林英樹の演劇手帖 TOP


「アンチゴネー/血・U」


2007年12月
(新)テラ・アーツ・ファクトリー 第5回公演


(以下は上演の際に観客に配布したパンフレットの
「稽古場ドキュメント」掲載文より転載)



2007年10月5日(金)
今日は、稽古というより、みんなで構成を考える。

「子供たち」の「自殺志願者の掲示板書き込み」(正確には10代の自 殺者、自殺志願者の発言を参照し、メンバー全員で書き込んだテクス ト)を増やす。2004年に、実際にメンバー内で掲示板を立ち上げ、そ こで書き込まれた発言は膨大な量になり、その中から特に選択したも のを使用している。今日は前回版で使用しなかった5つを加え、9つの 掲示板を使用することに決まった。順番(構成)も決まる。

シーン2にギリシア悲劇の登場人物アンチゴネーにまつわるテクスト引 用を使用する予定で、『テーバイ攻めの七将』を参考に論議するが、 物語の方に観客の目が行ってしまう恐れがある。それでは、主旨が違 ってしまう。「物語」芝居を今更、やるわけではない。

作品の柱は「子供たち」の掲示板発言に現れた自殺をしようとする背 景、その言動の表象の根元にある私たちにとっても「見えにくい欲動」 の部分であり、だからそれは<他者>性を持ち、そことどう関わるか、 関われるか、がこの劇の(私たちの劇行為を通した)主題でもある。そ ういう「関係」の場として彼らと呼応関係に入る「女性(OL)たち」を舞 台上に設定した。「OLたち」は年齢的にも立場的にも自分たち(演技 者)に近い存在である。身体を前面に打ち出しながら、身体の側から <他者>性を持った子供たちの発言(もちろんテクストは創作だが、 共犯関係的に作成されてはいる)としてテクストの「声」の部分に関わ りを持つ、そういう構造を取る。

2007年10月6日(土)
『自殺の思想』(朝倉恭司著)読む。

「諫死」というのが昔、武士の時代にあった。自分の生をどのように使 うか、活かすか、それを決定できる自由があった。責任は自分が引き 受ける、その覚悟の上での上司や支配者への死(生)をかけた諫言。 近代は「自殺」をよくないこととし、道徳やモラルの問題にしたわけだ が、むしろこれは、人々の死生観まで国家が管理する、という事態とも 言える。オランダ滞在時に「安楽死法案」の論議と議会での可決を経 験した。自分で自分の生死の決定をすることが限定的だが公的に承 認されたのだ。このことをどう捉えればよいのか?いかに生きるか、 はいかに死ぬか、と同義に考えるべきものだと思う。

2007年10月12日(金)
昨日の稽古の後、演出補の藤井と帰り道の「道中」雑談あれやこれ や。その中で、彼女から今日の稽古で思いついたアイデアを試してみ たいとの要望が出る。よし、じゃあすぐ試してみよう、ということで、今 日は彼女達に稽古場を明け渡し自由にやってもらう。で、終わり頃に そっと稽古場をのぞいてみる。シーン2(「OLたち」の身振り中心シー ン)に関して。「OLたち」が途中から「掲示板」の発言に対して、呼応的 に音節分離的発語をし、重奏(重層)させる。次第にギリシア悲劇テク ストに「スライド」する。これは方法的に面白いと思った。もっと発展さ せてみようと促す。

2007年10月14日(日)
終日『アンチゴネー/血・U』のプランを練る。今回はテクストの再構成 に関して。シーン構成の大まかな構想は固まった。で、今度は使用す るテクスト。前回のものを再構成する必要がある。考えが行き詰まり、 気分転換に歩く。散歩が思索の一番の潤滑油、になっている。

ちょっと話題を変えて・・・・、貧しい田舎の少女達に教育を受ける機会 を作ろうと奔走するトルコの女性医師の話を知る。ガンと闘い、限られ た時間を人々のために役立てたいと必死だが、どこか目前の自分自 身の死に対して泰然としている。

個人的体験を少し。1996年のペルー公演まで、無理が平気だった。 が、日本大使館占拠と重なったペルー公演直前、無理に無理を重ね 体調をくずしてしまい、その際、先方が処方してくれた薬が日本人の 体質に合わなかったらしく薬物中毒を引き起こしてしまった(からだの 解毒機能が壊れた、ということらしい)。その後遺症で風邪薬や鎮痛 剤に入っている物質の解毒作用が不可能となり、そのためこれらの薬 を飲むとショック状態になる。

