テラ・アーツ・ファクトリー会議
「総力戦」となった『マテリアル/糸地獄』公演が終わって、最初の会
合。
テラにしては珍しく「外部組」が多数参加した前回公演から久しぶりに
テラメンバーだけでの会合に戻る。日時を間違ったうっかり者一名、
外部出演のため欠席一名、私を除い て全員女子9名。ほっとする気
持ちがあり、一方で、あの稽古場のにぎやかさ(カオス、 混沌)、活気
が懐かしくもある。
人間にはつねに相反する心理が働く。無理に一方を抑圧せず、相互
の欲求や気持ちを配慮しつつ、バランスを取って行くことが必要だ。多
人数でやった後は少人数でやりたいと思う。同じメンバーでやったあと
は別のメンバーともやりたいと思う。求心的な内向的な 作業の後は、
外に向かう動きをしたいと思う。その際、どちらが自分の立脚する足
場としてふさわしいか、そこに立った上で、逆も可となる。テラはこのメ
ンツによる求心的、急進的な集団作業が自分たちの足場である。そ
の上で、異なった企画(実験)も入れて行き たいと考えている。
メンバー一人一人から前回公演に関する「企画」レベルに関する感想
を言ってもらう。みなそれなりに今回の「企画=テラとしての実験」(今
回の「実験」の第一は多数の外部組を交えたこと。第二は戯曲を軸に
舞台を作ったこと)を楽しみ、充実もしたようで、舞台の 評判も良かっ
たらしく、こういう企画をまたやってみたいとの意見多し。今回はこれま
でに比べて戯曲の比重が大きかった(演劇的)。身体とパーフォーマン
スを主体に舞台作りをするテラでは「異例」。
テラの舞台は厳密には「パフォーミング・アーツ」(舞台表現活動)では
あるが、「お芝居としての演劇」ではない。「演劇」には、ドラマシアター
(戯曲再現型)だけでなく、ポストドラマシアターも含まれるし、世界的
にはそうなのだが、現在の日本では戯曲再現型=お 芝居演劇、とい
う習慣的な受け取りが固定してしまっている。ゆえに私たちのは、「こ
れって、演劇?」とかいう観客反応もちょくちょく出て来てしまう。が、
「これも演劇」。
まあ、「自由」な表現をめざすテラとしては、逆にこういうスタイルの企
画(戯曲を軸に置く)もまた機会があればやりたい。何より、新鮮な感
じでみなリフレッシュしたようだし。
次に次回公演『ノラー光のかけらー』に関しての要望を言ってもらう。8
月中に皆の意見を参考に基礎プランを演出チームで立てたいと思う。
集団で舞台を作ってゆく、あくまで創造の主体は構成メンバー全員で
ある。一緒に一歩ずつ前に向かって進みたい。観客動員や劇団を 大
きくすることをめざすあまり、集団が持たない、メンバーがたえず入れ
替わる、小さな集団はそういうジレンマに陥る。もちろん、観客に自信
をもって提示する舞台作りを第一に考えることはかわりないが、それと
同様に集団とメンバーを大切にしたい。だからこう いうやり方になる
し、これが(テラの取り組んでいる「集団創作」方式)そのためにはベス
トだと思っている。
ペースを変えず、ぶれず、一歩ずつ地道に行きたい。そんな「小さな
小さな歩み」をみなと一緒に続けていきたい。それを「支える」のが自
分の役目だと思っている。創造者、アーチスト、クリエーターは集団の
構成員全員である。舞台の主役は作家でも演出家でも なく、パフォー
マーである。こういう考えを生涯変わらず貫きたい、である。
演劇現場での演出家は一番偉い人、ではない。みんなの「下支えをす
る人」でいい。そう思ってきた、今後もそうだ。
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『ノラー光のかけらー』
演出方針に関して思案する。『人形の家』の現代化演出ではない。「集
団創作」、「身体性を基盤にした舞台」の上にコラージュしてゆく「引
用」の中心に、あるいはその「背景」 に「ノラ」を置く。
現在のテラの「集団創作」を支えるのはコラージュ手法だ。個人が書
いたものではない。 皆が作家でもある。だかっら結果として複数の
「声」を集合した「コラージュ」作品になる。とは言っても様々な題材の
オムニバスではなく、「ノラ」が基調、地盤、背景にあるものとなる。女
性の生き方、男性との関係、親との関係の中で自我をいかに形成す
るか。したがって、社会心理学的、精神分析的手法になっていくだろ
う。
手がかりは1景の「スクエア」(光の四角錐)シーン。そして「単語」、自
我を形成するのに必要なキーワードを考え直す。「スクエア」内は孤立
した私人の内面表象を表出させるシーンである。社会空間の中では
自我を形成し(ペルソナでもある。個、個性、個人)、生存のために自
我を適応させるが、私人の内部では必ずしもその自我は、自分自身と
一致しているわけではない。自覚できない部分で、齟齬が生じる。齟
齬が拡大すると神経症や心身症に陥るし、神経症的うつ病も併発す
る。そういった神経症への過渡的様相としての、内面の分裂、分離症
状を表出させるシーンでもある。この状態を克服して、はじめて強固な
自我が形成されていくのだと思うが、その途上(の葛藤)を表すことに
なる。
人間の意識の底にはつねに不安と孤独がある。それは文化や時代、
国を越えて、人間という者が抱える避けがたい普遍的なものに属す
る。村上春樹の『ノルウエイの森』が全共闘世代、現在61歳になる村
上春樹であるにも関わらず、世代を越えて80年代から若い世代の共
感を得ている理由でもある。「状況」や「文化」、「時代」を基盤とした社
会批評的な作品が、必ずしも広い世代や国籍を越えての共感の拡が
りを持たないのは、その文化的「限定性」ゆえだろう。私たちの「ノラ」
へのアプローチは男、女ということではなく、人間そのものが抱える避
けがたい不安と孤独を足場にしたものにしたい。
無意識の表象が外在化する。自我は「女」として外部の共同幻想に適
応したかたちを取るが、同時に世界に向かって自由であろうとする欲
求がある。それが実現できないで歪められると、潜在意識(エス)の部
分に大きな抑圧がたまる。この抑圧は通常は神経症や心身症を引き
起こすものだ。
さまよう「ノラ」:吉永が触れる現代の触感世界。
軸は吉永:過去のノラ、そして根岸:現代のノラ、ギャル・・・ほかの女
性、「自由」と「自立」。
女子同士でノラを改作したテクストによるダイアローグを作ってみた
い。現在の会話とも重ねる。時間の単線軸を作らない。それをやる
と、筋書きの隘路にはまる。甲野善紀の対談にあるように聴覚(言語)
より視覚(身体)である。視覚は同時に複数のものを捉える。聴覚は
時間軸を形成する。この違いは大きい。テラが視覚的舞台をめざす根
拠。それは時間軸によって縛られる意識の構造化を脱構築する、とい
うことだ。意識の構造化によって無自覚の「型」にはめ込まれていく。
「定型」は時間軸の単線化から始まる自己 幻想(思い込み)の作用が
基盤にある。視覚を通じた複合化、錯綜型は混乱、混沌を呼び起こす
が、その混乱・混沌によって流動化した思考、意識を再構成、再構築
する、そこに観客の主体的参加(心的行動)が要求される。受動性に
甘んじている、メッセージを一方的に受け取る、ということが習慣化し
ていると、困難や「わからない」ことは意味のないこと、という認識の
「たこつぼ」にはまり込むしかない。異質性の排除、反復の認証と伝統
化、保守、無自覚の視野狭窄症・・・。そういう状態に陥っている自分
自身が自覚できない。多文化、多国籍、他民族、様々な異質性の交
流・交通に慣れていない列島人の特に陥りやすいナルチシズム(自己
幻想=思い込みの絶対化、自己中心性、主観世界、「日本」病。
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テラの稽古、一週間ぶり。
基本訓練(ファリファリ)をやった後、『ノラー光のかけらー』のプランニ
ングを前回に続いて。。。皆の意見を聞きながら、何となくアウトライン
は絞られてきた。男性陣が出演するか否かでかなり違ってくるので、も
う少し保留状態のところもある。この件に関してはシルバーウィーク 前
までに決着する。出ても出なくても大丈夫ようにプランを進めることに。
稽古後、終電真近かまで今度は演出チームで今日のプランニングを
受けて、先の「見立て」をする。男性陣の客演を最終的にどうするか、
新人を出演させるか、次回の稽古までに決定したい。それぞれの都
合もあるし。プランを先行させるか、出演を決めてプラン を対応する
か、ここは双方からの「さじ加減」の中で決まってゆく。
テラ・スタイル(集団創作)では戯曲前提劇とは違い、かなりの柔軟性
がある。まず集団のメンバーがいてそのメンバーを前提に舞台を作
る。そこに必要な人材があれば外部からお願いする。そういうやり方。
企画があって、たとえば二人芝居で一人は老年の男 性、一人は老年
の女性、ならばプロデュースが一番いい。その役に合い、演技力もあ
る。そういう出演者をキャスティングすればいい。これは普通にやって
いる上演の形だ。
新劇は150人近い老若男女の俳優がいるから、キャステングは自前
で出来る。小劇場はそうは行かない。ここは全く条件が違うところだろ
う。その上でテラは企画型(プロデュース、ユニット)ではなく、集団を基
盤にした舞台作りをしたいとか思う。しかし、ほぼ同じ 年齢層の女子
ばかり10人弱・・・。いやあ、これはすごい「制限」がかかる。ワタシ個
人はいま、べテランによる中高年の舞台がやりたいという欲求もある
(たとえば昨年やった、『ライフ』・・・「懺悔」もの、とか)。もちろん、女
ばかりの舞台、というのもすっかり面白 くなってきたところだ。人は自
分に与えられた限られた条件の中、環境の中・・つまり現実から遊離
せず、夢みたいことを考えずにやれることをまず一番にやるべし。現
場はハイパーリアリズムの世界だ。そのリアリズムの世界で、そこか
らどこまで跳べるか、そこ が一番面白いところ・・・。次回のテーマは
割と明快。だからこそ、シーンはより緻密にその裏付けを作って行き
たい。とかそんな話を今日はしていた。稽古場での活動が本格する
前、今の時期が企画・制作・演出などのスタッフワーク、準備作業の集
中する時期。大 忙しで決めないとならないこと、手を打たないとならな
いこと山積み、状態。急げ・・!走らず。
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次回公演『ノラー光のかけらー』のちらし製作の最終段階。
