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集団創作に関して。
テラ・アーツ・ファクトリーの表現(体現)コンセプトでもある<光の檻>
(資本主義世界=欲望=光、と象徴し、その檻の中に閉ざされる人
間、ミシェル・フーコーの言う監獄のイメージも重なる基本コンセプト)、
<スクエア>(<光の檻>を照明と演出の方からさす用語)を前提条
件にして、新シーン案についてメンバーから出されていた提案を整理
し、実際に試してみながら新シーンをどう作るか皆で検討してみること
にした。しかし、どうもシーンとして魅力的な感じにならないし、全体の
構造もぼけてしまう。「イグアナ」のシャープな舞台感を弱めてしまう。
次に全員が舞台に動かずに立つ状態から始まる、という別の提案を
試してみる。そこに「拘束女」が這って登場する、という流れ。最初のシ
ーンとして惹き付けるものがあることはある。<群集の中の孤独>の
ようにも感じられる。実際には一人しかいないのにたくさんの人間が密
集している。そんなはずもない部屋の中の<孤独>を暗示する。「拘
束女」が席に着いて、それから4人の「イグアナ娘」たちが腰を降ろ
す、時間が動き出すが、どこか隔離されている時間。「言虫」の動きあ
って、「りっちゃん相談室」のテクスト、次に掲示板テクストに入るという
流れになるか。悪くはないが、ちょっと物足りない。。。
稽古後、井口と藤井、中内でちらしの文言について打ち合わせる。二
人から積極的な意見が出る。私が考えると演出なだけに演出的な言
葉になっちまう(概念的になる、説明してしまう)、あまりお奨めではな
い。それを避けたくて、メンバーからの、彼女たちの持っているボキャ
ブラリーでのコトバが欲しかった。難解な言葉を避ける、思わせぶりに
ならず、しかし見終わった後、その言葉と舞台を比べながらイメージが
ふくらむような感じ、の言葉。とにかく一行のフレーズの難しさにいつも
ながら立ちくらみをする。言葉は一語と一語の組み合わせで、見える
景色がすっかり変わってしまう。字体によっても大きく変わる。すごい
「生き物」だ。わいわいとやっているうちに、それなりに「行けるので
は?」という言葉が掘り起こされだす。
で、「彼女たちの居場所」と「私たちの話」という言葉がちらしに入るこ
とになる。「彼女」たちとは掲示板の中の人物であり、「永田洋子」であ
り、あるいは今までの作品だと「ノラ」であり、「アンチゴネー」であり、
「ジュリエット」であるし、来年の予定作では「岸田理生」であり、「カサ
ンドラ」である・・・・。新テラになって一貫して追求している劇の根幹構
造に関わるコンセプトに繋がる言葉である。「彼女」たちの<か>は、
<か>の女、<か>の人、<か>の時、<か>の事。一方、「私の
話」とは集団創作で書き記した上演テクストの・・今回は掲示板を書い
た当人たち(わたしたち)であり、その背景のいま、このときの世界で
ある。こちら、この時、つまり<こ>の世界である。そしてテラの舞台
のドラマツルギーは基本的に、<か>の世界と<こ>の世界の接触
点を探り、何とか接続(アクセス)する、その交差、交錯を体現するも
のである。そんなことを説明的にならず、うすぼんやりと想起できる、
そんな文言にしたい。
●集団創作に関して。
20年間、ワークショップを基盤にした活動を続けてきた。そこから「集
団創作」という作品創造の考え方が生まれた。一人の作家 が書いた
芝居をやるのではなく、集団のメンバーが創作主体となる作品は可能
か?果たしてそんなものが、観客に見せられるものにまでなるものな
のか?
作家という誰かによって書かれた戯曲や台本の上演を決して否定しな
いし、文学的に優れた戯曲の上演が、しっかりした演出と 俳優によっ
て優れた舞台を生み出すことも了解している。しかし、私はそれを持
たないところから始めることにした。すると後に残るのは演出家と演技
者。持たないところから始めるということは、「外」に表現すべき世界を
求めない(依存できない)、ということを意味する。結果として自分たち
自身に目を向けざるを得ない。演技者には(私たちには)果たして何
か発信すべきこと、提示したいことがあるのか、ないのか。稽古場が
自問の場に変わる。これはかなり苦しいことだ。語るべきもの、伝える
べきものを演技者は(私たちは)果たして持っているのか?
しかし、観客と同じように今を生き呼吸している私たち(作家以外の演
劇に関わる者)には日々の変化や人との交わりの中で感じていること
がいっぱいある。自分の中を静かに見つめてみると忘れてしまったこ
と、意識していなかったこと、気付かずにいたこと が、いっぱい意識の
中に浮かんで来る。
それを新テラ・アーツ・ファクトリーになってから、作品ごとにテーマを置
いて、「集団」内部に「掲示板」という共同の発言の場を作 り、みなで
書き込んでゆく作業を開始することで意識化し、表面化させる作業を
継続してきた。実名だと誰でも友人や仲間、彼氏にさえ知られたくない
ことが多く、どうしても身構える。多少のウソで自分を守ったりもする。
脚色してしまう。だからメンバー内でも 匿名を原則とした。
『イグアナの娘、たち』はタイトル通り、萩尾望都さんの「イグアナの娘」
の主人公を念頭に自分を異物、余計もの、異形、歪んだ存在と考える
子供、あるいは成人前の女性というテーマで書き込みを行った。こうし
て「掲示板」への書き込み発言から「イグアナの娘、たち」の「集団創
作」は始まった。時は2004年末、全員がワークショップに参加する女
性メンバーだった。出来上がった作品は2005年4月に、ワークショッ
プ内の非公開試演会で上演され、2006年4月のMSAコレクションに
参加。今回はその上演版を下地に再構成されたものの上演になる。
その間に何度かの「集団創作」による作品作りをほぼ同じメンバーで
積み重ね、このメンバーたちが現在のテラ・アーツ・ファクトリーを構成
する団員となった(「集団創作」に関する記述、再考はしばらくこの日
記で、『イグアナの娘、たち・U』の演出日誌の形で断続的に継続する
予定)。
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成長したなあ、感慨深い一日
昨日、横山から冒頭シーンの新案が出された。これは行けると思っ
た。自分でもいろいろ案は考えていたが、自分が考えていたものより
も横山の案の方が優れている、ベストに思われた。こういう舞台のグ
ランドデザインに関する提案がメンバーから出てきたことにうれしさを
感じる。「集団創作」と言っても、具体的な舞台シーンに関して新作の
場合はほぼ私から案を出して進めて行くことが多い。『イグアナの娘、
たち』も非常に短期間(三週間)で造形されたものであるし、「アンチゴ
ネー」も立ち上げは実質二週間。私が案を出し、それを皆が造形す
る。そういう「分業」でやれば作品はどんどん出来上がる。でも、それ
でいいのか?
もちろん、案を形に変えるにも、体現能力がメンバーに備わっていな
いとどうにもならない。現在のテラ・アーツ・ファクトリーのメンバーは、
テラ・アーツ・ファクトリー独自のメソッド(Fメソッド)を基盤にした長い
継続的な訓練期間を共有しているから、そこはクリア出来る。逆に外
部からいきなり別の団体の役者が入ってきても、体現能力(身体表現
と言語表現、つまり「外的状態」と「内的状態」とが分離せず、濃密に
統合される、そういうテラ式演技形態)がついてこないから不可能にな
る。しかし、それでもやはりそれだけでいいのか?
