』のプランニングでこれまで皆でさ んざん頭を使ったけれど(集団創作だから、皆が作者であり、「頭」で ある)、この日は一気にシーンの立ち上げ開始。粗 作りで二つのシー ン、合計30分くらいを立ち上げる。とは言っても、何だか「妙」な感じだ が、まあ、この「妙」さが「微妙」に面白い、おかしい、珍しい・・・、ステ キに変化させる、そこがこれからの演者と演出の腕の見せ所。

2007年5月22日
6月から毎日の稽古体制になる。その前に作品の「基本ライン」を作る 必要がある。

先週の稽古でこちらから提示した案(具体的なシーンの粗型)の「展 開」をメンバーがちゃんと考えてきていない。稽古後、そのことを「駄目 だし」する。稽古場と自分の関係、それは意識や思考ではなく、そこで 見た、感じた体験と自分の無意識(こころの深い奥から)から湧いてき たもの、との交信の記録である。そういう作劇スタイル、がテラのやり 方だ。「意識」(頭、理屈)から作らない。一種の心理療法的な創造スタ イルであり、これは他にあまりないからしばらくは理解されがたいかも しれないが、その内、皆が面白がり出すだろう。 誰かにお任せ、では 駄目なのだ、「集団創作」は。集団の一人一人が作品の「創作主体」 に、ことを基盤にした舞台表現、演劇表現をめざす。

2007年6月2日
5月下旬は少し、体調を崩した。もともと自律神経の調整がいかれて いて(小さい時からのもの)、なにかあるとすぐあちこちの内臓器官や ら目(眼圧の調整が狂うとか)やらの不調に表れるのだが、今回は新 手、今までなかった箇所に障害が出始めた。いろいろ自分で出来る手 当てをしつつ(この種のものは病院に行っても検査をし、結局わからな いで終わり、取り敢えずの対処処置・・熱さましの薬をくれるとか効くか 効かないか何とも言えない薬をくれて終わり、まあ気休めか・・・根本 治療は出来ない、自分で調整するしかない)、何とかやり繰りする (笑)。毎日の歩き(一駅二駅は歩くこと)や休日のサイクリングなど適 度な運動をかかさず、体力保持に努めているわけだ。公演まで何とか 持たさなければならないし。


6月からの『ノラ』本格稽古を前に、広報や制作、スタッフ関連の仕事 があれこれ集中し、今日はスタッフ用の資料DVD作成、企画書作成、 音ネタや稽古用テクスト、そして演出プラン・・あれこれの雑務がたん まりあるし、今も音楽をかけながら、DVDをコピ ーし、その間の気休 めにPCに向かっている次第である。

昨日まで決まっていなかったスタッフの返答待ち、その返答がいつま でも延ばされた(手違いがあったらしいが)ため、余計、自律神経に来 たのか・・・。一昨夜はほうぼうへの連絡で、タイヘンだったが、昨日よ うやく駄目であることがわかり、ほっとする。はっきりしてくれりゃあ、切 り替えられるわけで、はっきりしないのが一番、神経に応える。「過敏」 なんですよ、すごく。

まあ、からだは絶不調でも、演出助手の藤井や他のテラの面々に支 えられ、何とか救われている最近。メンバーが駄目だと、一人で全て の気苦労を背負うことになるから、今の私の状態では、とても集団活 動は神経のレベルで無理である。


数年前、文化庁の欧州研修に行く前にからだを壊した時、もう集団を 作っての演劇活動は無理と一度は断念したが、長い集団活動中断の あと、後についてくるメンバーに恵まれ、腰を上げた。殆どが教え子た ちだ。早く「売れたい」子達や野心一杯の子達は、卒業後、そういう方 向へ行く。だいたいはそうであるし、その道をめざして専門学校に来た のだから、当り前っちゃあ当たり前、それでいい。で、「行きそびれた」 腰の重い子達を引き受 けることになった。海のものとも山のものとも つかぬ集団に参加するんだから、変わり者である。だから、じっくりと 腰を据えての集団活動には向いているメンバーだとも言える。今は、 まだまだ 演技者としては成長期にあるテラっ子だから、苛立つことも ままあるが、しかし良い子たちが揃ったものだと、しばしば感心するこ とも確か。彼らに支えられて、今の私はある、んだよなあ。