諸原稿を揃え、(外部)出演者の確定や基本作品プラン(9月中、メン
バーと一緒にずうっとプランニングを重ねてきた)をベースにしたちらし
の文言や表紙を作り、という作業が続き何とかデザイナーにネタを渡
せそうなところまで来た。昨日、偶然デザイナーの奥秋 さんに劇場で
お会いしたので、下北沢で用事の合間をぬってお茶しながら、あれこ
れ話す。
テラ稽古
プランニング、昨日の続き。メンバーが手直ししたシーンを見せてもら
う。その後、新しいシーンに関する打ち合わせ、全体構想に関する確
認など。女性主体の作品、あちらの「ノラ・ワールド」に対して、いかに
こちら(現在のワタシ/彼女たち)を対置するか。「こち ら」の問題が何
であるかの考えを深める作業が続く。前回より、よりクリアーな作品に
なると予想される。子育て、女性進出、夫婦別姓・・・女性をめぐる変
化、改革も進んでいく、進ませたい。そういう動きと連動するタイイムリ
―なテーマになりそうだが、「タイムリ ーな作品」ではなく、我々流のア
プローチの作品にしたい。
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今日は朝からちらし製作の雑用をこなす。まずは吉永さんが描いてく
れた絵を専門の会社に行ってデータスキャニングしてもらう。5時間ほ
ど待って、今度はデザイナーの奥秋さんに文字データも含め諸データ
一式を渡し、打ち合わせもする。その後、少し遅れて 稽古場に直行す
る。その間に別の雑用があれこれ。。。
メンバーはみな職場を持っているから、こうした劇団の補助的な雑務
やこまごましたことは私が動ける場合は動く。が、結構、これが日常的
に多い。そしてもろもろ相談、打ち合わせもほぼ毎日入ってくる。半端
な気持ちで集団活動は出来ない。そんな覚悟をして4 年前から集団
性にこだわった演劇活動を再開した。同様に集団性にこだわった演
劇集団アジア劇場以来20年ぶりのことだ。今はこれを最後まで、や
れるところまでやろう、と思う。その上で、集団の「外」でも少しずつ動
き出してゆこうと考えだしたところだ。メンバ ーにも自分のささやかな
決意を話す。何よりメンバーの支持や支えがないと動くことは出来な
い。一人一人が全体を作り、全体が一人一人を支える、それが集団
性。
どういう場合でも一番大切なのは、いま、ワタシとともに一緒について
来てくれる仲間だ。昨日、その仲間の一人がいま直面していることを
話し合った。一緒に悩み、考え、可能な限り最良と思われることを伝え
たい。そんな話し合い。。。。
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テラ稽古
今日も二人欠場。仕事や外部出演のため、今月は常に誰かが稽古を
休む。みなが揃う日は限られている。休んだ日に出たり決まったりした
演出や構成の内容が把握されていないとワケが分からなくなることが
ある。そこをどうするか、それが大きな課題。
だいたいの作品骨格、おおまかな構成は決まった。前半25分の構成
はほぼ完成に近い。中半25分以降はそっくり新規に作り直すため、し
ばらくアイデアやテクスト創作を行っていく予定。一つ一つのシーン
が、一人一人の動きが「沈黙」シーンであってもきちん とした裏付け、
ロジックを持ったものにし、かつそのロジックをより深いものにしたい。
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テラ稽古
11月の稽古予定をみなで再検討する。だいたいの作品構成の骨組
みが出来たので、必要な場面の稽古を想定し絞り込む。ちらしの表面
原稿が仕上がってきたので、みなの意見を聞く。
シーン1(第一場)のアレンジ版を試す。少し手直ししてかなりいい感じ
になる。シーン3の構成サンプルを林から提示する。その構成案を手
掛かりに創作の方向を考え、各担当演技者でプランニング。一つのグ
ループは「動き」を主体にした表現、もう一方は断片 的な会話の創
作。
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チラシ製作、大いに難航。
昨日、デザイナーの奥秋さんと直接会って打ち合わせする。吉永さん
の描いてくれた絵とタイトルロゴやキャッチコピーがどうしてもうまく折り
合いがつかない。最初に出されたデザインのロゴ字体はとても面白い
のだが、絵と合わせるとしっくりいかない。そこで手 を加えると、もうカ
オス(笑)。一度整理しようと、昨日直接会って話し合う。それで少し整
理がついたか、今日、修正案のデザインを送ってもらう。が、文字の
大きさ、配置、色彩、これらの組み合わせが難しい。メールでデータを
やり取りするうちに私も混沌として きた。まだデザインの完成まで時間
がかかりそう。
キャッチコピーはまあまあ、今回はスムーズに行った。長い文章より、
短い文章、更に一行、となるとどんどん難易度が高まり、苦しみもがき
の度合いも大きくなる。言葉はほん と、難しい生き物だ。
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『ノラー光のかけらー』準備
ちらし、ようやく版下原稿が完成し、これから入稿。宣伝期間はきわめ
て限られているが、今年までのテラは若いメンバーを巻き込みながら
(共感を得る、共感できる時間を取る、共感しうる体験を共有する)の
集団の足場固め、集団のめざすもの(何のために 演劇、をやるの
か?)と作品の方向性と方法、内容を出来るだけズレがないよう、共
同作業を進めながら、深い部分からのコンセンサスを取って行く、そう
いうことに集団としての課題を置いているので宣伝が後回しというのは
やむを得ない。集客を第一の目的とし ていない、演劇をやる意味を集
団できちんと形成する、それがまず第一。人々への「娯楽提供」が演
劇の目的でしょ、と知人によく言われるが、娯楽や癒しならば、ディズ
ニーや競馬や野球やサッカーやファミリーランドや映画やテレビ
や・・・・・、に任せればよい。 映画やテレビにできることはそちらに任
せればよい。演劇にしかできない事がある。それを極めたいだけ。そ
のために拙速に陥らず、周りのスピードに振り回されず、じっくりと「私
たちの演劇」を作りたい。そのための集団であるし、集団活動である、
云々。
ちらしはいい感じで出来た。何度もデザイナーの奥秋さんとやり取りを
ながら、メンバーみなが納得したちらしになったと思う。
テラ稽古
現在は新しいシーンのプランニング期間。
3〜4人に分かれていろいろ資料を集めたり、メンバーが試しでテクス
トを作ってみたり、実際に動いてみてエチュード的に立ち稽古で即興
的にテクストを探ってみたり衣装案を考えたり、「動き」のシーンの試
案を作ったり。私はそれを眺めつつ、全体との兼ね合い や構成を考
え、アドバイスもしたりする。大枠は私から提示し、かつ構成案も示し
ながら、その方向性を前提に個々の作業を進めている。来週まで、こ
うした「創造のための実験期間」にし、来週末に新場面テクストのベー
スを作る。
並行して私はイプセンに関する資料を読みこんでいる。
イプセンが『人形の家』を書くきっかけになった出来事がある。このノラ
のモデルになった女性に現在、注目している。そのモデルらしき女性
を思わせる存在を舞台に出し、現在の女性と対比させ、「あちら(すで
に死んだ者)」と「こちら(現在、生きている者)」とをつな ぐ、その間に
ノラの引用テクストが入る、そういう構造を狙っている。
ノラのモデル嬢は20歳の時、イプセンと知り合った。彼の作品に触発
されて文学を志すようになった。イプセンも彼女を可愛がり「私のヒバ
リ」と呼ぶようになる。やがて彼女は、高校教師を務める男性と結婚し
たが、夫が病気となったため、内緒でイタリアへの 転地療養の資金を
借金した。が、借金返済に窮し、イプセンに自分の書いた作品をある
有力な編集者に推薦してくれるよう依頼する。が、イプセンは作品内
容のレベルが出版するに至っていないと断った。
その後、彼女は夫に内緒で小切手を偽造して借金の返済をしようと
し、それが夫に分かって彼の怒りを買い、ノイローゼになって精神病
院に入れられた。
出演者の創作テクスト(現代の女性の話)と、ノラのモデルの女性、更
にイプセン自身のこの件に関するコメント、などを重ね、更に現在の結
婚と育児に関する様々な事例や問題を重ねあわせつつテクスト構成
をしたいと考えている。現在の事例に関して新聞記事 などを読みこ
み、資料収拾をしているが、結構、タイヘン、頭が混乱。あまりに問題
が大きい。自殺大国日本、問題を抱え込んでいる個人がいかに多い
事か。この事だけでも、この作品はやる意味がある。現在の事例を変
えながら、『ノラ』は問題がある限り、テラ の継続していく作品になるだ
ろう。
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テラ稽古
今日ははじめに衣装合わせ。「着替えがありますから」と言って追い出
された(笑)。私たちの集団の普段は、女性ばかり10数人の中に男が
一人いるというのが日常だから、結構、一人だけの男の「居方」が微
妙、なわけである。がさつで繊細さのかけらもない私 は、だからいつも
怒られてばかりいるのだ。
その後はプランニング。みなでシーン3(新シーン)の構成を考え、か
なり細かく組み立てを行った。このラインに沿って、必要なテクストなど
を書きこんでいくことになる。また原案(『人形の家』)からの引用部分
のアレンジや書き直しを行っていく、予定。
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テラ稽古
稽古後、打ち合わせ。メンバーが自主的に作っているシーンの確認作
業など。新しく加わったメンバーと集団を仕切りなおして4年。足場が
固まってきたところだが、毎回、「勉強」である。まだまだ、これから学
ばないとならない事が山ほどある。そうしながら少しず つ表現者として
成長していってほしい、と願うのみ。後は、持続、そこが出来るか否
か。 出来れば面白い事がどーんとやれる。面白い人生になる。やりた
いことを諦めるのは簡単だが、人生すぐ終わる。それじゃあ、寂いい
でしょ。やれることをやれる時にやらない と、一気に歳取ってしまう。
続けるのは大変だけど、がんばれみんな!!