今回は前回の経験が叩き台としてすでにあり、ほぼ全員が二度の上
演に参加しているから皆、十分消化する余裕があるし、公演活動に入
る前のワークショップ期間、実験創造工房内での度重なる試演会、公
演活動再開以降の6度の舞台をほぼ全員が共有してきた。そして8月
からぼちぼちと上演に向けての思索、思考作業は個々人で、また集
団でも積み重ねてきた。それだけに出来たらメンバーからプランが出
てくることの期待が大きかった。だから余計うれしいのである。「集団
創作」はいわばポリシーであり集団活動の根拠に関わる哲学である。
が実際にそうなることはことのほか難しい。結局演出の私が作家の代
行者の立場に近くなり、創造作業を進めて行くことになる。それはそれ
でいいにものが出来ればいいじゃないか、という観客の立場からの求
めはわかるが、それでは創造主体のこだわり、ポリシーが崩れる。愚
直でも、なかなか思うような成果がすぐに出なくても、一生をかけて追
い求め、追求するものがあっていい。特に芸術行為に関してはそれが
良さであり、可能な場なのだ。だから、たとえすぐにうまく行かなくても、
そこに何か重要なことがあると思ったら、主旨を変えず、変節をせず、
時流にあわせず、頑固に一筋の道を探求し続ける態度、があってよ
いのだ。
そんな思いもあるからメンバーから有力な案(案だけならこれまでも常
に出てはいるが、考えが浅かったり、思いつき以上のものではなかっ
たり、もう一つ、これは「すごいっ、行ける!」という感動が伴うものが
出てこない)が出てきたことに感慨を深める次第。成長したなあ。。。。
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わかりやすいことはいいことか?
何故、テラの舞台はわかりづらいと思われるのか?(特に初めて見る
演劇の観客)を考える。身体性を軸にする舞台、と言っても 一般の演
劇の観客にとってはどうでもいいことだし、あくまで方法の問題だか
ら、そこを口実にする気もない。また、テラは「集団創作」、つまり上演
作品の創作プロセス、出演者も含めたメンバー側、創造集団の作品
への関わり方を重視しているが、それもウエルメイドを求める観客に
はどうでもいいことだ。結果が全て、観劇はチケットを購入して消費す
る商品の一つ(目的は娯楽でも教養でも)という市場原理に劇場も包
囲されている中では、結果が全て。でもなあ、消費中心の自由競争主
義で行くと、やがて壁にぶち当たるのはどの分野も同じ。新しい携帯
電話機のコンテンツやデザインを競うのもいいが、基礎、基盤研究も
大事なのは科学も演劇も同じか。。。。しかし、だからと言って言い訳
するのではなく、市場原理の中で結果だけを追求する観客にも訴えら
れる作品を作れないか?
一つのライン、一人の人物(主役)に焦点をあてるのが、観客にはシン
プルで入りやすいことはドラマツルギーの基本的テクニッ ク、観客の
同化を得やすい手段である。しかし、それを使わず、ウエルメイドと感
情移入に依存しないで、テラが好んで使う二つの世界をパラレルに対
置し、その二つの領域を繋げる「作法」は確かに受け手にとっても見
方がわからないと受け止めが難しい感じになる。そこが「難しい」という
印象を持つ理由だろうか。そういう構造の舞台になじんでいればクリア
できるかもしれないが、ちょっと珍しい作り方だと思われるし。
だから鈴木忠志の『トロイアの女』や『リア王』のような現代人の幻想、
という世界構造を取るのは一つの手であり(ヨーロッパではしばしば衣
装などでたとえば『サロメ』を19世紀末の宮廷とかに置換したりする
し、鈴木の手法はむしろ20世紀初頭からヨーロッパで古典を演出す
る際、常套手段化されている)、それは見るほうも受け止めやすい。し
かし、そこは禁じ手にしたい。
その上で、観客を突き放さず、私たちが意図する演劇を有効化するに
は何が必要か。テラ・アーツ・ファクトリーが取る「あちら」と 「こちら」、
二つのラインを引いてその接続を図る方法に依拠しつつ説得力を持
った作品を作ることはできないだろうか?
劇構造と同時に、テラ・アーツ・ファクトリーの劇の作り方の基本である
「集団創作」に関して。一人の作家によってではない舞台作品、「集団
創作」という作り方、が殆どないないからこそやり続ける必要がある。
演劇が、社会的に意味があるものなのか不要なのか。演劇の中でい
かに注目されようが、演劇ファンの中でいかに評価されようと、わたし
の周りの演劇に関心のない多くの人々の「林さん、正直に言うと演劇
って社会にとってそんなに必要なものに思えないんですよね」という問
いには答えられない。
ともあれ、一つの完結した作家の世界観に基づく作品世界の「提示」
ではなく、「多声的」な世界の表象と「反芻」の場としての演劇、は可能
なのか?そこが目下の追求点である。
『イグアナの娘、たち・U』稽古
横山、和紅が仕切り進行役で稽古を進める。私は黙って見ている。
「駄目だし」(テラでは「駄目だし」という用語はあまり使わな い。コメン
トとアドバイスと言った感じで皆が発言しあうのが基本、これも「集団創
作」の基本作法)をメンバーに委ね、彼ら相互でやってもらうのを見て
いる。メンバーから活発に意見が出るのを頼もしく眺める。作品の世
界をよく理解できている。こういうところにメンバーの成長(20歳から
付き合っているから)を感じ、微笑ましく思う、なり。
シーン1a、多美子中心に井口、中内、和紅ら意見しコメントする。多美
子は今回が初めての出演になる。参加して三年目、しかし、ほかのメ
ンバーとの力量の差が歴然としている。何より、鋭く理解していない。
多声的発語能力、などの技術も伴わない。「死に物狂い」になるしか、
この緊張感のある舞台の中には入れないのだが。。。
シーン1b、新掲示板テクスト、各人が新たに書き込まれた掲示板テク
ストからそれぞれ選んで加えてみる。14分程度の長さになる。
たんたんと読む感じも悪くないが、やはりこれでは普通の「自分探し」、
さまよっている若者世界の話になる。新しい掲示板の内容も、少し「大
人」になってしまって、2004年当時の「過激さ」、良い意味での「どろ
どろ加減」が薄れる。「イグアナ娘」はもっと反社会的、危ない、危険な
ものを持っている。自分の存在への敵意、後半に黒ドレスの女=革命
戦士、の抹殺に繋がる回路が必要。
永田洋子はやはり「抹殺」したのである(1972年の時点で)。その後
の彼女は自己総括を徹底し、それは認めるが、しかし彼女が犯したこ
とは、「こちら」側からきちんと総括がなされるべきで、社会的には全く
積み残し、放り投げられて、時空をさまよってい る。だから亡くなった
「彼女」たちのためにも「弔い」が必要なのだ。
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「女の園」の話題は赤ちゃん
「女の園」、今日の世間話のテーマは「赤ちゃん」に。フツーの女の子
のフツーの話が多いのが、テラの稽古場の特徴。テラ・アー ツ・ファク
トリーは芝居人種というより、普通の女子が多い。やっていることとの
ギャップが何とも面白い。そこがいい。
彼女たちの専門学校時のゼミの同級生(元生徒)がすでに三人、赤ち
ゃんを作った。一人は卒業公演でヒロインをやり、芝居やる気満々、
「あたし、一生結婚しないと思う」と飲み会で言っていた。が、一番早く
結婚し赤ん坊をこしらえ唖然としたら、テラの吉永さんが「あの子、一
番早く結婚しそうだったじゃない」と笑う。あいも変わらず女を見抜く目
は全くない。女はやはりウソつき(笑)。
もう一人の元生徒は好きな劇団にどうしても入りたいというので最初
は反対したが、思いが強いので「じゃあ、5、6年は続けなよ。やめる
でないよ」と堅く言いつけ知人の劇団主宰者に引き合わせた。が、す
ぐ結婚し子供を作ってやめた(一応休団)。ま、今回の「イグアナ」は
「女のホントとウソの境界線」がうたい文句だから、人間(女)の実存に
迫れるか。。。。
かつては芝居をやる、劇団に入るとは「世を捨てる」、世間一般の幸
せに背を向ける、ということを意味していた。いまは、さっと好きなこと
を25歳くらいまでやって、「売れ時」を逃さないうちに「人並み」に戻
る。その手の連中も多いし、全く逆もいる。これも多様化、二極化か。
どっちが幸せかは本人次第。未来はまったく見当がつかない近頃の
日本であった。
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シーン再構成を役者連、考える。