そんなこんなでからだにはいたって悪い「演劇(集団)上演態勢」 とい う渦中にあって、しかしそれが精神的な「元気」の元にもなっている。 不調になっても精神は決して不調ではない。ここのところ、いろいろ冴 えてきている、わけです。7月の『ノラ〜人形の城 〜』はこれまで見た 人も、びっくりするもの、になりそう。まあテラは「病い」の世界だから、 病んだ方が、芯から凄まじいもの出てくるのですな。今回は「無意識」 がキーワード、コンプレックス・ワールドである。欲望と通俗、それが暴 力的に交叉する世界、でバカバカしく下らなく、激しく、ドロドロ・・・・に なると思う。音楽は、 もう個人的趣味でロック!クラブ音楽・・・パン ク、サイケデリック、ノイズ系、今回はがんがん行きまくるぜぃ。来週、 一気にシーンを立ち上げてゆく。テメエのテメエによるテメエのための 演劇、「愛と感動」なんてくそ喰らえ!じゃい。

2007年6月12日
2006年10月からスタートし、5月まで続いた新作「ノラ」に向けた長 い思考と試行錯誤の期間を経て、6月から公演態勢、公演に向けた 稽古に入る。

6月早々、気合を入れ本腰を入れて、シーン構築の先頭に立ち陣頭 指揮を開始する。もう考える時期、膨大な資料を読んだり、思考したり する時期は過ぎた。これからは実際にシーン立ち上げ開始。稽古場で のインスピレーションのみを頼りに進める。そして今日までに一気に4 0分ほどのシーンが出来上がる。丁度、中間点。全体で5つのシーン になる予定だが、その3つめのシーンの中ほどあたりまで辿りつく。先 週から一気加速、アクセル全開である。


個々のシーンのコンセプトを演出から提示し、そのコンセプトや動きの ポイントを押さえつつ演技者が肉付けしてゆく、詰めてゆく、具体的な 形にしてゆく。そうした稽古の流れである。つまり稽古というより、稽古 場で創作してゆく流れである。いかにも集団が「集団創作」的な態勢に なじんできた。現在のメンバー主体での上演は今回で4回目だ。よう やく「集団創作」的な現場体勢が確立しつつあるのを感じ、うれしくな る。

今日までのシーンはかなりイケテル、独自である。観客の脳の中は通 常、演劇史、演劇社会史(その国の、現在の演劇状況、とやら。つまり 現在の日本の演劇、に対する固定観念)に支配されているから、独自 であるとはつまり容易に理解されない、受け入れにくい、ことを意味す る。だからこそ、理解しようがしまいが、目の前で起きていることは「面 白い」、納得させる演出の腕力が問われる。そこまで、興趣を持たせ るところまで何が何でも持って行かなければならない、という「必死な 気合」が必要なわけである。踏ん張るぞ!


冒頭からシーンとしては静かに進行する。夢とも現実ともつかない感じ で、静かに「監禁」「暴力」・・・そうした「ノラ」を支える世界が展開され ている。であるが、その表現形象を支える思想は強固で確信的でなけ ればならない。やっているほうが戸惑い、よくわかっていない、そんな ものは人様には見せられない。そういう点で、鮮明になり(集団的 に)、そして何より見ていて飽きない、そこで起きていることが伝わる (よほど鈍感でないかぎり)、ものになってきた。

「鈍感の勧め」なるものが世の中、流行っているが、そんなものは芸術 には必要ない。日々の処世術、での話しだ。創造の場に観客も立ち会 ってもらう、そこに必要なのは「敏感」、それだけ。その意味で「敏感」 に対して応えられるシーンが形成されつつある。あとはその後をどう展 開するか、にかかってくるが、もうラストまでのイメージは出来ている。

稽古後、メンバーで稽古場近くの居酒屋へ移動。ラストに向けた今後 のシーン展開に関する居酒屋談義を、海の幸をお腹に溜め込みなが ら、あれこれする。だんだん見えてきた、ぞ。

2007年6月19日
テラ・アーツ・ファクトリーの稽古。
今日は音響の阿部さん、WSに6月入会のIさん来る。

シーン3、根岸の「読み」でつっかえる。4人の動きと構図、の感じは事 前に即興で試したものを掘り起こしスコアー化する作業を行っていた ため、たたき台になる。が、それとともに、4人の動き、構図が単なる コトバの説明にならない、言語と並行したものである、ようにするには 「読み方」が鍵になるようだ。終了後、クマノのマクドナルドで作戦会 議。根岸の「読み」方、が問題なのか、その位置づけが問題なのか。 作戦会議では結論は見えなかった。もう少し探ってゆくしかないだろ う。ここがポイントだ。

2007年6月20日
夜、テラ・アーツ・ファクトリーの稽古。

昨日の稽古、シーン3で行き詰る。根本的にシーンプランを練り直す。 で、今日は打開案(新構成案)を提示する。3回ほど試してみる。これ は行けそうだ!何とか、壁を一日で突破する。