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イプセンに関して彼の人生全体をリサーチし、かなり人間像が把握で
きるようになり、彼自身と『人形の家』との有機的な関係も見えてき
た。
イプセンは27年の海外流浪生活を送った。母国ノルウエ―での青年
期は苦い思いの連続だった。そこでの観客や取り巻きはつねに彼の
作品に批判的だったり無理解だっ たりし続けた。文化的にドイツやイ
ギリスフランスからだいぶ「遅れた」母国の観客(19世紀の頃のこと)
に受け入れられるのはありふれたウエルメイドか、世間の常識や道徳
の枠の中に治まった「人情話」に限定されるが、彼は常に世の人々の
信じている道徳や通念を疑い、それを打破するような作品にチャレン
ジし続ける。それには国を出るしかな かったのだ。
その内、世界的に名声が上がり、ようやく60歳頃には評価も定まる
が、新作戯曲(彼の場合、あくまで戯曲を書き出版する、とう形を取っ
た)は必ずしも好評とは行かない。まさに生涯、「世間」の通念と闘い
続けた人だ。また、決して「女性解放」論者でもない。人間が個人とし
て何にもよらず自分の足で立ち、自分の頭で考える。「自由」、それを
支える個人主義、あるいは自立思想。それが彼のこだわったものと言
える。個人の内面・精神の革命ばかりを言い、「社会的な構造に対す
る革命的視点」が欠如していると批判的だったトロツキーも社会革命
が成就し、やがてスターリニズムが突き進むころにはイプセン を理解
するようになっていたと言う。
話は脇道にそれるが、イプセンにはどうも悔悟、というかコンプレック
スを奥さんに対し内心強く持っていたようである。慣れない海外での流
浪生活に生涯付き合わせてしまったスザンナ夫人に対してかなり複雑
な思いを晩年は抱くようになっていた。彼女の支え なしにイプセンの
創作活動はあり得ない。が、風采の上がらない若いころのイプセンは
60歳を過ぎて、18歳の女の子や24歳の女性などから好意を寄せら
れるような人物になっていた。頑固なこだわりが風格を作り、その風格
や名声に魅力を感じる若い女性が周辺に出没するようになっていた
のである。夫人に対する屈折した思いからイプセンも若い娘たちと親
密になって行く。いやはや。話がだいぶそれた・・・。
テラ稽古
新しいシーンに関して、引用テクスト、創作テクストなど材料を一通りそ
ろえた所で、構成試案に沿って初めて粗立ち稽古をしてみる。やっぱ
り実際に空間を作ってみるとわかることが多々ある。とても参考になっ
た。明日の稽古までにテクスト構成や原作からの引用個所の絞り込
み、書き直しなどを進めたい。幾つものテクストが交叉し、舞台の視覚
性とミックスする事でふくらみが出てきた。面白い!面白くなりそう!テ
クストも入れ替えたり、順序を変えたりすると全然、受け取り方が変わ
ってくる。しばらく、いろいろといじりながら少しずつ固めて行きたい。
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テラ稽古
シーン3、粗立ち稽古2回。
1回目。入好、多美子、もっとテクストと距離を取る方がいい。中途半
端なため、それぞれの存在の根拠が不明瞭。入好、2回目、面白くな
る。その線を「極めろ」と指示。多美子も面白くなりそう。コントラスト、
ギャップが出ると面白くなる。
「本当らしく見せるリアリズム」を否定する。虚構、作り物、「フィクショナ
ルな非日常空間」という前提での風刺やカリカチュア、拡張、強調、潜
在意識や心象を表現する、一人一人の人格を基盤にしない表現、な
ども可能な手法となってくる。
「黒」4人の2回目の「動き」の3分が持たない。根岸の音声情報とオー
バーラップさせる。多美子、入好、藤井と誠子の会話を頻繁に切り替
え、テレビのチャンネルのようにする。そこに根岸音声(母子家庭記事
ネタ)が重なる。
ギャップやコントラストによって、観客が自由に想像をひろげられる。
空間の流動性、風通しがよくなる。
『ノラ』は他の作品同様、作品全体が人間の「こころ」の世界を扱って
いる。自覚化できない部分も含めた「こころ」の闇とうごめき。それが
表象や社会事象と連関してゆく。そういう手法を取る。
シーン3の佐々木テクストは他が固まってからでいい。ある程度の方
向付けが決まってきた。その線上に選択するようにする。ネタ候補とし
ては、イプセンの「二つの掟」、ヘルメルの台詞、社会面記事の3つが
あげられる。
わかりやすくなるよう、伏線を貼るのはオーソドックスな方法だが、どう
もそれでは作品自体が縮んでしまう。『人形の家』の新演出、新たなア
プローチをやろうというのではない。あくまで現在の事象がベースで、
そこに「参照」的に「あちら」が参入する、という手法である。だから構
成芝居でもない。引用するが、世界は一つの明確なものを、つまり私
たちの現在を足場に創作された場を作り上げている。『アンチゴネー』
にしても「集団自殺する女性たち」の世界に「言霊」としてソフォクレス
テクストが召還される構造を取る。今回も同様に、「こちらの女性たち」
の世界に「演劇をやっている人間が子供が生まれた時、全く活動が不
可能になる。託児所も定時しかやっていない。仕事を終えて稽古場に
行こうにも、時間外の施設がないから、よほど親が面倒を見てくれる
ような場合でもない限り不可能になる」という身近の問題(子供が出来
ると演劇を続ける事が経済的な問題だけでなく社会制度的な問題とし
ても困難になり、殆どの人間が去らざるを得ない現状)とも関係してい
る。私たち自身が抱えている問題でもある。出産年齢に達した女性が
演劇を続けていける環境にない現状。そことリンクしてみると他人事で
はなく、わが身のこととなるから演技者としてではなく、一個人としても
説得力(問題を共感共有出来る範囲に入る)を持つ。『ノラ』は前回上
演時より、メンバーの年齢的にも今回のほうがより強い「説得力」を持
つ作品になるだろう。その線であれば連続して、継続上演化が可能に
なると思われる。
「根岸記事」は断片化してみる。根岸にコピーを渡し本人も考えさせる
ことにする。母子家庭、DV、離婚、シングル女性の子育ての困難さ、
その結果の虐待などの事象を扱った記事。
入好は雑誌ネタ、俗的なもの、藤井と誠子も買い物ネタ、俗的なもの、
多美子は逆に現実遊離、乙女チック、これらは風刺的に描かれる現
代の風景、「自由」を持っていない人々の状況を「反面的投影」する。
前回の「かぼちゃ男」、「ポケモン着ぐるみ女」の変形版。今回のほう
がたぶん風刺であるということはわかりやすいと思うし、風刺のセンス
も少しよくなっていると思う。「あて書き」に近い、それぞれの演技的個
性、演劇的キャラクターに乗っているから、違和感なく見られる。
イプセンは「女性解放」論者ではない。生涯、故国ノルウエーの古い因
習、道徳観念、それにしばられる劇場、通俗を求める観客、遅れてい
る批評、ジャーナリズムと戦い続けた人だ。彼のめざした革命は人間
精神の革命だった。トロツキーは当初、人間の精神に言及し、社会制
度や社会構造を問題にしないイプセンに批判的だったが、ロシア革命
の後、急速に権力構造を強めたスターリン政府の迫害を受ける中、イ
プセンに対してより深い理解と共鳴をするようになったと言う。抑圧的
な社会にあっては制度や政治システムを変えることはむろん重要だ
が、同時にそれは人間の精神自体を問題にしない限り、退廃化に向
かうことは20世紀の革命の歴史が証明したことである。その点でイプ
センの生涯闘い続けた精神は今も輝きを失わない。
稽古プラン
11月10日ころ、誠子が戻り、佐々木が加わるまではシーン3の構成
をまとめていく。公演一ヶ月前となる11月10日以降、シーン4の稽古
をしつつ、シーン3も修正してゆく。S3,S4を固めた後、S1、S2を再
検討し(それほど大きな修正はない。むしろ内容を深める)、その後、
20日ころを目処に通し稽古の一回目をやり、問題点を抽出し、再び
抜き稽古。その後は全員が揃う際は通し、それ以外は抜き稽古、で十
分間に合う。抜き稽古では台詞部分(S3の藤井と誠子、多美子、入
好を重点的にチェック。S4の対話部分も丁寧に見る)。
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テラ稽古
今回唯一の男性出演者、佐々木君、別の公演を終えて合流。滝君も
見学に来てくれる。久しぶりに私以外の「雄」が稽古場にいる。ちょっと
気持ちが楽。
神経症、統合失調症(分裂病)に関して調べていた。
フロイト→ラカン、ドゥルーズ=ガタリ、大学の「ペットショップ化」(学生
の動物化)、身体の暴発、コントロール・規律・訓練の欠如。メンヘル、