その後、いろいろからだに不調が出て四度ほど体調を崩し、その度に 病院でガンを疑われ、いろいろ検査を受けた。さんざん調べて結局ガ ンでないという結果が出るまで、長いこと長いこと。さすがに覚悟を決 めた。何でもないのを知った時は、妙なことだが命を拾った気持ちだ った。

そういう経験をすると、自分の生は有限である、時間は限られている、 という意識がそれまで以上に強く芽生える。

せみは七年幼虫として地中に住み、せみになって一斉に夏の樹木の 間をにぎわし子を産んで死ぬ。地上の命は三週間であり、われわれ はそこに「はかなさ」を感じるが、哺乳類が生まれてからの時間を人間 の一生に換算すると、一人の人間の命はせみの二百五十分の一でし かない。せみが三週間の命なら、一人の人間の命は一五分ほどにす ぎない(類としての哺乳類の「一生」からみて)。これを「はかない」とい って、言いすぎだろうか。

生きるということには二つの意味がある。一つは個体としての生、もう 一つは類としての生。人類は哺乳類の一種で、類は代を重ね、環境 に適応しながら初期はねずみのようなものだったものが、長い時間を かけて現在の人間も含めた多様な形に変化してきた。個体は一代で 消えるが、生殖によって類としての生命は存続される。

人が生きること、その意味をもう一度問い直す思考の場として『アンチ ゴネー/血』だけでなく、テラ・アーツ・ファクトリーの公演に関連する諸 作業がある(自分にとって)。

さて、『アンチゴネー/血・U』、「子供たち」の「自殺サイト掲示板書き 込み」が基盤テクストである。三年前に初演し、昨年、再構成してテラ での公演を果たした。その間に集団自殺が相次ぎ、今は自殺サイトで 知り合った委託殺人が話題になっている。が、テラの『アンチゴネー/ 血』は別にキワ物芝居ではないし、話題になる前から追求している題 材である。生きること、死ぬこと、自分の体験と重ねながらの思案。う うん、またまたうなりねじれる一日。頭がやかん状態。

2007年10月20日(火)
2001年に中学生たちとひょんなことから芝居作りをすることになっ た。正直言って、「子供」(ガキ)は苦手だった。が、次第に彼らの「内 面」と関わりを持つようになり、特に中学二年生の小説を書いている 子と親しくなる。彼女の小説は「死」が主題だった。それも子供によくあ る浮ついたものではなく、かなりの確信犯、異様でグロテスクな世界 だ。小説の感想や、芝居作りの要になってもらった関係もあったた め、彼女と毎日のようにメールのやり取りを重ねる。二人の関係を心 配した親御さんに会いにまで行った。そのメールのやり取りも今回の 創作テクストの参考になっている(彼女はいまシンガーソングライター として大手音楽会社の専属となる。当時から際立った才能の持ち主だ ったから、これから大いに活躍するのではと思う)。

2007年10月23日(火)
公演40日前。作品創造作業は予定通りに進行している。

流れ(構成)がかなり出来てくる。頭から50分くらいまで、三つのシー ンのうち、二つ目のシーンの中半までのプランが固まる。まず「構成」 =編集が第一の現場作業である。構成案を幾度か試してみながら確 定して行き、それからテクストを暗誦する、という流れ。「作家」が現場 自体、演出と演者だから、こうなる。「劇作」をするのは集団。わたした ちは通常の芝居で言う「上演台本」を稽古場の中で、大雑把に見当を つけながら試し稽古を重ねて作成してゆく。だから「劇作」主体は集団 である。書き手は複数いる(いやほぼ全員書く)。私もテクストを書く。 だが、それらは劇の要素の一つに過ぎない。照明も、演技者の身振り 動作も、更にもっとも大切なのは演技者が時間をかけて形成してきた 体技(「虚構の身体」という言い方もあるが)も舞台の表層=テクストで ある。体技(私たちは「閊(つか)える身体」という。それは始めからツカ えている、あるいはツカえをひどくする、のではなく、まず普段の身体 がツカえている状態にあることを自覚する。それを一度<ニュートラル な身体>に戻す。そこから再構成してみる、という作業プロセスを経 る)は劇の軸であり、中心を形成する。身体の表層は動きとして見える が、その深層、無意識はよく見えない。身体を問題にするのは、私た ちがこの「見えないもの」をめぐる演劇を考えていることにもよる。

2007年11月14日(水)
<集団創作>に関する考察

俳優が演出家に質問する。
「演出の意図は?」「演出は何を伝えたい(観客に)のか?」
あるいは作家は何を伝えたいのか?でもいい。

では、俳優は演出家の道具か?演出家(あるいは作家)という一人の 人間の脳の中で考えている思想や概念を大勢の人々に伝達するため の。

上演(演劇)は作家の思想を伝えるための道具、あるいは補助機能 か?