一日一日が勝負。6月に入って、一日一日がゆっくり動く。思案し、稽 古場で試し、壁にぶつかり、再度案を練り直し、そして壁を突破し、次 の場面の構築に。今回はまでにない早さで進めている。全体のアウト ラインはほぼ固まった。今月中にはほぼ全体のシーンの形が出来上 がるだろう。次回、金曜日は3の最後からシーン4までのつながり場 面、男子を加えてやってみたい。この勢いをかって今月中にラストまで 持って行くつもり。

稽古場でぱっとひらめき、それを試す。記録をしてもらい、それが行け る様ならそのまま案は生き。即興を主体に作品を構築してゆく集団創 作、だが、これは非常に困難。これまで、15年間、集団創作を試しな がら、決して思うように行ったわけではない。問題はメンバーの思考 力、頭の中にあるものを形に変える具体化力、これが演出と同じ土 俵、レベルにまで上がって初めて集団創作の基盤が出来る。が、そこ まで、メンバー、集団が成熟するのは至難。根気が続かない(最低5、 6年は一緒にこらえる時期が要る)、演出に思考が追いつかない(め げる、ひがむ、落ち込む、ついてけないと思い込む)、プロデュースで やると頭はからっぽの癖に、プライドばかり高い役者(もどき)が集ま る。


とにかく、メンバーの出来、次第。それが集団創作スタイルのかなめ、 そして今、徐々にステキな集団が創造されつつある。これがあれば、 あとはポンポンと行く。稽古場に行けば、勝手にアイデアが浮かんでく るのであるから、形に変えてくれる人、一緒のレベルで思考し、理解 (というかキャッチ)してくれ、信頼してくれる仲間、がいれば、事はどん どん運んでゆく。今テラは、そんな時期に来ている。もっとも集団として 「創造的」な時期に入りつつあるのを感じる。


終了後、もうやんカレーに藤井と佐藤で行く。あれやこれやの雑談。今 日はあまりシーンの話はしなかった。突き抜けた感があったからか。

2007年6月23日
夜、テラ・アーツ・ファクトリーの稽古。

シーン3を突破したところで、さっそく昨日の稽古でシーン4が壁として 立ちはだかる。しばし、壁の前ですくむ。で、今日はとにかく、その先、 シーン5の展開、シーン4の方向転換を提案する。ラストのイメージは ほぼ固まっている。そこにどう持って行くか。まだ創作の途上、作品作 り自体を行っている最中なので、何とも言えないが、確実に前に進ん でいることは確か。シーン5の具体的なシーンプランをみなに説明し、 実際に段取りを試してみる。みな、納得が行ったようである。

彼らとの連携はスムーズであり、また彼らの私(の思いついた案)への 信頼も厚い。すでに何回か舞台を作ってきて、またそれを見てくれて いるからだが。

2007年6月28日
今日、ワークショップの方に出向いた演出(の、おいら)と、別行動、自 主稽古を終えたテラ・アーツ・ファクトリーのメンバーが稽古後合流、南 新宿の「フォルクス」へ遅い夕食に向う。

死に物狂いで形を作る作業、稽古、もろもろの打ち合わせと緊張の連 続だった6月、頂上がやっと見え出したし、月末だし、雨だからユウウ ツ気分、ツカレも吹き飛ばせで、ゲンキをつけるため皆で肉料理を楽 しむことに。

2007年6月30日
今日は井口の誕生日。先に今月14日が誕生日だったシムラーとまと めて、皆で稽古の合間に祝う。ハッピーバースディトゥーユウー!

さて気分もほくほくしたところで、その後は再び、緊迫の稽古、実験を 重ねながら、漠然としたところを徐々にクリアーにしてゆく作業が続く。


10代で出会って、もう6年、が過ぎた。たゆまぬ訓練の日々を継続 し、二人とも一人前の表現者として成長、したなあ、と感慨も新た。女 子は20代30代には結婚や出産などの大きな問題があり、継続的な 活動は困難な世の中、よきパートナーといかにめぐり合うか・・・。今回 の「ノラ」の下敷きになっているイプセンの『人形の家』のテーマは我々 自身の問題でもある。

これまで繰り返し直面した問題は・・・5〜6年かけてようやく演技者と しての形あ出来つつあるところで、結婚、出産で演劇と集団をやめる、 という女優特有の壁。テラは女子ばかりの集団、それもみな20代、い あやはや、どうなるのだろうか・・・・・。