犯罪、自殺。岸田秀は黒船、敗戦、二度のアメリカントラウマで近代の
日本人は分裂病に陥っていると語る。フロイトは無意識というわからな
いものが人間を操っていることを語った。身体への抑圧は様々な症例
を表出させる。
シーン3の「人形」組に「幾何学的」動きというのを要求している。習慣
化された思形が無意識の領域にまで侵入し、無意識の欲望の表出と
しての身振りが「歪み」症状を表出する。むろん、表現としてそれを対
象化して出すのだから、簡単ではない。単純な(ステレオタイプな)人
形振りやいわゆる一般イメージの「機械的な」動きではない。それはマ
スイメージとして作られたものでしかない。無意識の領域に侵犯する
思形の習慣的(オートマチックな)な型が、自然な動き(としての表出し
ようとする欲求)の表出を妨害し、あるいは圧力としてかかり、精神の
内部に歪みとして押しかかる。その負のエネルギーが鋭角的、破断的
動作として表出する。そんなこんなを表現(他者・観客と共有する)にま
でするための意識化作業を課している。そこから生まれてくる動きを
「人形」の動きと。
「人形」とは習慣化された思形のことでもある。イプセンが19世紀に闘
ったのは、当時の人々の道徳観や習慣的物事の捉え方。妻が夫と子
供を置いて家を出る、それ自体がまだキリスト教的倫理観が支配して
いた当時のヨーロッパでは受け入れがたいことであった。その「人形」
的・オートマチックな思形と彼は闘ったわけだ。
とすると私たちがいま闘うものは・・・。それは欲望(の欠損)する身
体。知(あるいは情報)によって抑圧された身体、という無意識の力に
操られた状態。kの歪んだ力が犯罪にまで至るのはごくわずかで、大
概はゲームの中で大量殺人したり、ネットの匿名投稿で罵詈雑言した
りだが、暴発して犯罪に至ることもある。他者を殺したり、自分を殺し
たり傷つけたり。それは個人の資質の問題ではなく、資本主義社会の
構造的問題なのだ。
島根で19歳の女子大生がむごい殺され方をした。市橋容疑者が捕ま
った。資本主義は分裂病を社会的に増幅させている。ドゥルーズ=ガ
タリの言う「オイディプス」の作動・・・。
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テラ稽古
ほぼ構成が固まった新しい場面「シーン3」(第三景)の通し稽古。新し
くアンサンブルを組む4人メンバー、藤井理代、上田誠子、入好亜紀、
佐藤多美子が稽古場にようやく揃った。
冒頭シーンから第二のシーンまで約25分、日常の延長の演技ではな
く、極めてフィクショナルな「虚」の空間と「虚」の身体によるシーンが続
く。志村麻里子、井口香、中内智子、横山晃子ら、テラのテラ的「虚」
の演技表出を先導してきた「前衛4人組」による「人形」たちのシーン
だ。それを経ての第三のシーン(シーン3/第三景)である。
「虚」の時間の連続性の流れを受けた空間での演技であるから、自我
がそのまま演じている身体(一般に演技と信じられている日常身体の
延長上、自我の殻の上に化粧を施すような演技)では通用しない。自
我の殻が破れ、自我の下層に隠れていた精神が表出し、その上で思
考と身体の一体化を通じて発生する「演じる意識」が身体を操る、とい
うレベルで演技しなければ成立しないのがテラの特徴だ。
我々が無意識の領域の力によって支配されていることを19世紀にフ
ロイトは発見した。近代演技は19世紀の心理学の研究成果に負うと
ころが大きい。無意識をどう表象と結びつけるかをめぐってスタニスラ
フスキーの探求も続いた。スタニスラフスキーはそれを日常の身体に
つなげようとした。私たちはこの「こころ(精神=身体)」の動きを象形
化、外在化する試みをしている。そこは大きく違う。
自分の意識や感情は自分が支配しているものと人間は勝手に思い込
んでいるがそうではない。私たちは脳の奥の部分(欲望)に動かされて
いる。政治家の重要な決定も実は無意識の部分、そこに潜むコンプレ
ックスなどが要因となっていたりする。これが軋みだすと心身症、神経
症などの様々な外的症状を発現する。現代社会は神経症を生みだ
す、と言われる。生みだす要因が複雑に社会を覆い尽くしているから
だ。
感情や意識が自分の知らない自分に操られている。これが日常の身
体、ふだんの自我の構造である。これを逆転するのである(基盤訓練
として長期的にテラが取り組んでいるFメソッドの基本思想でもある)。
それが「虚」の身体、「フィクショナルな身体」である。だから、「虚」の空
間を意図的自覚的に構築することを舞台の「地」にしているテラ・アー
ツ・ファクトリーの上演では身体が虚構化されていないと成り立たな
い。が、訓練をある程度受けてきた者でも簡単なことではない。無論、
初心者や普通のお芝居しか経験のない者には全く不可能。
ふううむ、ここ(シーン3/第三景)はなかなか難行しそうな予感。しかし
今回、この障壁は彼女ら4人にとって良きステップアップの機会になる
に違いない。公演までハードルは高いが頑張りがいもあるというもの
だ。壁やハードルはあったほうが演技者には返ってやる気が起きてい
いというものさ。
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テラ稽古
通し稽古。録画し帰宅して何度も見直し、細かいチェックや照明、音響
のきっかけ、演技面での修正点などを洗い出す。構成はほぼ出来上
がった。あとは場面転換や演技の細かい面、テクスト発語に関する点
など。まだまだやることは一杯だが、かなりしっかりした作品に仕上が
りつつある。
気候の変化が激しく、毎日生業の仕事と稽古の二足のわらじの演技
者たちの体調面が心配。病院に行ってから稽古場に来るものもいる。
とにかく日本で芝居をやるのは死ぬほど過酷な労働である。公演稽古
期間はまったく他の仕事をしなくていいオランダやフランス、ドイツ。日
本はこと演劇に関してはどうしてこんなに極貧、極悪な環境なのか。基
金なんかじゃなく、まじめに芸術文化的土壌を作れ、劇場文化を作
れ、将来の日本のためにもと言いたい。
が、きっとよくなるさ。なるよういま出来ることは努力したい。と言っても
50年くらいかかるかな。よくなってもその果実は受けられないが、いま
テラにいる子たちの老後は「演劇と出会ってよかった」と思える、「林に
出会って良かったなあ」って思える老後にしてやりたい。それだけを願
って、頑張るさ。
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テラ稽古
稽古も詰めの段階。すごくしっかりした面白い、まさにいまこの先行き
不透明な時期にこそ人々に推奨したい、観てもらいたい作品になりつ
つある。その上で、最後の詰め、これは大詰め。今回でこの作品は仕
上がる。同時に中のテクスト、身ぶりなどは毎回、変えることが可能な
オルタナティブな作品に仕上がりつつある。何度でも、またメンバーを
変えても上演可能な作品のかなりしっかりしたコンセプト、メッセージ
性のある作品の「母体」が誕生する、そのプロセスに立ち会っている
ワクワク感がある。
その上で、最後の詰めのための微調整、微修正・・・場合によっては
丸ごとシーンの組み立ての改変(特に人の配置、出番)、照明との連
携が必要。
たとえばある個所、セリフが回らないところがある。そういう個所の問
題点を、それを演じている演技者個人にどう伝えるか。その原因をど
う解消するか、そんなことに大きなエネルギーを使う。
テラの稽古では「ダメ出し」という用語を基本的に使用しない。演技者
も一緒に考えつつ全体も部分も作っているので、相互に納得が行く、
そのために確認やチェックを繰り返すのであって演出家が一方的に
「ダメ」と裁断することを避けるようにしている。こちらがある点を指摘
しても、それに対する「反論」は完全OK。「鵜呑み」こみして「魂」が入
らないより、徹底して真意を理解し合うことの方が重要だ。そのため言
葉で探り合う、そういうコミュニケーションを基本に稽古を進める、テラ
はそういう普段の活動を地道にやって作品を作ってきた。
今回の作品は2007年に作り試演会を行い、その後一度上演したも
のである。それを更に練り込んで今回の上演になるから、演技者の方
は深く理解しているし、ほぼ8割部分は完成に近い演技で臨んでいる
しほぼみな前回より数段技量も理解度も深めて臨んでいる。が、新シ
ーンに関してはまだ不十分。とにかくこちらもどう伝えるか、言葉を探
る。うまく言葉に還元できないこともある。「強く」と言ったあとで「もう少
し押さえて」ということもある。「強く」の意味が一つではないのだ。言葉
はあくまで道具だ。それもかなり大雑把な。それをあれこれ交わし、使