「私」の考えを提示する場が演劇ならば、演劇は私個人の表現活動の 場である。俳優達はその道具である。はっきり言おう。しかし、そうは 思わない。集団で形成する表現である演劇は必ずしも自分の意図通 り、思惑通りに行かない。いや、自分一人で考えている時の思考の枠 を軽く飛び越えてしまう。思わぬ発見が続々と出てくる。そのため公演 を一回やるたびに学ぶ。だから面白いと考えている。稽古場で形成さ れつつある作品は、私の(思考、概念、脳)の一部ではなく、あきらか に<外部>になっている。<他者>である。それを自覚して、一生懸 命、稽古場で日々起きている現象を読み解こうとする。その過程が作 品創造の過程であり、私一人ではなく、複数の人間がある時は深く、 ある時は殆ど無縁のように、しかし確実に影響して関わり、この<読 解>作業を操作している。私は<操作>されている。この関係、この 状態が面白いと思う。自・他が有機的、重層的に関連しあう場を自覚 的に組織する。それを<集団創作>システムと呼ぼう。

<集団創作>とはシステムである。ここでは「劇作」は劇作家の専売 特許ではなく、劇作主体は集団であり、「劇作家」という一個人ではな い。そもそも演劇が集団の作品であるとするなら、劇作家は集団以外 にはありえない。結果として「戯曲(作品)→演出(解釈)→俳優(代行) →観客(受け手)」という縦のヒエラルキーを否認することになる。だか ら<集団創作>スタイルでは、演出は稽古場で創造されつつある集 団の作品の読解、批評はするが、俳優の上に立つ者ではない。演出 はアドバイスをすればよい。「上演=作品」であり、俳優も演出もともに 作品作りに携わる共同作業者である。それはテクストが<他者>であ り、作られる「上演=作品」(これに観客が加わって演劇となる)が< 他者>であることを保障するための方法なのだ。

2007年11月15日(木)
作品の根幹をなし、基底部を形成する軸として措定した<脱ぐ>とい うコンセプトが、ようやくテクスト(言葉)サイドの二つの柱、10代の自 殺者・自殺志願者の発言を再編集した「掲示板」テクストと、もう一方 の柱であるギリシア悲劇の『アンチゴネー』テクスト改作部と固く連結し た。単なる趣向であっては駄目だ。新しいことをめざしているわけでは ない。

舞台上の行為(アクション)の動機、裏づけ、それをひたすら熟考し続 けた。ここ一ヶ月の稽古では、相当量の思考を繰り返し、時間を費や した。稽古をし、家に帰って今日稽古場で見たこと、感じたこと、起き たこと、行われたことを反芻し、そこから作品の根底にある(べき)も の、表現される/意味されることを待ち望んでいるもの、を探り当てる 作業。

次々に新作、新しいモード、新しい商品、新しいトレンド、新しいファッ ション、新しい携帯電話、新しい車が押し寄せる。その時流の渦に抵 抗する、ツカエル、そういう身体の演劇をめざす。

大量生産大量消費の欲望を刺激する「進歩社会」の中で翻弄される 小船のような日本の演劇世界も新作という暗黙の強制システムが作 用している。新作ばかりが無尽蔵に大量生産、大量消費されていく。 こんな演劇現象は世界広しと言え、日本(東京)だけだ。他の国では 新作(戯曲)は数えるしかない。現代演出こそ、新作<上演>作品な のである。

2007年11月20日(火)
自問は続く。

今回の『アンチゴネー/血』ではいったい、どれくらい自問したであろう か。それを文章にするとかなりの紙数になる。『アンチゴネー/血』の卒 業論文が書けるほど(笑)。

まあ、まだ卒業はしていないが、この舞台で何故、アンチゴネーなの か。はっきり言って厄介な重しでもあった。その分、ずいぶん考えざる を得ないはめになった。そもそも彼女の名を作品名に冠したのは直感 からである。では、その直感は何に根ざしているのか?単なる思い付 きに過ぎなかったのか、もっと根深い理由があったのか、それを探る 作業が繰り返されてきた。自分の無意識の欲動を探り、自己批評して いく作業である。

アンチゴネーとの出会いは30年前、大学のフランス語の授業でアヌイ の戯曲が取り上げられたとき、その勢いでアヌイの『アンチゴーヌ』を 読み込んだのが、最初。
それから十数年が経ち、ギリシア悲劇を研究し始めた1990年代中ご ろが次の契機。その時はむしろ『トロイアの女』などに登場するカサン ドラに惹かれたのだが、それから十年を経て、アンチゴネーに再会し た。そして、この子供たちの自殺を巡る発言を契機とした舞台に何 故、彼女を引き合いに出したのか?それをひたすら思考し続けてき た。