今日は演技者連中主体でシーンの再構成の取り組み(当面、自主的
に作品を再構成する時間を与える)。
稽古後に演出補の藤井、演出助手の佐藤と打ち合わせ。稽古場の状
況を聞き、今後の進行の仕方を一緒に検討する。頭で腑に落ちるタイ
プではない。からだで少しずつ理解していくタイプが主体のテラメンツ。
もうちょっと新しいシーン展開を試し、からだがなじむのを待つことに。
とにかく、こうして若いメンバーの精神的、内面的成長を促していく。
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今日の稽古場、演技者に渡す。
友人の舞台に参加していた 志村復帰する。「イグアナ女」たちの掲示
板テクストの確認、「言虫」の追加掲示板テクストについての検討を行
う。
テクストを「異化」(距離化)できる力があると、発語される言葉に「ふく
らみ」が生まれる。が、ただ読んでいるだけだと、書かれているメッセ
ージを代弁しているにすぎなくなる。すると途端に陳腐な様相。テクスト
の正直な再現、と表現は異なる。「異化」できる力、存在(語る主体)と
表出されたもの(ことば)とのずれの中に言葉の、意味の「ふくらみ」が
生じる。
代表者、代行者(リプレゼンテーション=作家の言葉、筋書きの再現)
の演劇の基本構造(近代劇)から、「大衆」自らが語り出す演劇構造へ
の根本的な質的転換→近代以前の民衆演劇とのつながり・・・メイエ
ルホリド的視点と共通する方向・・・。「集団創作」による演技者自身の
言葉の「紡ぎ出し」というテラ・アーツ・ファクトリーの方法の基底を支え
る思想である。
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根岸が急病で休みのため、予定シーンの見分出来ず。変わって前回
の稽古の際に皆に伝えた外部出演に関する話し合い。
その後、二手に分かれる。一方は外部出演に関しての話し合い。残り
は稽古場で、F基礎2から掲示板テクストに入る稽古。これまで、この
シーンに関して声、言葉が軽かった。が、F基礎2を足場に身体を深い
部分から変えて発語に入ると声の質感が大幅に変わった。本を読ん
でいるような状態から、人間の声、言葉にかわるじゃないか。濁った
声、くすぶった声、つっかえつっかえの声、湿った声、どんよりした声、
突き抜けるような声、人間の声とはそうしたさまざまな表情をたたえる
声だ。朗々とした声ではな い。
■来年7月の岸田理生作品に関してはベースのテクストがあるから、
演技面は置いておくなら、テラにとって創作作業はそれほど難しくな
い。何とでも料理できる。問題は秋の「集団創作」の新作。まずはアナ
ーキスト金子文子の把握から始まる。果たして時間的に可能か。で、
一昨日の中内、井口との打ち合わせで、私のほうから時間的に困難
なら事前に上演台本を作成してもいいが、と提案する。もとになるドキ
ュメントがある。彼女の生い立ちの記である『何が私をこうさせたか』
(金子文子著)、更に裁判での彼女の証言は思想的に現代を射抜く鋭
いものになっている。これらをもとにテクストを作成すれば(脚色台本
のような)、あとはこれまでの「集団創作」と違って事はよりスムーズに
行く。
が、それに対して井口たち、「集団創作というのがやっとわかりかけて
きたところ。台本があってそれをやる、ということは楽だけど、その道
は避けるべきじゃないか」。えらい!いやあ、スケジュール的にハード
な来年、それを何とか乗り越えて次につなげるに は、団員へのあまり
の負担や無理は避けるべきかと、あえて持ち出した提案なのだが、そ
うだよな。「集団創作」はえらいきついけど、みなそれがどういう意味を
有するのか、やっとわかりかけてきている。
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頭から全体の2/3の部分を通してみる。
特に難所は、テラの独自開発たる「連語」即興発語。発語するテクスト
(ことば)は完全即興。連想、隠喩形式で、前半部の現在の問題を抱
える少女たちの心的風景を即興的かつ断片的に描出しつつ、後半部
の連合赤軍・山岳の共同生活場面、同志殺し場面をモチーフとした連
想、隠喩へスライドさせてゆく。場面が現在から過去(あちら)へ重複し
つつ移行する。かなり高度な技術、というか演技者の知性が露出して
しまう、舞台としてはとても危険なかけ、のようなシーン。まさに生、丸
腰の演技者が観客の前に晒される。ここにこそ五年近く一緒に訓練と
集団創作作業を重ねてきた知的成果が示されるわけだ。観客にはむ
ろんそうした 裏背景は見えないし見えなくていいが、五人の演技者の
腕と「感性的知性」の見せ所ではある。
前回二年前は演技者の知的幼さ、若さが露出し、客席で見ていて演
出としては赤面の思いを抑えつつ見るしかなかった。が、今回はすで
に現時点でも十分見ていられる。見せてくれる。倍の時間、持たすこと
も出来そう。メンバーの成長(精神的、知的、心的な)を感じる。こころ
から喜びを感じる。そばにいる「隣人」の成長を見る、これぞ幸せ。今
ようやく五年間の積み重ね、下積みの成果が現れ、集団としては旬の
季節に入りつつある、感じ。やっと芸術的スタートラインに集団が立ち
つつある、そんな感じ。何にしてもこれからだなあ。
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たいしたことはないが、演出論
ちょっとした他人の一言で眠れない夜が続くことがある。だが演出と
は、自分がそうであることを横に置いておいて、他人に自分が言われ
たらたまらない言葉を平気で言える奴の事だ。ある意味、ひと(役者、
演技者)に眠れない夜をもたらす一言を、いちいち気にせず口にでき
る奴の事だ。そういう人でなしでないと出来ない。嫌われることを厭わ
ない、そういう無神経さを持たないとやってられない。
他人に眠れない夜をもたらす言葉を気にかけず口に出来る悪意、底
意地の悪さ、そういう自分に嫌気がさしながらもやめられない、止めら
れない。こういった病いを持った人間、それが演出家という人種だ。少
なくとも自分を見るとそう思う。ハラスメントなんてくそ食らえ、演出とは
オーラル・ハラスメントである。その言葉で他人が傷つくことを知ってる
にも関わらず、口にする無慈悲に快感を感じるサディスト、屠殺人。
自分の言った一言が気になって眠れなくなることがしばしばある。そう
いう良心が残っていて、それをどうかき消すか、無慈悲になれるか。
皆から嫌われ孤立し、もしかすると置いてきぼりを食らう。他人から憎
まれ、気づいたら捨てられている、そういう恐怖と闘う、いつでも孤立し
ていい、皆がいなくなったって構わない、そういう絶対的孤独、それが
演出家の懐刀。いい人では演出は勤まらない。自分の困難なところは
意地の悪い演出家と、人の良いヒューマン(パーマン)が同居している
ところ。そのバランスがいつも崩れている。演出家としては意地の悪い
奴のほうが絶対に優れている。
うん、どうしても本腰入れて演出し始めると、自分が悪い人種になって
いくのを感じる。仕方ないよな、それが演出なんだから。集 団の長とし
ては「人格者」的であった方がいいのだが、演出家としては破滅型の
ほうが面白い。自己破壊的人種のワタシ。そうした分裂を容認してくれ
るようになってはじめて「仲間」というか共犯者になれる。演劇すると
は、人間関係の一種のゲームである。
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声をかけて先頭に立ちファリファリ基本実施。
女ばかり、同じ学校出身の同期組(1982年生まれ)が主体をなす。
その前後一期違いがこれに加わって集団を構成している。つまり198
1年〜1984年生まれ女子が中心の新テラ・アーツ・ファクトリー。みな
20代中ごろ、20代の折り返し地点、結婚出産も含め、女子は男子と
は違う問題が集中する時期である。
同じメンバーで長く一緒にやっていることによる良い点はたくさんある
が、無論弊害も多少はある。得てして、安心する気持ちが緩みを生み
出す。新作ならば、必死で考え作り、試し、壁また壁、でそんな余裕も
ないが、今回は再演もの。で、出来上がりもほぼ想定出来て、気持ち
は至って安心に陥りやすい。安心が悪いわけではないが、そういう劇
ではない。激しい内容だから、そこはうまく切り替えてコントロールする