いながら意味に近づこうとする。その意味はうまく言葉に出来るものも
あるしなかなか苦労することもある。ある状態、結果を生むために「粘
らないように」と言う場合、その「粘る」というのがどの程度の事か、つ
まりコンテクストが共有されている場合もあるし、言葉を交わして確認
しながら、共有に近付けて行かなければならないこともある。そんな
「格闘」を続ける日々。
だが、これはすごくワクワクする、想像力を刺激する、そして心ある人
には「強い応援」、勇気づけになる舞台になりそうだ。この混迷する時
代の中で「生き方」を必死に模索する人達にぜひ観てもらいたい。そこ
に激しく強いエネルギーを送り込み、エールにしたい、そういう作品・
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栃木の倉庫まで舞台で使う大量の雑誌をキャラバンで取りに行く。
運ぶのは女性誌だが、どれもかなりレアーでそれ自体でコレクション
になる代物。実際、コレクションにしていた方から譲り受けたものだか
ら、「宝物」、古本屋に出しても結構高く売れそうな代物である。それが
600冊近く。すごい重量になる。
他にも倉庫に運び込む衣装があり、道具ものがあり、朝から新宿のト
ランクルームで整理作業、そして運送運搬のロングドライブ。男手のな
いテラならではのおいらの役割。車の運転、倉庫仕事は任せておけっ
て、出来るなら80まで力仕事が出来るからだでいたいなあ。からだ鍛
えるぞっと。
帰りは事故渋滞に会い、そのままぎりぎりで稽古場に直行した。昨日
の通し稽古で感じたことを皆に伝えビデオチェックする。全体の形が
出来た所で、微調整、微修正が必要な個所が幾つかあり、その理由
や根拠を伝えたり、意見を聞いたりする。少し削りたい、スリムにした
い、余分なものを削除したいのだが、削ることに関してはその部分の
演技者の納得がいる。せっかく作ったシーンなのに理由が曖昧なまま
削られるのは誰だって溜まらないし、そんなことをしたら不信感にすぐ
変わり、公演が終わったら人はいなくなってしまう。今時の若者は昔と
は違う。特に徹底民主主義のテラでは「理解と納得」、これが水戸のご
老侯の印籠に替わる。だから、みなが理解するように説明し、話し合
いし、意見を聞き、もっとも良い(この場合、あくまで作品として観客に
より最善の状態で提示する)結論を出すことをめざす。今日はとにかく
ずうっと修正点、微調整点に関して話し合いをした。
稽古終了後、車に5人が乗ってトランクルームへ。栃木から運搬した
雑誌の搬入を手伝ってもらう。と思いきや、うっかり中の部屋に鍵をさ
したまま、車から運び込むため開けっ放しにしていた入り口のドアを誰
かさんが気を利かせて閉めた。ドアは自動ロックされ中に入れなくなっ
た。あららら・・・。鍵は内扉に刺さったまま。入り口ドアを開けるもう一
つの鍵もそこに。そのまま、外で雨の中、一時間過ごす。やがて連絡
を受けたセキュリテイ管理のアスロックさんが到着し、ようやくドアは開
く。そして皆の協力があって運び込みはすぐに完了。メンバーを新宿
駅、中野駅に送り届けようやく長い長い一日が終わった。いやはや何
とステキな日曜日じゃ。24時過ぎ、家に無事帰宅。今日はよく働い
た。
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テラ稽古
「ノラ」という作品はいい作品だ。これから機会さえあればずうっと
続けていけるテラのレパートリー作品の一つになりつつある。
だからこそ、公演まで残りわずかな日々、その中で最大限、よりいい
ものにしたいと最後の構成の微修正にこだわる。今日も稽古まで幾度
もシミュレーションしてどう手を加えたらもっと作品がよくなるか考えに
考えた。そのまま、稽古場に直行。みなに考えたことを話し、実際に試
してみたりする。
同時に気になる個所のセリフ部分の抜き稽古をやる。
説明には全員が理解できる、納得するだけの言葉が必要となる。人
がついてくるか否かはまず日ごろの態度、本気度、真剣勝負の気合
い。人の善し悪しはいざとなると関係ない。多少の衝突があっても相
手をねじ伏せるのではなく、とことん真意を理解してもらうつもりで本気
で思うところをぶつける態度こそ肝心。次にそのための言葉の力。相
手が納得する言葉を持っているかどうか、そのためにはひたすら謙虚
に勉強する。考える力を身につける。饒舌でなくていい。訥弁でいい。
しかし、説得力のある言葉。内容のある言葉、裏付けのある言葉。こ
れが現場を率いるための全てだ。
演出論とか、最近流行りのアメリカでマネジメントの勉強してきたと
か、そんなのはいざという時、実践の場では役に立たない。マイケル・
ムーアが「日本はアメリカの真似をしないで(市場原理、新自由主義の
事か)、昔の日本でやって欲しい」と言ったとか。昔の日本とはどこの
時点かわからないが、昔の日本の芸能にはそれなりの本気で芸を愛
する人とそれ相応の修行、勉強を積んできた人材がいた。何事も
「人」が全てだ。人は宝、劇団員は宝。
今日は修羅場ではないが、嫌われ口も一杯きいたから結構集中の度
合いも高かった。一期一会、とくに公演が迫ると、悠長なことは言って
られない。作品を成立するために、出来ることはぎりぎりまでやるし、
直すところは容赦なく直す。ちょっと厳しさの度合いヒートアップの稽古
場、なり。明日は12月、いよいよ差し迫ってきた。もう日はない。しか
し、やることは一杯ある。これって幸せ?そうこれが幸せというものな
んだ。真剣になれる、熱を激しく持てる、金のためじゃない。好きだか
ら、それが全て。今日はテンション高いぞ・・・。眠れるか。。
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最終通し稽古。明後日は小屋入り、仕込みは二日取る贅沢。身体表
現や照明、音楽との連携などアート感覚を重視したパフォーマンス性
の高い舞台だから実際にその空間でやらないとわからないことも多々
ある。本当は劇場で一か月でも二カ月でも住み込んで、そこで作品を
作りたいのだ。ジプシーのようにあちらこちらの稽古場(稽古場と言え
ないようなところも多い)を転々として、というのは理想ではない。劇場
が創造の拠点となる、そうなるのが一番。
しかし、集団が必要ない、というのでは異論がある。たとえば劇場を創
造拠点とした演劇はフランスでは一般的だ。劇場(の芸術監督)が企
画して役者やダンサーを集め作品を作る。あるいは劇場がカンパニー
を持つ。これがヨーロッパの演劇文化の基準値。しかし、フランスでは
いつも声がかかるのを待っている役者たちが一杯うろうろしている。企
画があっちからやってくるのをひたすら待っている。決して自分たち
で、自力で企画を立ててやろうなんてしない。チケットノルマをこなして
まで舞台をやろうという気概なんか全くない。そういうのは日本独自の
ものだ。そしてその良さもあるのだ。
フランスでは劇場から声がかかればその間(稽古期間)の生活は保障
される。そういうのを俳優たちは待っている。しかしそんな「待っている
連中ばかり」、自腹を切ってでもやってやろう、という演劇人がいなくな
っても面白くない。まあ、日本は自腹切りが中心、赤字覚悟でずうっと
やって来たから、そして私たちもそうだから、それではダメだと思って
いる。せめてフランスの10%程度の文化や芸術への社会的投資は
するべき、と思う。とりわけこれから日本は産業構造転換、製造業、第
二次産業中心では立ちゆかなくなるのだし。文化や芸術度を上げて
観光的魅力も増さないと。文化資源はフランスに負けず日本は豊富
だ。能もあれば歌舞伎も「よさこい」もある。相撲もあればアキバや明
治神宮入り口の異装の若者風俗もある。
芸事、芸術事は好きだからやる、金にならなくてもやる、という精神が
必要なのだ。合理主義者、ニヒリスティックな現実家がやっても面白み
がない。お金にならなくていいとは決して思わないが、お金になるとい
う目的が先ってのも逆だろ。自分の生きる意味を考える、生きる価値
を求める上で必要だからやる、だと思う。絵を描くと食える、からゴッホ
は絵を描き続けたわけではない。
最近は芸能事務所やタレント事務所がふだん仕事がない時、所属タ
レントがぷらぷらしていると碌なことはない(変な薬に走ったり遊び癖
ついたりで)と、演劇を活用しだした。それはそれでいいが、そればっ
かりになってもなんか違うだろ。とにかくエンターテイメントばかりが客
入るじゃ、日本の未来はないって。
いや、『ノラー光のかけらー』は負けずにしっかりエンターテイメント、見
て楽しい面白い、ですよ。ただそれだけじゃないし、それを目的にして