2007年7月6日
昨日、中内が交通事故にあい、ひやっとする。交差点で信号待ちの際 に追突された。

幸い、大事には至らなかったので、一安心。演技面、制作双方で柱に なっているから、怪我はなかった、ということでほんとによかったあ。稽 古を二日ほど休んで今後に備えてもらうことに。

公演前で一番怖いのは事故とか病気。何度も経験しているから、公演 が近づくと決まって悪夢に悩まされる日々になる。今回は、テラ・アー ツ・ファクトリーのチラシを運搬してもらっての事。稽古や仕事もある中 のことだから、過労での事故が最も心配。



みな、職場を持ち、中には職場のチーフや店長格の仕事をこなし、そ の他の時間で稽古をし、更にその合間を縫って劇団の諸作業(衣裳、 小道具、制作・・・ちらし折込みやポスター貼り)をこなす。平均睡眠時 間は、4〜6時間取れればいい。ほんとうに今時の日本で、こんなによ く働く人々はいないはず。

これらの経費をお金に換算すればチケット代は10倍にはねあがる。 一公演、2〜3万円はかかる。資本主義の原理に従うと、そういうしな いと成立しない。だから欧州など演劇先進国では、チケット収入は全 収入の10%くらい、2〜3万円かかるチケットを2〜3千円にするため に、公金や寄付が使用される。そのための財団や民間、公共の助成 団体がいくつもある。芸術は市民に必要なもの、だから社会が芸術活 動を支える。歴史的にそういうコンセンサスが既定のものとしてすでに 確立している。

日本は文化芸術政策面ではチョー後進国(精神面での近代、はまだ 始まっていない?)、だからそうはいかない。とにかく、こうした地道な 継続作業の中で、一歩一歩、芸術活動の必要性を社会に認めさせて ゆく努力が必要だ。演劇をやるとは、観客数を増やす、ことばかりで はない。そこを目的にしても埒があかない。人間社会の中で、演劇や 芸術活動の必要性をいかに訴えて行けるか、それがいま演劇活動を 行う者に要求されている使命である。


まあ、そんなこんなの話はさておき、とにかく無事に公演を終えること ばかりを祈る。

2007年7月8日
7月に入って、「ノラ」の最後の場面作りに四苦八苦。普段はのんびり O型の私が、ここに来て超スーパーB型の父親の血が突然うずきだし たか、ハイパー集中力で、脳内は濃厚ジュース状態。

5つの場面から構成される舞台の最後の2つの場面を並行して作って いる。5つ目の場面は、動作スコアー、テクストもほぼ揃い、またテラ・ アーツ・ファクトリーの主体メンバーが中心だから、上演テクストさえ出 来れば、一気に仕上がる。

それに比べ、4番目のシーンは男子が中心、男子は「外部参加」なの で、まず身体や演技のクオリティーが不ぞろい、他のテラメンバーシー ンの演技クオリティーが1、2年前に比べて格段に飛躍していることも あって、その格差がすごく目立つ。身体が「素」に見えてしまう、意識さ れていない部分が浮き上がる。テクスト発語もあるのだが、声がうす い。声を表出させるために使う筋肉が、たぶんテラメンバーの10%程 度、そのため声の薄さが際立つ。その上、言葉に対するスタンス、捉 え方の鋭さ、切れ味がもう一つ・・・で難航。淫靡さ、不良っぽさ、パン ク的、にならない。まじめすぎる。とにかく、ここを乗り越えるしかない のだ。。。。今日、演出的にこの問題課題ヤマ積みシーンに何とか目 処をつけ、明日はシーン5(最大のヤマ場)を作り上げる。一歩ずつ、 一歩ずつ、前に進んでいる。

こうして5つの場面が揃ったところで、全体を通し、更に削ったり、肉付 けしたりしながら、詰めの作業を開始する予定。頂上は見えている が、まだまだ行き詰る構築作業は続く・・・、か。

2007年7月10日
「ノラ」の粗通しをする。

終了後、久しぶりに稽古を見に来たテラ古参の滝や藤井、中内らメン バーと、稽古場近くの居酒屋へ直行していつもの「居酒屋会談」。滝に 感想を聞く。彼は「外」から客観的にものを見られる人間であるから、 判断の目安になる。で、作品としては出来は上々の仕立てになってい るようだ。何より、出演者がそこに「何をしているかわかって立ってい る」と。

他の芝居を見に行って、ちっともわかってないで立っている役者が目 立つと「なんだろうこれは」とか思う。我々テラはやはり「集団創作」の 強み、出演者が自分達で時間をかけ、苦労しながら作品の「台本」に あたる部分、基礎、基盤、柱、幹から作っているのだから「わかって立 っている」のは当たり前と言えば当たり前。しかし、「その段階」に達す るのに公演活動を始めて二年と三度の舞台、活動前の準備期間を入 れると六年近い付き合いで、ようやく「その段階」に来たと言える。