必要がある。そんなこんなで稽古場の引き締めを今日は図る。
ここのところ体調不良者が多いので、テラの足場となるFメソッ ド、ファ
リファリからもう一度稽古を立て直してみる。やはり原点はここであ
る。からだがリラックスし、温まり、そして稽古に集中できる体制に仕
上がる。Fメソッドがテラにあることはどれほど役立ち、助かることかと
改めてこの実践的現場的訓練メソッドに感謝。自前だが自分ひとりで
作ったものではなく、演劇を始めて以来、多くの仲間たちの苦労、汗と
涙が染込んで出来上がった訓練法だ。試行錯誤に15年以上、その
間格闘を続けながら出来上がったメソッド。大切にしたい、してもらい
たい。
のど、首、肩があったまり、リラックスしたところで「イグアナ女」の掲示
板テクストへアプローチ。声が「素直」にからだの深いところから無理
な緊張を強いずに出て来る。効果覿面である。
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稽古場を引き締める。
公演を二週間後に控えて、何だか相変わらずの「まったり」ムードに喝
を入れる。団員10名の出演者、今回は全員女。女が三人集まるとか
しましい、どころか10人の女集団は「曲者」である。
今回の作品の演出は出来ている。あとは演技者が消化するだけ。そ
こが遅れている。のんびりしている。なんだろうか。かなり危機感を抱
く。作品が作品、かなりの問題作だ。半端に上演なんか出来ない。覚
悟がいる。やる気持ちはある。が、何かが違う。妙な安心が、安定感
が災いしているのか。
女の子10人が結束するとはっきり言って怖い。こっちは男だし、向こ
うは年齢も近く仲も良いから結束しやすい。ただでさえ演出家と役者
はしばしば衝突するものだ。でもそれを怖がっては演出なんか出来な
い。集団なんぞ率いることは出来ない。「しゃきっとした」稽古場、「しゃ
きっとした」舞台、をやりたい。緊張感とそれを支える意識、そして筋
力、これを二週間で構築しないと(と自分に言い聞かせる)。
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女子集団テラは走る!
女子ばかりの舞台、毎日が女だらけの稽古場11人。
気づいたらこうなっていたわけでわざわざそうしたわけではない。集団
を作る(再結成)にあたって、20歳で学校を卒業した元生徒たちに声
をかけた。が、ついてきたのは女子ばかり。やる気があるのも女子ば
かり。それに男の舞台役者は30過ぎないとかっこうつかない。そうい
う意味で戦力にならないくせにプライド高くて自分がボスか兄貴(上の
立場)になりたがる。ハタチ過ぎくらいだと天下無敵、世間知らずの極
みだからやむを得ない。世間に出て仕事をするようになると、あるい
は劇団に入るとどこでも一番格下、若造、坊やだから、少しものがわ
かって来る。が、学生時はただのガキ、青二才、バカ大将。
そんな青二才君も、25歳になれば少しもの(社会)がわかって来る。
更に30歳になると、自分の能力、限界も知って謙虚さも出てくる(逆も
いるが芝居の世界ではだいたいそんな感じ)。このくらいから戦力にな
ってくる。これは女子と逆のプロセス。がそれまではなかなか難しい男
子役者、青二才君。
では女子はどうだろう。男子に比べて、事情が少し違う。男子は何かと
優遇され育てられるから「あんたが大将」的が多いのだが、女子は家
庭環境、特に母が娘を「女子」に作り上げてゆく。基本的に看護型ナ
ースタイプにあてあめられる。最初に渡される「道具」はお人形さん。
そのおもり役になる。そして成人し社会に出ると、女性には「責任」あ
る役を与えない会社社会があって、自然と「非責任」化する。ま、気楽
に生きていこう、結婚して子供できたら好きなこと出来なくなるしで、や
れる内に好きなことやっておこう的で旅行とか趣味に専念する。同世
代の男性社員は逆にそんな余裕はない。上司から叱られながら仕事
のノルマに負われる。それをこなせば出世し、出世すれば手にする金
が増える。だから頑張る。結婚すれば、家族を養わなければならな
い、子供を大学にやらなければならない、だから嫌気がさしても会社
を辞められない。
最近の若者事情は男子の「責任負いたくない」派が増えているらしい。
そういう統計が出ているかどうかわからないから一般論としては言え
ないが、自分が学校などで接触する範囲では増えている。ま、責任持
つ立場になるのは苦しいものだ。責任が常に自分の肩にのしかかる
毎日はストレス一杯。
■時分の花と成熟
18〜20歳くらいの女の子の輝き、花というのがある。それは25歳く
らいまでは「引き延ばし」可能。ゼミの卒業公演では基本的にその時
の各人の能力に応じて配役する。ヒロインは役にふさわしい花がある
かどうかも重要な選択ポイント。オーラがあるないは主役には特に重
要。が、テラには卒業公演で主役、ヒロインを勤めた者は入っていな
い。
テラに入った女子はみな「脇役」系である。脇は地味である。地味であ
るが集団で作る舞台集団ではもっとも重要な役を演じる(舞台だけで
なく舞台裏も含めて)。主役、ヒロインの持つ輝きはない。だからテラ
は主役不在、ヒロイン不在の舞台をやる。みなが脇役、みなが主役の
集団演技、集団演劇となる。
25歳くらいまでは花がある女子のほうが観客にはいいだろうが、継続
する集団を考え、25歳を過ぎて役者としての技量と実力で勝負できる
演技者を育てたいと考える(私個人は女は25から、という考えを持
つ。ロリには興味がない。人としての魅力《内面の》が備わってはじめ
てその人の魅力と感じる。外面だけの美 しさにはすぐ飽きが来る。
「可愛い女」というのには興味がない)と脇役系がいい。それにだんだ
ん自信がついてくると、別の「輝 き」「美しさ」が出てくる(内面と深く関
わる美)。それがいい。「長持ちする美しさ」。
一般に日本の男はロリ好き、ロリ傾向が強い。成熟を感じさせる女性
より、「可愛い」系が安心するようだ。何かと自分より目「下」のほうが
いいらしい。しかし、テラは(私は)「25歳以上」女の舞台をやりたい。
そういう事が可能な女子を選んだ(つまり続く、というのが選択の絶対
条件。もちろん将来のことは誰も予測できないが)。だから主軸が25
歳前後となった今がやっと来た、というかこれからテラの時代だという
気持ちがある。
で、運営者、集団のリーダーとして一番不安、頭痛の種は、25歳〜3
0歳女子の宿命、誰しも一度二度は関わる結婚問題。いわゆる「寿退
社」。相手が会社勤めなら転勤とかがあるから演劇の継続は困難。夜
が基本の「水商売」、時には終電間際の帰宅が続く劇団活動は許され
ない。相手がヤクザ稼業(同じようなお水系業界)なら、そこらへんは
クリア出来ても、子供が出来たらそうは行かない。熱を出したり、風邪
を引いたり、5歳児くらいまでは子供中心の生活タイムテーブルになる
から劇団活動は無理になる。細々と個人でやることは可能かもしれな
いが、集団活動は信頼関係が築けなくなる(必要なときにそこにいら
れない、というのでは集団の箍(たが)ははずれてしまうからだ。だか
らいくら本人が希望しても仲間には加えにくくなること。そこをどう乗り
越えるか、は今後の演劇集団の課題、だ。
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『イグアナの娘、たち』粗通し一回目
後半は段取り的だが、何とかなりそう。
「イグアナ」の劇構造がよく見えてくる。改めてこの作品の意義、特徴
がなんであるか、論理の部分で把握する。それは<間テクスト性>
だ。二人の他人=冒頭のおたく女とラストの永田洋子の独白、告白、
相談話に自己総括を引用し、<吃語>にする意味こそ、この作品の
構造を端的に物語っている。
<意味するもの>(言葉、身振りなどの記号)で情報を観客、他者に
伝送するのではない。観客を関係の場に引き出し、判断を求める、そ
ういう態度を具体化した作品である。社会主義や革命の正統性を訴え
ているのではない。永田洋子や事件の批判でも弁護でもない。よりニ
ュートラルに問題を浮き上がらせる。<何が>問題か。
そこを押し付けたり、一つのイデオロギー(確信)を伝えたりするので
はない。<何が>=<意味されるもの>を想像するための材料、契
機を場として人為的に生み出す演出。それがテラ・アーツ・ファクトリー
の舞台作品群なのである。
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リノリウムがない!