いない。その上で、視覚性重視、構成も飽きさせない展開。各場面
は、どういうつながりがあるのだろうかと想像するだけで楽しい。そうい
う楽しみがふんだんに織り込まれた作品になっている。この作品は見
て十分楽しめます。
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明日、小屋入り!小生はパンフレット作成で今夜は徹夜。
今日、やっと知人たちにメールで公演案内を送る。ばたばた状態で来
た今年の12月公演、すっかりあれやこれやで時間が圧迫され続けた
結果。冷や汗もの、来年から、この時期の公演は考え直さなきゃ。
11月が来年度のもろもろの事業の計画立案に追われ、テラもテラで
基金への来年の企画申請作成に追われ、で小生が公演準備に集中
できたのがほんのこの10日間ばかり。集団創作体制、演出チームが
存分に機能して、作品は十二分の仕上がりではある。これは集団力、
小生は今回はメンバーに大いに助けられた次第。でも、自信を持って
観客に提示できるものになったぞお、っと。が、宣伝・広報面で大幅の
遅れが出たこともあって、集客は大苦戦。
日程も小生の都合もあって12月2週にしてもらったのだが、世間はあ
いにく師走。何かとあわただしくメンバーの集客も苦戦している様子。
いやあ、迷惑掛けまくり。ごめんなさい、皆の衆、である。
しかーし、今回の『ノラー光のかけらー』、ほんと申し分ない作品に仕
上がっている。ぜひとも見に来てほしい。こう言う時に駆けつけてくれ
る友こそ真の友。何とも勝手な言い分だが、ふうううむ。でも、良い舞
台になった、ほんと。見てもらいたい一作。今がまさに旬、売れ時のテ
ラ女子陣。花の色はすぐに褪せる、時分の花とは、これなりにけり。
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小屋入り、さあいよいよ出陣!
公演パンフレットは見事!ぎりぎり間に合った。舞台への観客に対す
る良き道案内になればとあれこれたくさんパーツとなる原稿を書いた
が、ページ数は限定されているので、その中から必要あり、と思われ
るもののみを絞り込み、レイアウトする。
『人形の家』を契機に作られてはいるが、その筋書きを再現するドラマ
シアターではないから、創作の出発点となった『人形の家』と私たちの
「ノラ」の関係をさりげなく道案内するよう心がけた。メンバーに見せた
ら「わかりやすい」と合格点をもらったので、これで仕上げて明日印刷
の運び、しめしめ。
今日は搬入、舞台周りと照明関係の仕込みを行う。場当たりは明日、
であるから今日は早めに出演者を帰し、明日以降に備えさせる。最後
まで残った照明の奥田師匠と舞台監督の今泉さんと私の3人、バカバ
カしくも楽しい芝居の思い出話をしながら帰りにつく。若い今泉さん曰
く、「上の世代の人達って、武勇伝一杯あるから聞いてても勉強になる
んですよね」、「いやあ、バカばっかりだったってことですよ。そんなバ
カな連中が一杯いて、面白かったから足を突っ込んだんだと思います
よ」と小生のたまう。
今泉さんたち以降の世代(今の20代)、聞いていると何かつつましい
というか真面目と言うか、サラリーマン的と言うか。そうやって何回か
続けるうちに、精神的に疲労して去って行く、ことが多いようだ。肉体
的にきついのは人間、いざとなると案外耐えられるが、精神的にきつ
いのはホントに堪える。そういうことが多いのもこの世界独自のこと。
何せ、全く社会的に演劇なんて認知されていない日本だ。そんなんこ
とでヨーロッパ社会の中での演劇の位置をちらっと話してみたりした。
初めてヨーロッパに行った時、「何をしてるんだ」って聞かれてそれま
で「怪しい東洋人」みたいに見下されていたのが「演劇やってる」と言っ
たとたん相手の態度が急変、「それはスバラシイ仕事をしている」と尊
敬の態度になる。滞在ホテルのオヤジから八百屋のオヤジまで、そう
だ。日本でそんな扱い受けたことないから、びっくりしたよと今泉さんに
話すと彼も驚いていた。文化、芸術に対する社会の目が違う。そういう
のをなおざりにしてきたんだな、坂の上の「雲」(理念としての近代ヨー
ロッパ)目指した割には文化や芸術への態度だけは忘れてしまったよ
うだ、日本は。「こころ」を大切にしてこなかったのだよ。
でも、そんな日本も精神的余裕のない「発展途上国段階」はとうに過ぎ
たから、これから少しずつ変わってゆくように思う。何が幸福か、一戸
建て持つ、高級車持つ、ブランド品たくさん持つ。そういうのが幸福な
時代は過ぎた。もっと「暖かい」もの、「体温の感じられる」もの、苦楽
を分かち合えるもの、きっとそれは人間同士の交流の輪、ではないだ
ろうか。そういうことに演劇は一役買える、と思っている。効率優先、
利益優先の近代合理主義に貫かれた資本主義下の社縁でそれは出
来ない。しかし地縁血縁共同体もとうに崩壊。では、どういう輪(サーク
ル)を作ればいいのか。それは趣味や道楽で通じる輪が一番、なんだ
って。人間、いくら偉そうにしたって孤独には耐えられない、その状態
が続くと精神が持たない。神経症やうつ病、統合失調症がどんどん増
え、自殺者もどんどん増えるだけ。だからつながる、ってこと輪になる
ってこと、それがこれから必要になる。そのための媒介、それが演
劇、劇場、人が集える街中の広場・・・。
などなど帰りの道でいよいよ演劇はきっともっと人々の身近にあるも
のになるぞ、いやそういう方向に仕向けて行くぞ、と夢想しつつ、我が
テラ・アーツ・ファクトリーの超、チョーウルトラシュールな舞台、まずは
きちんとやることやんなきゃあ、ふと我に返る小屋入り日であった。
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劇場で場当たり。照明、音響、次々に注文を出す。音響の阿部さん、
照明の奥田さん、その要求に本当によくこたえてくれようとする。あり
がたい。途中で休憩。小屋の外のテラスで一服。根岸とちらりと会話。
やっぱりウチはまともな感性じゃあ、ついてこれないわ。明かりへの注
文をしながら自分で自分(の無意識に求めるもの)が逆に見えてきて
新鮮な驚き。普段は出来るだけフツーに、あまり目立たぬようにしてい
るせいか(ペルソナだよな)、そこで抑圧されているものが一気にこう
いう表現の場で本性あらわしてくる。
演劇の常套手段、照明のハウツー、ひっくりかえしている。カミソリ、破
格、常識破り、大胆、不敵、そういう感覚持ってる照明さんでないとこ
れはついてこられないと思った。奥田さんでほんと良かった、他の照
明さんならもう切れている、さじ投げられてしまうと話すと、根岸曰く「自
分のパターン作ってるスタッフさんじゃダメでしょうね」、そうだよな。
照明はすごいことになってきた。「今回はシンプルに行きましょう」って
私から言ったのに。いや、機材はそんなに使ってないし、はっきり言っ
て極力シンプル・イズ・ベストで作った舞台である。でも、そのシンプル
さがぶっ飛んでる。常識はずれ、でもやっぱ面白いわ、この照明。ぞく
ぞくするってこの音楽。
またまた好き嫌いはっきりする舞台作っちゃった。今回はテラの中で
は一番、間口の広い作品(観客にとってわかりやすい、受け入れやす
いはず)だったのに、照明、音楽でカゲキしちゃった(笑)。これはサガ
だなあ。やっぱ、まともは面白くないって。「ここはクレイジーにしてくだ
さい。役者の動きと関係なく照明が狂っちゃう感じに」、また言っちゃっ
た。「序破急、そして破る、はずす、そして静寂」。きっと根がクレイジ
ーなんだろうなあ。でも、すんごい明かりと音楽になった。いや、演技、
構成、身ぶり、台詞、どれもいいんだけど、それらが消えてしまいそう
なくらい、照明も踊ります。音楽も沸騰します。なんせ「アート感覚あふ
れる舞台」だから、美術が演劇に侵食したのか、演劇が美術に侵食し
たのか。美術系の人は大好きになる舞台だと思う。舞台は動く空間美
術作品だと思ってやってるし。
問題は明日の本番、オペレーションが対応しきれるか。とにかく、照明
世界ではもはや師匠格の奥田さんが頭をかかえた。でも奥田さんが
ダメで一体誰が出来るんでしょう。信頼してます。
明日が本番の役者連中を先に帰して、照明の奥田さんらと劇場に残
り、明かりの直しに付き合って帰宅すると深夜。初日の前はいつもな
がら興奮して眠れない。
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本番はばっちり!ラストは圧巻、まばゆいばかりの光の渦、まさに光
のかけら、破片が突き刺さる舞台に。ウエディングドレスに白い紙吹
雪が舞う、まばゆいばかりの光。新しい光を求める終幕・・・。って感
じ?
