何故、人は表現を求めるのか
2009年1月27日 日記より
人は生きるために働かなくてはならない。生存は動物の基本だ。食を得るため鳩
も豹も一日中、餌を探し求める。人間とて同じこと。
しかし、人間には生存に必要なため脳が発達した。その結果、自我を持つように
なった。この自我は考える、人は何のために生きるのか。そこから苦悩 は始ま
る。実存的な問いだから答えも終わりもない。なぜなら人間も動物の一種だから、
本能は生存を前提に働くようになっている。生存とは個と種の生存。つまり自分の
命を守り、かつ子を生み育てる。そのための機能は与えられているが、それは実
存的問いに対応してない。生物としては実存的問いは余計なものなのだ。
しかし、人は人である以上、意識を持ち、自我を持つ。それゆえ悩みから開放され
ない。一時、子育てや会社の仕事に奔走せざるを得ない状況時には忘れることが
できる。が、少し余裕が出来たり、会社の仕事も先が見え出したり、子育てが終わ
ったり、人生半ばを過ぎると再び、実存的問いは頭をもたげ る。
芸術、あるいは創造作業は、こうした問いに答える領域として存在意義を有する。
かつては一部のインテリが文学で、自我の苦悩を表現した。しかし、今はインテリ
は一部ではない。インテリでなくても悩む。解決ははじめから、ない。われわれは
自分の命を守り子を作ること以外、生物として何も意味を与えられていないのだ。
しかし、自我を持ち、「こころ」を持ってしまった以上、人は生きている間、自分の意
味を巡って、自分の価値を巡って悩み続ける。
解決はないかもしれないが、悩むことから解き放たれない以上、悩むことを表現し
たり、そこから創造することは、単に一人で苦悩するより楽かもしれない。人間は
「幸せ」を追求すべきだ。人生の目的は幸福、とはアリストテレスの哲学の始まり
にあるが、今も変わらない。人生、同じ「苦」ありなら、「苦」を楽しむ、そういう方法
もある。
演劇、芸術、表現は一部の俳優や専門家のためにあるのではない。その前に人
にとって表現することが、根源的な欲求として存在する。その欲求を開放するこ
と、こころの底から「快」を求めること、その「快」は動物とは異なる、人間にだけ備
わった「快」である。
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