今回上演する劇場の備品にリノリウム(床に敷く舞台用の敷物)がな
いことがわかり(劇場備品に入っていたのだが)、外部から借りること
になった。が、それが重すぎてとても女子集団が扱える代物ではない
(大劇場用、一個100kg超)。劇場は5階、おなごばかりのテラ、こん
な重いものをとても持ち上げられない。運搬もある。そんなんで、もう
少し軽い(小さい)ものをと、あちこち大道具関係の会社をあたってみ
る。が、ない。幸い、夕方、知人に連絡がやっとつき借りられることに。
良かった。
そんなこんなしているうちに、基金申請書類のもとになる来年の創作
プランがまたまたまとまらず。締め切りは間近。一年先の企画を本番
間近に考えるというのもスリリング、というか頭の中がカオス。
グラウンドデザインがきちんとしていないと、その上に建てるものはぐ
らつく。審査に通る通らないという書類上の問題もあるから書面の文
章もしっかりしたものが要求される。すぐ目の前に公演、頭は来年の
構想の練り上げ。頭の回路が焼き切れそう。
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劇場変更でおおわらわの2008
前回七月公演『ジュリエット/灰』と、今回の十一月公演『イグアナの
娘、たちU』は、新しく出来る劇場で公演するはずだった。もともと倉
庫だったところで、何も手をつけていない時に見せてもらい、いきなり
空間に「惚れた」。無機質でクール、都市的。ここでやりたいと思った。
気に入りのスペースがようやく見つかり、「よっしゃ」という気持ちだっ
たが。。。
今年三月、新劇場はすでにオープンしているはずだった。しかし柿落
とし前日に行政から「待った」が。その結果、六月に決定していたテラ
の『ジュリエット/灰』公演は会場変更の運命にさらされ別の公演会場
に四苦八苦。同時期に適度な小屋が空いてなく て六月上演が七月下
旬に変更した。その余波を受けて今回、十一月上旬公演予定だった
ものが基金申請時期と重なる今この時とあいなる。そして、演出と来
年の企画作成同時進行状態に。。。。
日々、動いてゆく稽古場は、稽古と次の稽古の間に演出は一杯思考
するし次の稽古の用意準備、計画も立てる。ところが今回は、その稽
古の「間」を来年の企画立案が占拠してしまった。何かと現場に迷惑
をかけ危機的になることもあるのだが、メンバーがフォローしてくれて
何とかなっている。ありがたい。持つべきものは良い集団、良い仲間。
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来週の木金土曜の仕上がりをめざして進める。目途は立ってきた。
ここに来て「連語シーン」がネックになっていた。見えてくるべきものが
見えてこない。集団の即興シーンなので、個々がどうにかしようとして
も五人の意思と身体が一致しないとうまく機能しない。みなよく動ける
から、動きを見せる。という風になってはだめだ。場面の見えてくる、
浮かんでくるべき<意味されるもの>がある。それが言葉、身振り=
<意味するもの>を通して浮かび上がってくる、こういう構造が必要な
のだ。
しかし、今日の稽古では何とか「壁」を越えられる手ごたえが見える。
そこを切り抜ければ、あとは大きな問題はない。デティールを詰めて
行くだけ。
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今回は構成に手直しをした。
結果としてはほんの少しの直しだが、それだけで「見え方」が前回と全
然違う。面白い。今日の稽古でもこの作品からの発見がいろいろあっ
た。
こちらがあらかじめ考えたところに作品を持って行き、それを観客に
見せる。つまり送信と受信の構造を取る演劇がある。メールと同じだ。
その間(上演自体)でデータが歪んでは困る。
に対して、送信と受信の間に何事かが起き、浮かび上がる演劇があ
る。送信と受信は一体ではない。送信と受信の間=上演、の中で生成
される関係、浮かび上がる意味。こういう作品は演出として稽古場に
毎日立ち会っていても日々発見がある。わたしたちが今作ろうとして
いる演劇はそういう演劇である。
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風邪で声が出せないメンバーがいるため、通し稽古はやめにして抜き
稽古。今回一番苦心している「連語即興シーン」、声が出せないメンバ
ーの分は代役してもらう。
稽古後、企画事業担当メンバーと稽古場近くの居酒屋へ。今日仕上
げた企画文章NO.1のチェックを入れてもらう。
■テラ・アーツ・ファクトリーの女子メンバーは大半がしっかり者、自立
心が強い。が、逆に主軸の彼女たちが強いため、「強い姉の風下に立
つ妹」的な存在も出てきてしまう。そこをいかにしっかりさせてゆくか。
遠慮して自分を抑えてしまう、強い者に無意識に頼ってしまう・・・。今
回はそこを叩いたり鍛えたりしている。どこまで耐えて強くなっていって
くれるか。ここで叩かれて強くなる、それは精神的な「自立」の過程でも
ある。来年集団創作新作として予定している「金子文子」や連作予定
の「ノラ」という「女性の自立」を題材にした作品作りをしながら、同時
に自分自身の精神の「自立」も重ねていく。演劇でやっていることと彼
女たち自身の人生が重なっていくような、そんな作業。
悔しい思いをして「自立」心をより強くしていって欲しい。頼っては駄目
だ。自分の頭で考え判断し行動できる人間、でなければ。福沢諭吉さ
んの『学問のすすめ』のテーマじゃないか。自分の頭で判断して行動で
きる人間になるために学べ、知識を得よ、と。
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テラの基本方針。
各人の生活に極端な無理が生じないように公演する。アマチュア的活
動云々ではなく、実験的な活動を支えるには安定した集団とメンバー
が不可欠。
まずそうした集団を軌道に乗せる。最初の3〜4年は芸術レベルの方
法と理念を固め共有する。今年まではそこをしっかりやってきた。幾つ
かの作品タイプの創造スタイルを作り上げてきた。これは創造の雛
形、基本モデルである。それを今後は少しずつ広げ、時には大胆な実
験を進める。
実験的な舞台を作るには、最低でも五年は継続して集団活動に参加
するメンバーが中心、主軸を構成し、一定の技能と基礎教養、知識を
持つ必要がある。ポリシーを共有した集団だからこそ実験的な活動も
出来る。そういう考えで動いてきた。だから日々のバイオリズムが狂う
というのは避けたい。
一過的、一時的な集団や活動なら思いっきり無理や無茶をしたってい
いだろう。それでぶっつぶれても構わない。でもそういう短期的、一過
的なことを今更やる気もない。一回で「空中分解」すれば、それは単に
「無駄死に」、無駄なエネルギーの浪費に過ぎない。継続する集団、こ
れがテラの現在の目標。継続する同一メンバーが長く一緒にやるから
こそ出来るもの、をやりたい、のである。
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寒波が来るとの事、テラメンバーに備えよと通知。
しっかり者女子が多いテラだが、身体は割と虚弱系。だから寒い時期
や花粉症期(アレルギー体質が多い)の公演は避けるスケジュール配
分をしている。公演は気候に合わせているわけ。自然のサイクルには