気になった音響、照明も初日にしてはまずまず呼吸があってきたので
一安心。客席も埋まった。ありがたい。
終演後、駅近くの「華の舞」で初日打ち上げ。一回やっただけでくたく
たになる、からだ目いっぱい使うテラの舞台。ほんとにお疲れさんのテ
ラ女子軍団と、観客で観に来てくれたJTAN仲間、劇団13号地の加
藤さん、成行さん、大道パフォーマンスの智春さん、DAIKIさん、批評
の志賀さん、滝君、月蝕の舞台で藤井と共演したアイドル女優さん、
映像&舞台女優間宮さん、漫画家の方、先ごろ結婚の桑原君、曽田
君など多士済々が混じり合う。宴席大いに盛り上がり、はじめまして同
士が私たちの舞台をきっかけに出会い、そして名刺交換、交流の輪
が広がるっ、と。
劇団13号地の成行さん「持ってかれました」、はじめはどうイプセンと
つながるんだろうって、引いて観ている(そういう演出)うちに、中盤は
だんだんからだが前の方にのめり、最後はすっかり持ってかれちゃい
ました」、しめしめ作戦に引っ掛かった(笑)。でも、ベテラン女優、ずう
っと長く良質の舞台を見てきた方の発言は重い。とてもうれしい。
智春さんとも話がはずむ。面白い話がどんどんはずむ・・・。はずみす
ぎてここに書ききれない。
「分裂してるんですよ、自分が」。帰り道、前回『マテリアル/糸地獄』、
その前の『イグアナの娘、たち』と今回、それぞれ全く違う表現(根元
は一緒だけど、表出の仕方が違うため、観客にはかなり違って見える
ようだ。そのせいか、続けて観ている人はどの作品が好き、とはっきり
分かれてしまう)。分裂しているけど普段は「私」としてまとめているか
らそのまとめきれない部分がうずうずして抑えがたく、だからこそ芸術
って領域があり、そこで自分は救われているんじゃないかな。いわば
自己治療でしょうね、なんたらかんたらと話しながら。
自分を一つのもの(アイデンティティー、自我の確立)としてふだん生き
ている。すると別のものが自分の中で抑圧されてしまう。普通はその
歪みが内在化して様々に屈折して表に出る。あるいはひどい時は神
経症や分裂症(統合失調症)にまで発展する。でも、私らはこころの中
で抑圧され無意識に溜まるものを表現として表に暴発させるから、今
回の舞台のようなものにもなる。今回の舞台の様な音楽、照明にな
る。だから普段は狂わない。いわば、狂気にまで発展しかねない内部
のエネルギーを受け止める場、それこそ舞台の快楽、愉悦、悦楽。そ
の快感を一緒に客席の方々とも味わえたら、気持ちよく今夜は眠れ
る・・・ぞ。一緒に狂おう!そして明日を生きる力にしよう!
さて、明日は今日気づいた点も修正して更にパワーアップ。個人的に
は7、8割くらいの力で作った作品。女性が前面のテーマだから、私的
には少し引いて立ちあう感じ。しかし、音楽などの選曲は目いっぱい、
自分の「好み」に走った。今回はディスコティックなアトモスフィアーで
す。
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『ノラー光のかけらー』二日目。
雨がひどくなってきたので客足が心配だったが、客席埋まる。
私たちの「ブリコラージュ」という手法は最初に設計図を持たない。エ
ンジニアリングの方法(近代の造形物はほぼエンジニアリング)を取ら
ない。ブリコラージュ手法の典型は神話。先行する民族や隣接する民
族の神話が寄り集まって徐々に構造化される。ブリコラージュは古代
から長く人類が使ってきた叡智だ。テラの舞台創造は、私たちの意識
の下に隠れている潜在的な、無意識の領域の無形の欲求を形象化す
る手法を意図的に取っている。
だからどうしてそういう発想が出てきたのか、最初は自分でもよくわか
らなかったり、あるいはどうしてこれとこれがつながるんだ、という展開
になる。しかし、理屈(意識)ではなく、より深い本質的なところでその
結合やつながりは必ず根拠がある。それを探りながら構成していく手
法にこだわってきた。だから、一回目(初演)は十分、整理できていな
い、荒削りになっている場合もある。しかし、それを経ないと、次の段
階(整理)に進まないのだ。だから「ワーク・イン・プログレス」、上演し
ながら少しずつ「完成」に向かう、そういう活動形態、創造形態になっ
てしまわざるを得ない。
『ノラー光のかけらー』、今日も評判は上々だった。終演後、大学の恩
師でもある元早大演劇博物館館長の伊藤洋先生も来てくださり、観終
わった後、「よく出来てましたね、視覚的にも良かった」とおほめの言
葉をいただいた。いやあ、先生からそお言っていただくのは不出来な
元生徒としては感無量、なんです。感謝。
前回の『マテリアル/糸地獄』に客演していただいた清田さんも絶賛。
花嫁「こづきまわし」シーン、分かるその気持ち、とか。ラストの雑誌放
擲シーン、サイコーに気持ち良かった、そうだ。新婚の旦那さんもラス
トの雑誌放擲に共感、「わかる、あの気持ち」。無意識に求めているも
のを形にすると、快感がある。快感を抑制することが良いことだ、とい
うのは近代以降、市民社会、会社社会の特徴。一方で資本主義は
人々の欲望を煽ることで維持される。この内面と外面、実質とたてま
えのギャップがストレスを増強する。そういうシステムの溶液に生まれ
た時から私たちの脳は浸されている。私たちの「思考」のパターンは
形成されている。その「意識」上のシステムを打ち破るのに無意識か
ら送られてくる「微かな頼りない信号」は重要な鍵を握っている。
貴重な80年代から90年代の大量のファッション雑誌コレクションを提
供してくれた奥秋さん(のお姉様の収拾されたもの)も、雑誌たちがし
っかり活かされていて「供養」になったと言っていただく。イプセンのテ
クストも活かされていた、と。ありがたや。そんなこんな。
ともあれ、安心して客席で観られる舞台になった。前々回、『イグアナ
の娘、たち』に続いて今回もほぼ「合格点」に辿り着いた『ノラ』シリー
ズ。これはもう再演するべき、と決めさっそく今回使った雑誌は保存す
べしと劇団の舞台監督担当入好さんに伝える。再演は二年後以降で
あろうか。『イグアナの娘、たち』(次回はタイトルが変更になる予定)と
もどもテラの主軸レパートリー作品の一つになるだろう。さて、次は『ジ
ュリエット/灰』、これを完成にこぎつけたい。と言ってもこっちに手を付
けられるのは再来年以降になるだろう。
だいたい二度目の上演で「完成」というのがテラのパターンらしい。と
言っても本当の「完成」なんてありえない。「枠組」が一つの完成形にな
ったということにすぎないし、このやり方では別の「完成」形もありえ
る。そして何より「人」があっての舞台。今が旬のメンバー、それと作品
構造ががっちりと組み合わさった感。舞台も集団も生き物、10年後に
同じことはありえない。人間と同じ、はかない生き物、だから「いま」な
のだ。
だから初演を見ている人は貴重なのだ。それがどう変貌を遂げるか、
その推移をつまりはその間の作品の「熟成」のプロセスに触れること
が出来る、ということだから。ここが生き物としての集団、生き物として
の舞台の醍醐味だと思う。ある集団(の人々)とその創る舞台の生成
と成長に参加する、そういうことなのである。世の中、とにかく忙しすぎ
る。あくせくしすぎる、すっかり消耗品、資本主義市場の「シアターマシ
ーン」システムに組み込まれ、絡み取られている演劇にあって、私たち
のスタイルは全く逆行している。
だからいいのだと思う。とことん、「シアターマシーン」の歯車から外れ
て行きたい。マイペースでじっくり作品を熟成して練り上げてゆく、そう
いうやりかたを貫きたい。評判なんて糞くらえ。マス(数量)がいいわけ
ではない。少数派を大切にする、そういう演劇を続けて行きたい。い