2007年11月24日(土)
一回目の通し稽古をする。
今回は、複数のテクストが入って、しかしよくわからない「実験劇」では ない。一本の幹があって(俳優の身体)、それによって劇は支えられ、 ラストに一気に向かってゆく。<アンチゴネー>とは何者か。それは見 る観客によって多面的な相を、層を持ちうる「何か」。その「何か」の強 度が凄く強い舞台になっている。
で、この「何か」だが。。。。。「何か」としか言いようがない。言えるの は、それを「どういうつもりでやるか」(表現の根拠)、「どういうふうにや るか(方法)」、そこは万全だ。はっきり言語化できる。しかし、やること はあくまで「何か」をめぐってである。それは見てもらうしかない。

2007年11月27日(火)
二回目の通し稽古をする。

舞台(演技者の複数の行為の連鎖)の行為を支えるテクストとその特 殊な技法(前半は叙事〜3人称語り的発語、後半は吃音的発語、複 合主体による発語)での発話を通じた言葉と身体の相互関係の運動 の中で見えてくる「見えない」もの。それを今日は出来るだけ、外野 席、一観客の目で読み取ろうとしてみた。

舞台で起きている現象の数々ー俳優の身体動作、配置、照明、複数 の書き手による現代部分のテクスト、二つのギリシア悲劇からの引用 部分のミックス、これらの「データ」の再構成、によって生み出される多 層的な行為の連環の表象の奥から見えてくるもの「見えない」もの、そ れを今日は俯瞰的に読み取ろうとしてみた。


「アンチゴネー」に関しての考察

ソフォクレスの『アンチゴネー』はテクストだけを読み取ると(かつ現代 人の目で見ると)、主役はクレオンであるし、アンチゴネーはただ強情 をはっているように思えたりするが、どうもそういう視線で見ていること 自体が、わたしたちの「近代のものの見方の枠組」を照らし出すような 気がする。アンチゴネーはそれを逸脱して、超越的な存在であるよう な気がする。古典テクストの中では出番は中途半端だし、中半くらいで フェイドアウトしてしまい、あとはクレオンとその息子の対立と息子の自 殺、更にクレオンの妻の自殺という風にクレオン自身が打ちのめされ てゆく悲劇なのだが、そうであればあるほど、アンチゴネーはそこから 逸脱しているものを直感させる。読解の視線そのものが「近代」の拘 泥を表出させる、そういう存在なのだと思う。自己批評的に見れば、自 分の目(近代を制度として引用した社会で教育を受け、生きてきた中 で育くまれた視線)が持つ限界が逆に映し出されて来る。そこから舞 台の表出、構成を考えたいと思ってきたのだ。その結果をいま目のあ たりにして、何が見えるか・・・・。

2007年11月28日(水)
『アンチゴネー/血・U』をめぐる思考

シーン1:OLたちの自分の「手首」の発見。道具の一部(労働/消費の 道具)化した身体の発見→労働の道具としての手、無意識の存在が 意識の下に入る。そこからシーン2の動きが始まり、「光の檻」の中の 世界に通底共鳴してゆく。

「光の檻」とは、「掲示板」の発言者の世界。自殺に追い込まれたり、 自殺をした子供たちの声とコトバ・・・が聞こえる場所。ここで、「子供た ち」とは14歳くらいを想定している。サカキバラの14歳、子供から大 人への通過儀礼の年頃・・・。戦後の日本は「通過儀礼」を無くした、そ の結果、主体/責任なきオトナコドモ社会と化した、という認識が前提 にある。「14歳」はオトナコドモのまま過すか、主体の確立をめざす か、分かれる場所でもある。

これが<アンチゴネー>なる「何者か」を舞台に呼び込む場ともなる。 『アンチゴネー/血』はその背後にある「大きな物語」、神話や伝説など を形成する伝承、口承など語りものに通じてゆく。無数の民衆による 伝承、その中で形成された人物がアンチゴネー。ソフォクレスはその 人物像を元にプロット(筋立て)を再構成した「一作家」にすぎない、と 見ることも可能だ。アンチゴネーは近代文学の「作家」と「作品」の関 係のような、作家によるオリジナルの人物ではない。

それは超越的なもの(根源的なもの)とのつながりをもつ。多くの民衆 が伝承し、口承し(支持し)、それが共同体(社会)に必要なものとして 継承された。その前提に立つことで、ギリシア悲劇は、ギリシア社会そ のものの存立と関わるイベントとなりえた。あるいは共同体(社会)に 必要な祭儀、イベントの中で演じられた、ということからこういう伝承の 人物が劇の中軸となったとも言える。

<閊(つか)える身体>によって、この「伝承」された人物の根源部分 (存在理由)にアクセスしようと試みる。身体がその深奥の時間を顕す ことで次第に繋がりを持ち始める。「見えない」もの(実存を支える・・・ 生きている意味、世界の意味)と触れ始める?