さからわない昔ながらの環境派(笑)。
で、今回は11月上旬予定が劇場変更の都合で11月末、寒くなり始
める時期になった。今年は11月に入って、一気加速の寒さで予想
外。最初は一人が風邪を引き、長い時間稽古場に一緒にいるとすぐ
に伝播する。で今は半分以上が風邪にやられている。体力と声量の
必要な今回の舞台、一番の心配は風邪。
皆が健康で怪我もなく無事公演を終わる、それがここのところの日々
の「祈り」なり。
そんなことで昨日火曜日、今日水曜日(公演一週間前)は体調不良者
を休ませて作業や抜き稽古に。
健常者だけが表現欲求を持っているわけではない。健康でないからそ
の分、逆に表現する根拠、モチベーション、欲求が高くなる、場合もあ
る。互いにいたわりながら、励ましあいながら、しかし甘えは排して。そ
んな感じのテラ・アーツ・ファクトリーである。今日は来年度企画の第二
弾文書を練り上げる。
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一昨日、昨日は風邪で体調不良者が出ているため、本格的な稽古は
控え、無理をさせない。気になる分だけ軽く段取りや言葉の確認をす
るに留める。まだ感染していない者が作業などを行う。
それもあって今日は三日ぶりの通し稽古。風邪の影響で声を十分出
せない者も数名いるため、力を抑制してもらう。マラソンに近い(時間
的にも体力的にも)今回の作品は本気でやれば一日一回やるだけで
汗びっしょり、くたくたになってしまい稽古も二度やるのは難しい、そん
な内容のもの。7〜8割程度の力で流し段取りを点検しつつ調整す
る。ほぼ流れは仕上がってきた。その後、ビデオチェックしながら細か
い確認。本番で100%力を出せばよい。最終調整に入った稽古は、
本番に向けて流す、って感 じ。
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昨日に続いて通し稽古。
風邪気味が2/3、演技者には力を抑えてもらって、音響さんが舞台の
展開に慣れるよう音だしを付き合ってもらう。大きな問題はない。あと
は長引く風邪だけ。11月に入って急激に寒くなった。はじめは一人が
風邪を引き、次第に蔓延。近い距離の者同士が声を出し合うから、す
ぐに菌は稽古場内に広がる。我輩も引き始め状態で何とか持ちこた
えてよくなり、昨日稽古場に出て菌をもらったようで今日は朝から再び
微熱状態。頭がぼーとしている。明日までに何とか治したい。風邪は
引き始めが肝心、体質的に風邪薬が飲めない我輩は本格的に引い
てしまうとどうにもとまらない。
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昨夜は稽古場での最後の通し稽古。
「言虫」を軸に舞台を見てみる。するとまた見え方が違う。
この作品は試演会を含めて今回で三回目の上演になるが、もう修正
を入れる余地のないくらい(テクストの「語り」の部分や即興部分はいく
らでも差し替えられるが、基本構造はこれ以上手を加えられない)に
完成されている。テラ・アーツ・ファクトリーの舞台は、稽古や公演を重
ねて作品を仕上げていく<ワークインプログレス作品>スタイルを取
るのだが、「イグアナ」は今回でそのプロセスは終了というところだ。
それにしても濃密な作品だ。一見シンプルな作品だが、展開は早い。
情報量も多い。動きもせりふも洗練されてきた(技巧に走らないように
注意しているが)ので見ごたえはたっぷり。9人の「ハンドルネームさ
ん」たちの語り部分、「りっちゃんの話」、そして後半(第二景)の「Nさ
んの話」、それを中心にした無言の存在の女、さらにはじめから最後
まで舞台に立ち、身体運動量と身体と言語のフル展開で活躍する「言
虫」の存在。これらの情報を受けながら、見る側が個々人で「物語」を
組み立てられる。見ることに積極的な観客であればこれほど面白い作
品もないかもしれない。もちろん「お芝居」の筋を受け取るだけの観客
であれば、相変わらずテラの舞台は訳がわからないだろうが、今回は
コアな観客に見てもらえばいい。少数派の舞台(演劇自体、少数派だ
が)、それでよし。ここまで徹底すれば文句はあるまいて(笑)。
今日は快晴、気持ちよい。稽古は休み。
昨日通し稽古に立ち会ってくれた照明の奥田さんと打ち合わせ。さす
が自ら実演家であり作家である奥田さん。知的能力高い、理解力ある
なあと感心。話が早くてありがたい。いらぬ説明の必要がない。こうい
うスタッフがついてくれるのは演出としては千人力。基本コンセプトは
明快だから、アプローチさえわかればテラの舞台はほんとうは難しくな
んかない。ただ演劇が単一に単純化されてしまってわかりやすさを競
い合っている惨状、あいかわらずの同質性に安居しているトーキョー
の(ニッポンの)演劇の中では「異質」なだけだ。提案されたプランも面
白い。
稽古場での最終通し稽古と今日の照明プラン、昨日稽古に立ち会っ
てくれた音響阿部さんのオペ、これが演技者のフルパワー演技と一体
になれば、この舞台はすごい刺激的だと思うな。
今日は夕方から運転手。荷物やリノリウムの積み込みで連休で車の
少ない都内を新宿から日暮里までドライブする。途中、大道具担当の
ヨシキに購入した舞台用の椅子をピックアップしたいので購入店に立
ち寄ってくださいと頼まれ、そっちに回り込む。が、店に行って見ると明
かりがついてない。「どおしたの?」とヨシキを見ると目が点になってい
る。「もしかして休みじゃないの?ちゃんと確認しておいたの?」と聞く
が、勝手に相手はやっているものだと思い込んでいたらしい。あまりの
「抜け」具合に叱るに叱れず。まあ、こんなことは年中無休、少しずつ
若い子は仕事を覚えていってもらうしかない。一回一回が勉強。若者
育てるって、辛抱の一字なり。
小屋入り前で車も運転手も限られた時間で動く。こういう段取りの悪
さ、致命的になることもあるが、今回は余裕をみて二日仕込みにしと
いた。大事には至らず、そのまま駐車場に待機させ、明日朝、小屋入
りだ。そんなこんなで、公演パンフレット今日も書き上げる時間なし。ど
こまで書けばよいか、いつも最後まで苦しむ。まあ、何も考えず感性と
知性をフル回転してみてもらえれば、と思う。それだけでも十分面白い
作品だし、今まで二回の上演でも何人もがファンになってくれた作品だ
し。
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『イグアナの娘、たちU』、ようやく公演初日を迎える・・、が。
パンフレット(上演の資料)の版下レイアウトが昨夜やっとぎりぎ りで
仕上がる。観客の観劇に多少のタシにでもと、少し作品への手がか
り、スタンスが取れるような内容を念頭に注意深く書いた。いい按配で
書けた。この作品は今までどお言葉で表現したものか、いつも困った
もんだ、だった。上手く言葉で宣伝できない。どういうのって聞かれても
答えられない。だから今回はあまり宣伝しなかった。「危険な匂い」を
嗅ぎ分けて来てくれる殊勝な観客を待つ、そういう公演。そんなこんな
で要するに「理」で割り切れない、そこが魅力の、ともかく見るしかな
い、感じるしかない、作品なんだ。
でもなあ、そろそろきちんと説明くらいできんと、とかまともなことも考え
る。メンバーはこの作品の魅力を心底受け止めているから、説明の要
はない。「イグアナやる?」って言ったら、「やりたい!この作品大好