テラ・アーツ・ファクトリーメンバーの力量がここのところ数段上がって いること、その上、外部出演でアングラ、小劇場、前衛、新劇とジャン ルは違うが、唐組、新宿梁山泊、ストアーハウスカンパニー、文学座、 民藝、俳優座、青年座とそれぞれの領域の一流どころの主演級やベ テランと共演させてきたから、意識のレベルも全く違ってきている(傲 慢になったという意味でなく、演劇世界を広く知ったという意味で)。

舞台に対する姿勢、心構え、同じ「頑張る」でもその「頑張る内容」の 違い、そして集団内で長い時間をかけて醸成し練り上げた「内側」の 濃密さ、とそれを外部化するための技術力の差、が向上している。

作品としては粗通しするまで何とも言えないのだが、今日見たかぎりで は、構成が重層的に絡まり、コトバも有効に機能し、身振り演技も十 分楽しめ、非常に高度で濃密な、誰が見ても素直に見てもらえれば面 白いと思えるものになっている。作品の芯にあるものもわかりやすく、 主張がしっかりありつつ重層構造で仕上がっているから、嫌味ではな い。結論は観客一人一人でいろいろと考えることが出来る、そういう狙 い通りの作品になっている。

パンクでシュール、大胆で独自な表現スタイル、しかし「実験的」という のではなく、この表現方法がふさわしい、と思えるナチュラルなスタイ ル、だ。よほど芝居趣味に凝り固まっている人(芝居はこうあるべき、 と新劇人みたいな)でないかぎり、楽しめる舞台になる。

2007年7月11日
問題の男子シーン。

今日休みの役者の代理でテラの女子メンバーが入る。と彼女の声と 男子の声の「分厚さ」が違う、言葉に対する面白さが違う。単語と単語 が組み合わされて語が形成されている、どうしてその一語一語を把握 して発語しないのか、とつい演出の罵声が響く。

さらに身体、動作が不用意に動く、からだがスカスカして弱い。どうして も「男」が必要、女ばかりの集団で、「女」を主題にしている、しかし 「女」は「男」があって初めて「女」、である。だから「男」を欠く事は出来 ない、この「ノラ」では。君らの代役をテラのメンバーがやるわけには 行かないのだ。「ノラ」に彼らは不可欠。

しかし、頑張るといっても、筋肉の頑張りじゃない、そういう表面的なも のじゃない。もっと「内側」の・・・、なんだ。不用意な動作、意識されて いない身体、コトバの意味をとらえきれずにする発語、それを何とかす る。まずは神経の問題、更に深い内部の濃密な、黙って立っていても スカスカしない、圧縮され濃密に埋め尽くされた空洞、としての身 体・・・・。

一朝夜で作れるものではないだけに、苛立ちが激しくなり、眼に激痛 が走る・・・、持病の発作一歩手前、か。やばい。静まれ、鎮まれ。。。

2007年7月13日
今日は一日稽古。

男子(外部参加組)はFメソッド訓練を応用し、集中特訓。激しい演出 の激を浴びせられ、少し自覚できたか、Fメソッドでやったり言われた りした事を思い出したか、その後の通しでの稽古は昨日より格段のア ップ。不注意な動き、安易な動き、自分だけに閉じこもって全体が見え なくなる狭窄症状からの脱皮、少しは解消されていた。

構成案は仕上がりに近い。通常の芝居で言えば、ほぼ「台本」が完 成、これから稽古なのだが、うちは出演者が稽古場で実験を重ねなが ら「上演台本」を作るので、この時点でほぼ作品の気持ちはわかって いるし、何度も試しにやっている場面も多く、後はせりふ部分などをき ちんと確認する、言い方などのチェックをするなど枝葉の作業を残す のみ、だ。


他に衣裳の詰め、小道具、大道具の扱いや製作、音楽や照明との連 携、やることはヤマ積みだが、作品としてはかなりグレードの高い、重 厚で観客に納得させられるだけのもの、が仕上がった。この点は、こ れまでの集団での積み重ねが今回、一番良い状態、で現れてきた。

そういう意味で、新しいメンバー、20代女性団員中心に変身した新テ ラ・アーツ・ファクトリーの本当の意味で今回が第一歩、始めの一歩と なる門出の公演となるだろう。我々の力量が、きちんと反映される舞 台、になってきた。