2007年11月29日(木)
演出家(のような者)である私は、しかしどなる、ものを投げるというこ とを基本的にしない。静かに話す、やわらかい物言いをすることを心 がけている。

出来るだけ、可能な限り言葉にして、説明をする努力を(それでも言葉 足らずだが)することにしている。無理矢理、理屈も言わず「つべこべ 言わずやれ」は演出家として反則だと思う。それは彼の未熟さ、演出 としての表現能力の欠如(役者は身体で、実際の演技表現で語ること も可能だが、演出家は言語でしなければ演出とは言えない)、概念化 する力の欠如だと考えている。

今日、通し稽古をして、どうしても引っかかるシーンが出て来て、一晩 中、ビデオを何度も回し、台本を何度も見て、明日の稽古での演出の 工夫の提案、構成の若干の手直しや言葉で指示するアドバイスなど の文言を考えた。

演出の一言は相手に立ち直れないくらいのダメージや傷を与えること がある。演技者は自分を晒してそこ(舞台)に立っている。さらけ出す 事、暴かれることのある種の「恥」に耐えている。だから、言おうとする ことをストレートに言ってはならないことも多い。言葉を選び選びしなが ら、デリケートにそれでいて、相手にきちんと通じるように話さないとな らない。

そんな毎日を送っていると、さぞ能弁になるだろう、と思われるかもし れないが、いつまで経っても口下手な自分は、言語能力がつくづく貧し い、と情けなくなることがある。でも、いや、だからこそ、口下手なりに、 たどたどしいなりに言葉で他人に説明できることはする、そういう努力 をしたい。だから現場で起きていることを理論化(なんて偉そうなもの じゃないけど、少なくとも自分が何を信じてやっているかくらいは言語 化したい、と強く念願している)したいと思い始めている。ずいぶんオク テだけど。

テラ・アーツ・ファクトリーは女ばかりの集団だから、着替えの時とか、 生理の時とか、荷物運搬の時、仕込みや立て込み、いろいろと普段 自分が想像しない難しいこと(男ゆえ)に出会う。
まあ、長いこと主夫(仕事持ちながら家事一切引き受ける)生活経験し て、トイレ掃除、流しの掃除、部屋の掃除、洗濯一切、炊事調理(公演 近づくともう不可能だが)、食料買出しと、一般の職業を持ちながら家 事をする女性と同じ(子育ては経験ないから、そのタイヘンさはわから ないけど)生活条件を引き受けてきたから、そういう面はわかるのだ が、やはり身体能力の差とか生理の時の不快感とか、どうしてもわか らないものがある。

私はフェミニストではないし、テラ・アーツ・ファクトリーもフェミニズム集 団ではないが、女性が会社や職場でどういう状態にあるかは、身近の 者からいつも実体験として聞かされている。だから、この男中心社会 には少々不快感を抱いている。その程度のことからではあるが、テラ の題材は、「男性原理」問題やジェンダーをまな板にあげつつ、でもそ こが「敵」の本丸とは思っていない。「男性」も抑圧されているのだ。い や、人全体が抑圧されている構造を持っているのだ。それは多層的で ある。

その一つの層は「近代」の問題であり、更に日本の場合、ヨーロッパと は異なる「日本のねじれた近代」の問題がある。更に家父長制の残滓 も実は根深くあり、儒教の影響(韓国ほど大きくはないが、ないわけで はない)もあるし、戦後日本の問題もある。戦後日本の、とは「大人」 になる(主体形成/責任主体)「通過儀礼」を欠如した社会を作ったこ と。これは戦争責任の曖昧化とも関わるし、アメリカが政策的に「日本 去勢化」を戦後意図したことにもよるし、保守政治家がそれを利用しな がら、延命してきたことにもよる。結果として、社会全体が「オトナコド モ」化した?

稽古場のある文化施設で「全国青少年大会」が行われていた。「健全 青少年育成者表彰」などとあったが、「健全」とは何を指しているの か?大人自身が不健全な社会で、どうやって青少年だけに「健全にな れ」と言えるのか、などと苦笑してしまった。


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