き!」で済む。これが、テラにとっての「イグアナ」(たぶんこの名称を
使うのは最後である)。集団の集団創作の総決算、テラ文化遺産なり
だ。
で、今回は稽古場で何度も眺めてようやく、この作品によって<表現さ
れているもの>が突き止められた。「突き止める」というのは、言語で
のことで、言語で語れるとは、一般化するということで、逆に「不可知」
(理では捉えきれない領域)の魅力がふんだんの「イグアナ」、何だか
わからないけど惹きこまれてしまう、鳥肌が立つ、それが何故なのか
おうちに帰って考えないと、と強烈に観客に迫り来る、この劇の醍醐味
にやっと自分の浅薄な「知」が後追いできた、ってことだ。が、無論そ
れさえ、言葉の大枠で大雑把に位置づける、というだけのこと。言葉で
作品語るなんて、所詮たいしたことじゃない。幾つかのボキャブラリー
を組み合わせれば、評論なんて至極簡単な仕事(言葉を仕事道具に
する者には)。
だから、少し用心し、作品を評するのではなく、作品がどお作られた
か、そのプロセスと、メンバーがどお関わったか、そのリポート的なも
のにパンフレットの原稿は留めた。そんなもんでしょう。現場では無数
の労力がかかり、大勢のメンバーが汗水流して作り上げた労働の産
物、演劇作品とは労働者・農民の手塩にかけた作物と同じ。それをた
かが言葉でたかが数時間の原稿書きの頭だけの作業で一刀両断な
んて出来やしない。売文家じゃなし。
で、今朝は制作助手のヤベっちに原稿を渡し、印刷してもらう手はず
だったが、印刷所の登録証が出てこない。印刷代を少しでも下げるた
め、近くの区の施設で印刷するのだが、登録証がない。家中、ひっくり
返し朝から大騒動。ええ!ほんとに今日から公演、なの?ってな按
配。
結局、制作助手のタミちゃんが持っていた。彼女に貸していたのは覚
えていて、でもなんせ公演前のてんてこ舞い状態、返してもらった記憶
に自信がない。でも、私から登録証をもらって印刷して来てとヤベっち
は言われたとかで、そう考えるとどうやら私が持っているはずと大騒ぎ
したら、何のことはない、タミちゃんが持っていた。返してくれるのを忘
れていた、とのこと。いつものことながら、タミちゃん頼むよ。叱るに叱
れない新人組。
細々したことが徹底して苦手なO型、小さな登録証のことだから、どこ
に入れたかいちいち覚えていない。返してもらったかどうかも覚えてい
ない。まあ、それでもB型82、3年生まれのテラ中軸メンバーとA型大
雑把と神経細かいがミックスの演出補佐うめちゃんがしっかり支えてく
れ、二人三脚ならぬ、十人三脚、いつもテラ女子精鋭軍の皆様にお世
話になりながら演出の椅子に座らせてもらっている。ありがたや、あり
がたや。感謝しながら、初日を迎える演出家であった。さて、家を出る
ぞ!えいえいおう!
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『イグアナの娘、たちU』 昨夜、初日無事終わる。
正直言ってテラの舞台で演出として客席にいるのは心臓に悪い。いつ
も終わったらぐったり状態。ハラハラしながら見ている。だが、やっと安
心して見られる域に入ってきた。出来は上々、初めて見に来てくれた
劇作家・演出家の小松杏里さんも「若手女優」陣の充実に感心しきり。
「女優はキャラや外見で売らない、それだと20代前半しか通用しな
い。技量で勝負させる」をコンセプトにテラはしているから、俳優の実
力で評価してもらえるのが一番うれしい。
新テラになって初めて見に来られた同じ寺山修司さんゆかりの映像作
家、演出家の萩原さんも「ことばと意味の解体と再生」が感じられたと
興味深く見ていただく。「林さん、ことばの人でしょう?」。「はい、ずうっ
と言葉の意味の解体と再生を原点にやってきました」。発語行為とは
身体行為である、という点で身体から発語行為を見直す作業をひたす
ら続けている。が、それは身体テクニックや身体表現を見せるためで
はない。だからバレエとかダンスとか興味ない(フォーサイスとかピナ
は見るけど)。それを実証出来るようになったのも俳優陣がこのF式発
語技法をようやくこなしきれるようになったからだ。
舞台のど真ん中で展開される五人の演技陣による「連語」作法(身振
りを伴った連句にあたる)は言葉自体も即興、難度はC。冒頭の語り
の切断的発語(吃語技法)も演技陣がどれだけ自分が語る語句を把
握しているか、その能力に全面的に依存している。段取り(演出)で決
めていない。だから演技者自身の「裸」の内面、思考力、感性が言語
感覚に浮き上がり、露出され、観客に判定される。これがテラがやっ
てきた、「危険な賭け」のような上演「ライブ」(現前の演劇)スタイル。
ハラハラするのもわかる。生徒使って学校の卒業公演やるほうが、よ
ほど安心できる、台本も最初からちゃんとあって、演出段取りも決めて
いるから出来具合もはじめから想定できる。全部虚構化する、つまり
は「再現の演劇」だから。
しかしテラは「現前の演劇」である。演じられている作品は「虚構」だ
が、演じている演技者の演技は「現実」である。どの舞台も基本的にこ
の関係で成り立つが、通常は「現実」の部分を出来るだけ見えないよ
うにし、「虚構」の部分を現実と錯覚させるような(それをリアルな演
技、「自然」な演技と称して)、そういう「似せ絵」の構造を持たせる。し
かし、テラは「現実」の部分と「虚構」の部分の関係を、意識的に関係
付けていく態度で作品化する。だから登場人物ではなく、演技者として
登場する。役のようなものに限りなく近づくこともあるし、演技者=演じ
ている本人の側に立つ場合もあり、あるいはこの両者を往還する。
これが「現前の演劇」(再=現前とも言える)の根拠。これは一筋縄で
はいかない。ただ「実験」するだけ、単なる試みだけ、ならいくらでも世
の中にあるだろうが、「現前の演劇」を、しかも一定水準で観客に納得
させる、それは滅多に出来ないことだ。
が、今回はこの「現前の演劇」も、ようやく安心して見ていられるレベ
ルになってきた。中軸メンバーも今年26歳、「子供芝居」はやらないと
決め、彼らには少し敷居が高いのはわかるけれど、ハイレベルなこと
に敢えて挑戦してもらっている。若者だけでなく、40代〜60代以降の
大人の観客を想定してやっているんだし。
『イグアナの娘、たちU』 二日目無事終了。
昨日、気になった照明のラストのF・Oのちょっとした「ため」と「ずら
し」、音響の「絞殺」シーンのレベル抑制などで、ずいぶんよくなる。
映画で活躍される女優の里見さん見にくてくれる。紹介され楽しく語ら
う。
若者に人気がある女性中心劇団にいた冬月さん、手伝いに来る。公
演を見てもらう。「こういうのはじめて見ました」。本来は舞台ではなく
映像の仕事をめざしているらしい。舞台、やるといいのに。
藤井の知人のプロデューサーの多田さん、友人の漫画家さんを連れ
て来てくれる。「すごく良かった」と。
しかし、この日は演出としては不満。演技者が突然「飛んで」しまい、ま
るごと一つのシーンが消えてしまった。第一景、掲示板のシリアスな話
を「異化」し重層化し、カオスと混濁、言葉を超えて空間が放熱し歪み
はじめる。前半部が中半部に「ワープ」し、拘束着女の日常意識が失
われ、深層意識に入るための契機の場面へと変容する。その第一景
と第二景のあいだ、断絶と変移のための伏線として手前に置いたシー