2007年7月17日
今日から阿佐谷の住宅街の中にある、某劇団の稽古場を借り切り、 公演まで直前態勢。朝、倉庫から運んだセットやら舞台で使うあれこ れを運び込み、炊飯器まで誰かが持ってきて、まるで合宿。アットホー ムな感じの稽古場で、ほんと、これから大家族でわいわい騒がしく毎 日を過ごすような感じ、だ。


今日は一日作業に。作業は重苦しくやるものではない。わいわいとに ぎやかにやるのが、いい。で、まるで公演前であることを忘れてしまう 雰囲気でメンバーはにぎやかに一日を過ごす。この明るい雰囲気がう ちらの特徴か。明るいなあ、テラは。いいことです。

2007年7月20日


「ノラ」の通し稽古を繰り返しながら詰めの作業を行う。

並行して台本を作る作業を行う。うちは稽古の中で、そこでこう動いて みる、そこでこのコトバを言って見る、という形で進んでゆき、その組 み合わせを何度も変えながら、構成を徐々に固めてゆくので、普通の 芝居の作り方と全く逆になり、通し稽古の最後に台本が出来る。この 台本はあくまで照明や音響スタッフがきっかけを取る為の進行表、に すぎない。ちゃんとした台本は公演後にならないと作れない。それはあ くまで上演の中で文字化できる部分、図式化出来るほんの一部分を なすものでしかない。が、今回は台本化(記録化)する方向で、稽古と 並行しながら、台本創作班がおおわらわで活躍。大いそがしである。

台本の作りも工夫がいる。テラは文字テクストだけでなく、多くの動 作、身振りテクストがあるため、これをどう反映させるか。舞台図と人 体図が入った台本、つまりバレエやダンス、あるいは音楽の譜面のよ うな台本が必要なのだ。複数の人間が同時に別々の動きをし、それを コンポーズする、のはオーケストラの譜面がバイオリン、パーカッショ ン、ピアノ、それぞれの動きを記録しないとならないのと似ている。台 本をどのように作るか、これも今回の未知への挑戦の一つ。

2007年7月21日
戯曲を使わない、劇作家を持たない演劇スタイル・・・・、これは実はす ごくタイヘンなんだが、タイヘンだからこそメンバーも皆、頭を使い、必 死で考えて舞台を作らないとならない、ストイックな作業、になる。あら かじめ戯曲があるのとないのとでは、集団的タイヘンさの度合いは雲 泥の差である。だから、今回のように形が出来上がると、ほんとうに胸 をなでおろすし、それまではプレッシャーとの闘いである。血を吐く所 以だ。


さて、いよいよ公演も迫った『ノラ』、は順調に幾度目かの通し稽古を 終える。もう形はすっかり出来上がり、それもかなり「行ける!」という 確信がメンバー一同皆々も持ってくれて、演出者としては肩の荷がど ーんとおりたところ。まだ公演は終わっていない、これからだが、もう 自分的にはやることはやった、という達成感あり。公演は付けた し・・・、というとまずいか。構成、演出者としてはあとは結果、観客の裁 定を首を洗って受けるのみ、の次第である。もちろん、こtれからパン フレット作りが残っているし、スタッフとの詳細な打ち合わせをしなくて はならない。

音楽の使用法も照明の使用法も、それなりにありきたりではない。目 立たないところで、たくさん「隠し味」が散りばめられている。おそらく観 客はそれに気付かない。が、何かすうーと身体にははまる、ような。自 分ではいまだに「いっぱしの演出家でござい」と偉そうに言う気になれ ないのだが、こういう遊び感覚は音楽の使用や照明の扱い、テクスト に使うコトバの選択など随所に溢れ出る。それを人に喜んでもらえるう ちは、まだ演出をやっていても許されるかな、とか思ったりしている。


『ノラ』は「フツー」の人、「フツー」の芝居の観客にぜひ見てもらいた い。いわゆる「お芝居型」の演劇や、観客集めだけを主目的とした「エ ンターテイメント」にはない、しかし「エンターテイメント性」もあり、かつ 「お芝居」以上に斬新で刺激的な内容を持った、力量のある作品が存 在する、ことを知ってもらいたい。

動作テクストも交えた「集団創作」方式や、「語り」の演劇を身振りと複 数の「コロス」の語りをここまで重層化した形式でやっている、そのスタ イルはなじみが薄い、というかどこもやっていないのだから、理解され にくいのはわかるが、それでもそれが興味深い、面白い、というところ まで持っていく、そうでなければ駄目だと思うし、その努力を様々な形 でやってゆきたいと考えている。もちろん、作品に関しては一切妥協 はしない。これだ、と信じた形式、内容のものをしつこくやって行きた い。

