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王子神谷町にある劇場に岡村さんの公演を見に行く。劇団阿彌『ア・ミ・ナ・ダ・
ブ』、「観世栄夫追悼公演」と題される。
死んだ女が一夜だけ生き返る・・・能のようだ。外的印象ではなく、実際に観世さん
に能を師事したという岡村さんだから当然、能の精神を自覚的に踏襲しているの
だろう。ただし世阿弥の能は複式夢幻能であるのに対して、こちらは単式夢幻能
(という言葉は勝手な造語だが)。舞台は3間四方、4人だけの登場、その内一人
は舞台脇にいるが、声のみ。殆どかすかな動き、抑制をかけている。徹底してい
る。
しかし言葉を話すだけの劇ではない。身体の強度が言葉を支えている。
言葉と視界から来るイメージが象徴界の中で像を作る。こうして劇の再現は脳内
で成立する。記憶による情報の蓄積と感覚器官から受け取る情報が重ねられ模
像を作って世界を再現する、これが我々の脳の構造だが、感覚器官から入る情
報の前にすでに脳の中で多くのことを既知していて、現実界からの直接情報はそ
れを補佐する程度の場合から、より感覚器官が有効に働いて、脳の中で固定され
た像(型)を超え、柔軟に「型破り」の認識が出来る場合まで、この両者の間にさま
ざまなレベルがある。そして観客は、この間の濃淡の度合いに応じて、目の前のこ
とを認識する。だから一人一人で同じものを見ても脳の中で見えているものは全く
個人個人で違っているのだ。
「型」(心的レベルの)に縛られた状態が強いと見ているのに観ていない。触れてい
るのに触れていない状態になる。何故なら脳の中ですでに事物は固定されている
からだ(固定観念)。ワークショップに初めて来る人は大概、相手の声も言葉もちゃ
んと聞かない。これが我々の日常身体である。ちゃんと目の前の相手さえ聞いて
いない、見ていないのだ。だから目利きの観客になるとは「聴く、観る」という訓練
がかなりいる。
更に日本人は「型」でものを見る度合いが強い。「型」に依存しすぎる理由は、内面
が不安定で不確かだからだ。「型」が決まったものに依存したほうが安定しやすい
ということもある。だから「お芝居」という「型」、演劇という「型」がすでにあるものだ
と思い込んでいる。これらの「型」の基本はすべてアリストテレスの美学の中にあ
る。テレビ・ドラマまでそうだ。2500年、変わらない。いや、20世紀に歴史上(西
欧だが)初めてアリストテレス・パラダイムを超えた演劇人がいた。それはベケット
である。が、それだけだ。いや、これは西欧に限定してのことで、能はアリストテレ
ス以前(西欧演劇以前)というより、その後、つまりすでに西欧2500年の演劇パ
ラダイムをとっくに越えていた。
だから西欧の演劇を機軸に見れば(現在の日本人の演劇観はアリストテレス・パ
ラダイムの枠の中、という点で「西欧演劇枠」)、能は未来の演劇である。クロアチ
アの先進的フェスティバルのプロデューサーも語っていたのを思い出す。
一般に能や歌舞伎は「型」の演劇と言われる。しかしそれは誤解である。武智鉄
二は「型に入って、型を破る、そこに衝突のエネルギーが生じる」と言っている。つ
まり「型」は仕掛けに過ぎない。それ自体が表現の表徴である、とするのは誤解な
のだ。かつて日本人は(明治に入る前は)、舞台の「型」を愛し見ていたわけではな
い。「型」に捉われ、そこに目が行く、つまりバレエや欧米の宮廷芸術を見るように
観る態度は明治以降に作られた「伝統芸術」なる擬制の中で形成されたものに過
ぎない。
それは「日本人」を作り、「国民」を作る。こうした政府の努力は教育に向けられ
た。唱歌などに込めて「日本の風景」という幻想が生み出された。明治20年頃の
ことだ。それまで日本人は誰も「日本の風景が美しい(美しい国、日本)」なんて考
えたこともない。必要もなかった。せいぜい自分の郷里の山川に愛着がある、程
度だ。「伝統」なんて考えたこともない。生活のために親の職業や技を継ぐことは
あってもそれは生活・生存の必要からでしかない。そのことと「伝統」という内面を
統制するための権力の政治的イデオロギーは別ものである。
日本的ナショナルな心情、内面形成によって「国民国家」を強化しようとした明治
期の国策と美学が一体となり、更に「伝統」が捏造されながら、それまでこの国土
に存在しなかった「日本」と「日本人」が性急に作られていった。美学はナショナル
アイデンティティを支え、今も「型」に依存する体質が継承されている。
こうした歴史背景の中で内面の無自覚な権力構造(権威依存)は現在の日本人の
心性を強く呪縛している。たとえば「格付け」が好きで、「格」でものを見たがる。演
劇という狭い業界の中でさえ「格」があがることに汲々とする。そんなものは芸術家
にとって害悪ではあっても、何の価値もないことなのだ。にも関わらず、「格」を欲し
がる心性。そしてそれを後押しする観客。自力で良い舞台を見つけようとしない。
誰かが良い、と言っているので行く。で、確認する。人と同じであることで安心す
る。疑わない。
現在の観客は芝居を見る前から見方がすでに固まっている。テレビのドラマの情
報が大量に脳の中に入っているから、その「型」と合わないものはよほど自覚的に
この「型」から脱する努力をしない限り、見えてこない。目の前で展開されている
「一期一会」的世界という現実と出会えなくなっている。
などなど観劇の後、いろんなことを取りとめもなく考えた。劇に臨む岡村さんの子
供のような純真さも良く伝わった。純粋なアーチストである。
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