ンで、ジャンプの前のステップが消えていきなりジャンプになった。「え
え、おいおいどうしたんだよ」。思わず客席で唸る。これでは全然、舞
台や作品の印象が違ってきてしまう。稽古では一度も見ることのなか
ったものを見て、こんなに違うものだと妙な感心。それにしても、どうい
うことだ、これって。うっかりミス、しかし舞台で「うっかり本人」の周りが
気づいてもこの場面はどうにもならず。まるごと「飛ばす」しかなかっ
た。
終演後、反省と理由を追求しようとしたが、「どうしてそうなったかわか
らない」とうっかり本人。まあ、それでも後半は持ち直した。しかし、運
の悪いことにこういう日に限って、小屋主でもあるストアハウスの木村
君が見に来ていた。客はその日しか見ないのが基本だから、その日
駄目なら全て駄目だ。第一景の掲示板場面に関連して、痛いところを
木村君に突っ込まれる。さすが細かい。そこを見るのか、君は。この
日は演出が用意していた仕掛けが不十分で言われても反論しようが
ない。悔しさは次のステップに。
滝と香、志村、根岸で居酒屋へ。
龍さんの芝居の出演者連中とかち合う。昔、演劇団にいた北村さん、
黒テントの吉田さんなどベテラン勢たち。
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『イグアナの娘、たちU』 土曜のソワレ
ちらしデザインの奥秋さん、カノコトの戸田さん来る。
二人とも良質の舞台をよく見ている。テラ・アーツ・ファクトリーの舞台
も続けて見ている。その二人が二人とも「今回は今まででも一番良か
った」と絶賛してくれる。これは心強い。少しずつ若者たちは成長して
行く。その過程を見てくれる人がいる、それは最大の幸せ。むろん出
演者たちの関係者やご両親も見続けてくれる。本当に幸せなことだ。
演出としてはあと一日。「声が何とか持った」という安堵で一杯一杯。
ハラハラが続く。薄氷を踏む思いの日々。
「女性の自立を願って左翼運動に・・」やはり、その時代に生きていて
も、彼女がどう「女性の自立」を願うようになったか、その心性を理解
できなかったと思う。今日、舞台を見ながら自分はここで語られるさま
ざまな声、言葉(女性の気持ち)がやはり本当は良くわからない、こと
がわかる。特に演技メンバーに委ねた第一景の匿名の書き込み内容
は殆ど私には共有が不可能な世界だ。そういう、自分にとって違和感
のある「声」を集めながら出来上がっている「イグアナ」なのに、ラスト
に来ると納得する。それまで自分が見た一時間弱の世界に満足し、
強く惹かれてしまう。それも正直な気持ち。結局、理性では良くわから
ないことに惹かれてしまっている。感情が理性を裏切っている。頭では
やはり良くわからない。
むろん、演出として劇の構造や作り方、そういった論理面は押さえて
いる。しかし、劇の感情、というか世界そのもの、それが表現している
もの、表出しているもの、それがどうして自分にとって魅力的なことな
のか、そこがもう一つ理解できない。その分、この作品は自分にとって
魅力的であり、紛れもなく自分が作りたいと思い願った、紛れもなく自
分もその全体の一部になることに了解できる作品になっている。その
点(創作面)で、この作品は私個人のものではなく、やはり「集団創作」
としか言いようがなく、私はそこで構成を担当し、演出を担当した。し
かし、作品世界の主体はこの作品創造に関わった全員が個人を超え
て融合した世界以外の何ものでもない、と思う。
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楽日、とにかくこの日を無事迎えてほっとする。
あと一回のみ。こんなに早く公演が終わるのを祈ったことも数えるほど
しかない。
今回は演技者の健康面でどうなるかとヒヤヒヤした。風邪が一ヶ月以
上、メンバー内を駆け巡った。11月に急激に冷え込み、疲労が重なり
で、交替交替に移しあう状況。
言語の身体化、それが「イグアナ」の劇を支える核になる部分だ。声
が大切な作品、しかし風邪で喉は炎症を起こし、声が出せない人間続
出。公演前二週間はまともな稽古はしてない、おさらいみたいなのが
続いてしまった。そんなことで演技面の演出の詰めが殆ど行き届かず
本番を迎えた。それでも本番はきちっとやる。そうでなくちゃあなあ。ま
あ何はともあれ声さえ出りゃあ何とかなるこの作品は。
観客にはすこぶる好評と出演者たちが口々に言う。ま、迫力あるし、
なんだかわからないけど納得するしかないでしょ、ここまでやれば。
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公演終わる。
気力体力ともになし。精魂尽き果てる。
ともあれ全体的に観客の反応は予想以上に?好評。そもそも演劇で
永田さんに関係することを取り上げるなんてことは一種のタブーだ。
「何で今更」、そういう意見を何度も聞く。「ヒューマニズム」が大好きな
左翼系(心情的含め)の強い演劇界の中で永田さんは「嫌われ者」か
異端者。革命の中に生まれた「反革命」、「怪物」、そういった見方が
強い。見たくないものに触れたくない、自分たちは彼女とは違う、そう
いう保身も左翼の立場にある。むろんその左翼も今は昔、かもしれな
いが。
右翼でも左翼でもない、ただのフツーの「ノンポリ生活者」の立場から
表現(演劇)を志す私が題材に「政治」に関連したことを取り上げるの
は、「政治」は日々の「生活」と地続きのことだからと思うからだ。それ
を私たちの意識や意識を決定付ける無意識の領域から捉える、そう
いう関心があるからだ。だから私は彼女たちのことは「別の」問題では
ない、と思っている。私たち自身の中にある何か、それが解明され
ず、つながっている。そんな直感で動いてきた。それがこの作品を今
後も継続して上演したいという根拠になっている。
今時の若者たちはテレビで流れる当時の浅間山荘立てこもりの映像
を見た、といった程度の知識しかない。だからたぶん本当はよくわか
らないと思う。それでいいと思う。「きっかけ」、観客の中の何人かが、
「そこ」から何かを探り始める「きっかけ」、そうなればよい。「自分自身
の内面との格闘」・・・。
にしても、だいたい賛否はっきり分裂する先鋭な作品を続けてきたか
ら、観客の大半好評、というのは何となくくすぐったい。が、確かに今
回の舞台は有無を言わさず客を納得させる強度、密度、濃度に覆わ
れていた。心・技・体の「心」(精神年齢含めて)が技と体についてき
た。
いま、メンバーの結束は一段と固い。来年に向けて意欲満々。活動を
始めて三年弱(その前のワークショップ含めると六年)。これからしば
らくは、テラ・アーツ・ファクトリー「最盛期」、もっとも充実した時期に入
るように思われる。ようやく撒いた種が実を結びだす頃。1999年に思
いっきり「悔しい」思いをし、それから六年苦しみ、そしてやっと再起、
したかな。あいかわらず「ぼちぼち」でんな。
公演終わって、ばらしと打ち上げ。今回は来年の企画立案と重なり、
また心労もいろいろあって、最後の舞台が終わって、ほっとしたのか
一気に来た。精神疲労、極限。若いときはどんなに疲れていても打ち
上げは平気だったが、これからは寿命を縮めるかもな。ただただぐっ
たり。頭は冴えていてもう次のプランが浮かんだりしているが、体がつ
いていかない。
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