新しい集団も成長しつつある。皆がそれぞれの役割を認識し、常に考 えて行動している。集団が熟成し、方法が確立し、題材も我々が舞台 にかけたいというネタは現実世界の中に無数に転がっている。基本は ドキュメント、方法は「語り」(叙事的演劇。同化型芝居ではなく、演劇 によって批評、コメントをしてゆく演劇)、それを身振りも含め、また単 独の朗読者による「語り」ではなく、重層構造による「集団の語り」のス タイル、を取る。そのスタイルが、その方法が面白い、というところまで 持ってゆく、それを今回の『ノラ』は十分、達成している。

2007年7月23日(月)
照明さんや音響さんを交えての通し稽古も何度か重ね、そのたびに 『ノラ』は完成度のレベルをどんどん上げている。

骨組みががっしりしていて、かつメンバーがその世界や意図、方法を よく消化しているので、なかなかの見ものだ。ユーモラスな部分もあ り、しかも作品としての重厚感も出てきた。演技の水準も高いし、長年 訓練で鍛えこんできた身体表現能力の高さも今までで一番(ここに来 るのに六年かかる)。新集団を結成してからまだ二年、四回目の上演 だが、その前の四年が足場としてあるからか、ほぼ合格点を出せるレ ベルに近づいてくる。今後が楽しみな集団がいま出来つつある、と言 った手ごたえ一杯感。


6月から二ヶ月、『ノラ』にかかりっきりになった。その間、長年付き合 いのある友人知人の公演なども失礼し、また久しぶりに読書量も減ら して、『ノラ』一色で過ごしてきた。その集中力、が現れた力作が生ま れつつあるのを目の当たりにしている日々。たくさんの身振り表現(ダ ンスでもマイムでもない、動作、身振りに基づく表現である)とコトバが 重層化し、緻密に組み立てられ、飽きさせない。これぞ、自信作、にな ってきたぞや。同時に作品創造(集団創作)のノウハウ、方法論が明 確になっていて、これからの作品つくりの基盤、足場も固まりつつあ る。だから先に向けての展望が大いに拓ける一作、になったと言え る。そこがメンバーにとっても大きいようで、「この集団は行けるぞ」と いう確信がいま団員にみなぎっている。それは集団としての強みに変 わるものだ。


おいらは先週13日、太田省吾さんが亡くなった日に、まるで符帳を合 わせる様に身体に異常をきたしヒヤッとしたが、その後は支障のある 症状は出ず、何とか公演まで身体は持ってくれそうでほっとしていると ころ。6月は今までの中では一番体調もよく、その分、作品作りにすご く集中できた。テラとしても7月公演は来年から定例化しようと話してい る。花粉症娘の多いテラは、それもあって4月公演を今年からやめに した。7月、12月の「ローテーション」に変更。稽古期間は身体に無理 のない時期を選ぶ。昨年、一昨年は9月公演だったから、夏はまるま る稽古一色、夏休みなんてなかったけれど、今年は8月は休め る・・・・。暑い最中、人が遊んでいる時に稽古稽古、もない。そこまで わたしら頑張ってるんだ、みたいなことでは駄目だと思う。新テラは短 期決戦型ではなく、マイペース中長期活動型路線だから、自分の身体 のバイオリズムに合わせてゆこう。私自身も健康には大いに自信がな いし、倒れてもやる、という神風精神ももはやない。

今年の6月7月は久しぶりに一杯頭を使い、一杯働いたから、8月が 今から待ち遠しい。たくさん散歩をしよう、っと。

2007年7月24日(火) 小屋入り前日
新作『ノラ』はばっちり仕上がった。
明日は、小屋入り。
観客の反応を待つのみ。
こうして舞台初日を待つこと、すでに80回以上になるか。
どこでやってもどういう状況でやっても慣れない、ドキドキする。
このスリル感が何とも言えないんだなあ。



3月試演会の時は、正直言うと、こんなんで公演まで持っていけるの か、と危機感を募らせたのだけれど、結果的にはそういう試行錯誤、 壁があったから、死に物狂いになったというか、ともかく十分3,500 円というお金を取って人様に見せられる代物になったことに上演主催 者としてほっとする。

昨年10月から「ノラ」を題材にメンバーで思考を重ね、12月に一人一 人が実験・創造工房でモノプレイを試みた。が、まだその時点でメンバ ーにまだ何を問題にし、何を芯に作品を作るのか、という方法的アプ ローチが漠然としていた。

「距離」が大きかったのだろう。ノラは既婚で三人の子供を持つ主婦。 テラ・アーツ・ファクトリーの女子面々は未婚、25歳前(今年、何人か がこの年齢になる)。この年齢は女性にとって一つの大きな分水嶺、 職場でも何でも25歳までは「女の子」として(男性の性的)関心の焦点 の中心位置にあり、それ以降はどんどん外れてくる。既婚、未婚も同 じ。「既婚」によって多くの男性にとって「性的関心」の外に消える。テラ の面々はまだ「関心」の内にあり、ということは本人もそれを意識して 自分、を演じる。あるいはそこから外れているという「断念」から自分を 演じる。どちからになる。が、そこを過ぎると、かなり様相は変化してく る。30代以降は大きく変化しよう。しかし、おそかれはやかれ時間の 問題で、誰でもすぐに25歳、30歳以降、そして私のように「老人」「老 年期」を前にするのである。

そこが「他者」であり、彼らにとっては私もノラも「他者」なのだ。それゆ え、「距離」があり、その「距離」をクリアするのに時間がかかる。し、厄 介だ。それがノラ創作の「困難」であった所以であり、だからその「困 難」は価値があると私は考える。



みな、今回はたくさん本を読み、資料を漁った。特にジェンダー関連、 女性問題、そこから自分自身のことを逆照射する、あれこれ。そのた め焦点が広がりすぎ、みな収拾がつかなくなってしまった。しかし、こ の下準備があったから、私が作業の前面に出た6月以降、コンセプト を絞り込みその一点から集中して形象化を進めた結果、非常に早い ピッチで作品立ち上げが進んだと言える。

昨夜は上演資料となるパンフレットの原稿を仕上げる。何故、ノラか。 それなりに書けたと、ほっと胸をなでおろす。手作りだが、しっかりした 上演資料となるパンフが出来上がったと思う。

場当たりを無事終える。






公演期間に誕生日を迎えるヨシキ、ササキを小屋で祝う

皆からの誕生日プレゼントを着てニンマリ



これは予想よりはるかに魅力的な空間、世界になっている。

いろいろ予想を立てて演出プランニングをしたのだが、実際に小屋に 入って、空間にはめてみないとわからないことも多い。だが、今回は全 部、見事につぼにはまった。「光」が劇の主題でもあり、<光の檻>と いうコンセプトをスタートラインに作ってきた舞台、「光」は見事に演じて くれている。その中に人はいる。光は我々を監禁する。それがシーン や後半に舞台を埋める「オブジェ」(ネタはいま明かせないが)群によ り、見事に表徴していた。

明日は初日。昼にゲネプロ。課題の大道具・・・・女集団ゆえ、大道具 には限界がある。今回は少しだけ目立たないがセットがある。それさ え、テラ・アーツ・ファクトリーの女子連中にはタイヘンなのだが、あり がたい助っ人も来てくれて(月蝕の一ノ瀬さん他。大道具やれる人な のだ、彼女は)、何とかクリアー。


パンフレットでは、シャウビューネの『ノラ』(オスターマイヤー演出)に ケンカを売った。ドイツ版『ノラ』に対して、我々は「それは違う!」とい う『ノラ』を提示している。それは現在の現象を表象する日本の若者の 芝居に対するケンカでもある。彼らは大なり小なりオスターマイヤーと 相似形である。我々の舞台は「それは違う!」と宣言している、それを 表象している。パンフレットにもドイツ版『ノラ』が何故、駄目なのかを 書く。これはタイヘンなことだ。客を前に自分達の舞台の上演前に下 手なことを言うと、「じゃあ、お前らのは何だ」と観客から批判が跳ね返 ってくることが予想される。それを受けて立つつもりで、ケンカを売っ た、そういう舞台である。今日、場当たりを見て、この「闘い」に勝算あ り、と踏んだ。

若者カルチャーの追っかけ的おじさん文化人、時代の表象、現象、つ まりは風潮、世相、その薄っぺらな断面を「鏡」として映し出すような舞 台を、必死で後追いする「自分は時代に遅れていない」と若者文化、 サブカルにしがみつく「情けないおっさん」根性丸出しの評論家連中を も敵にまわしている。若者だ、老人だ、なんて関係ない。男だ、女だ、 も関係ない。だが、「関係ない」と言い切れるまで、まずはとことんその 「鏡」を覗き、自分というものを知る、ということをやらないと「関係なく はない」ことになる。

テラ版『ノラ』は刺激的な舞台だと思う。この舞台はいろいろなケンカ (闘い)を仕掛けている舞台です。いよいよスリリング、になってきた (笑)。


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