や、この作品は誰が見てもたぶん、楽しめると思うけど。何より、演技
者、役者がステキになってきた、そこをぜひ観てもらいたい。
今日も日暮里駅前「華の舞」で二日目打ち上げ。観客で来ていただい
た写真家の平早さん、評論の村岡さん、池の下演出の長野さん、清
田さん夫妻、元生徒の増永さん、ワークショップの重鎮若林さんと普段
交わる機会のない異種混合席。後から藤井、井口合流。更に片付け
の終わった、誠子、志村、和紅、根岸も駆けつけ、再び「はじめまして」
の紹介、名刺交換・・・、いやいや「人結び」の場と化したテラの「後シ
アター」の巻、酒席は楽しく話しは盛り上がる。舞台が面白いとその後
の酒の席も盛り上がる。舞台が面白くないとまるで法事のようになる、
か。
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土曜日、マチネとソワレの二回公演。
昼は吉本さんが来られて撮影。舞台は一期一会、それが全て。撮影さ
れた映像は記録。100年後、「いま、ここに」いない人、まだこの世に
生を受けていない人に向けて残すつもりで撮っていただく。100年後、
ここに集う観客も出演者もスタッフも全ての人が消えた後、をイメージ
する。
それにしてもいろんな客がいるものだ。呆れたり、怒ったり。うちは若
い女の子ばかり。下心アリのうさんくさいオヤジやオタク崩れが近づい
たら、小生が突然「用心棒」に豹変するわけさ。大事な娘たち預かって
るんだから、なあ。
終演後の宴、今日はメンバーは二回公演で精魂尽き果て感のため、
出演女子陣は帰宅組。しかし多忙の中、見に来た前作『マテリアル/
糸地獄』の音楽作曲の落合さん、観客の中の観客、舞台の「生き字
引」、1950年代から現在、新劇→アングラ→小劇場→混沌と一元化
の現在?と半世紀以上、舞台を見続けた村井さん、藤井の知人の榎
本さん、前回出演してもらったナイスガイ門田さんなど舞台で友となっ
た人、客席で友となった人、初めての人、そして長年の「同志」という
か腐れ縁、滝君らで酒宴は盛り上がった。こっちも大切な舞台(の延
長)。そこで舞台を見終わった後の楽しい演劇談義が続く。
はずだったが、初めて私たちの酒席に顔を出した、「業界通」らしきA
さん。顔だけはあちこちの劇場で見かけて知っていたが実はどういう
方かよくわからなかった。しかし、彼の放ったある一言が私の中の「野
生の血」というか、「元不良」の血を一気に沸騰させた。「それどういう
意味よ」、と突っ込むとしどろもどろ。何だよ、根拠もなく、そういう高所
からもの言うなよな。まあ、よくわかんないこと言われたら、どこでも相
手がどんなに偉くとも、必ず「ちょっと待った」の小生。これが性分、そ
れでずいぶん敵も作っってしまった。最近は知恵がついて、よほどの
事がない限り、あるいはどうでもいいことはしっかり見過ごす、やり過
ごすのだが(無駄なエネルギーは使わない路線)、今日の一言は「娘
たちのプライド」に関わること。舞台に関してはシロウトではない。言葉
に気をつけなくちゃ、私より年長のいい歳こいたオヤジなんだからさ。
あまりに根拠のない暴言に怒りを論理に変えて突っ込む突っ込む。久
しぶりに爆弾トークになった。
私が「沸騰」するのを初めて目の当たりにした藤井の知人のBさん、す
んません。滝君はもう30年、こんなのしょっちゅう見ているし、テラの
面々も見ているから特に驚きはしないだろうが。舞台の本番の最中だ
からなあ、テンション上がるわ。アホなこと言うと客だってヤケドする
よ。観客は神様、じゃないですから。観客は私と対等な人間です。今
日の舞台の言葉、ちゃんと聞いてからものを言えよ、テメエ。役者は
品定めの「ゲージュツ的商品」じゃねえって。
まあなあ、ふだん猫かぶって、「温和で柔らかい物腰」のペルソナ演技
している私、知らない人はちょっとギャップかもしれないけれど、これも
それもわたし、どれもわたし。いろんなバラバラなものがごっちゃに一
緒になっているのが「わたし」、今日の舞台とおんなじです。
にしても、半可通、したり顔で偉そうにする「業界通」らしいAさんを一
喝した後、これぞ本物の「物知り」、「生き字引」、私より20歳も年長、
この人こそ日本戦後演劇の歴史を本当に知る村井さんに貴重なお話
をお伺いすることが出来た。こうした見識にあふれた方からの貴重な
話はありがたい。これだけで今日の酒宴は開いて正解。
内容は私たちがやっている「集団創作」と社会性を持った舞台の関
係、特に1968年前後の太陽劇団の経験、それを受けた黒テント(当
時の)の集団創作とその「挫折」(総括がきちんとされていないので挫
折か腰砕けか曖昧化かはわからない、批評の佐伯さんが中心だった
ので、次回、佐伯さんにそこら辺を聞きたい)に関して。詳細はここで
は触れられないが、すごく本質的なことを考える際のヒントをいただい
た。感謝!
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公演、無事終了。
『ノラー光のかけらー』、アンケートや関係者の評価はすこぶるいい。
今回は公演に入って客足が伸びた。まずまずの入り。ぎゅうぎゅうでな
くゆったり見られる、これ位が丁度いい。たくさん入る必要はない。公
演日数も今回くらいがいい。公演が長いとだれてしまうし、モチベーシ
ョン、新鮮さが失われる。同じこと繰り返すと飽きてしまう。ショーバイ
で舞台やろうとも、客を一杯いれてひと稼ぎなんてことも全く考えてい
ない。好きなことをやりたい、ただそれだけ。そんな感じでやってきた
ので、ついつい業界からまったくアウトローになってしまったが、これが
自分の生き方、今さら変えられないし、って。
こういう実験的な舞台は、今の日本ではどんどん少数派になってい
る。私個人はもう子供の時からの筋金入りの「少数派」、変わり者と言
われ続けて生きてきたから、それが自分の自然。別に構わないのだ
が、実験的なものに触れる機会の少なくなった観客は、またもや日本
的同質性の中に演劇の中でさえ浸され始める。多様性、異質なもの
が混交するってのが社会にとっても人間にとっても健全なありかただ
と思うが。生物が男女、雄雌に分かれて、別々のDNAを混じり合わせ
組み換えしながら種を保存し続けてきた、それが健全というか社会も
人も生き残る方向なのだ。同質性の社会はやがて滅びる。
続けて見に来てくれている観客がいる。それがとても大切、いわば同
伴者だ。そういう人たちを大切にしてゆきたい。公演終わって、再び初
心に立ち返る、なり。
テラ以外の活動では事業担当でもある団体が来年、上海万博でイベ
ントを予定している。があいにく6月。テラが7月に公演を予定している
から難しいなあ。8月には沖縄で国際児童青少年フェスティバルでの
企画がある。こっちも興味はあるがどうかな。他にも来年は企画予定
が一杯あり、自分が主導しているものもあるので、7月以降はフリーに
しておきたい。忙しくなりそうだが、テラの方もせっかく良い集団、稀有
な集団、日本では珍しいしっかりした技術を持ち、社会性がありかつ
アーチスティックな舞台集団になりつつあるので丁寧に育てて行きた
いのだ。
「ヘタウマ」、「キッチュ」が80年代以来小劇場の主流になってきた。だ
から、なかなかこういう玄人肌の舞台、集団は受け入れられない。コン
セプトが重視される時代だし。俳優の専門技術を高めるのはすごく時
間が掛かる。ある程度のレベルにならないと評価も出ない。で、ある
程度のレベルに達する前に、メンバーが疲れてやめてしまい元の木
阿弥。そんなことを繰り返してきて、よくもまあ懲りもせずやるなあ、と
我ながら呆れる。これはもう限界への挑戦、不可能を可能にしたい、
というどうにも止まらない欲求が自分を支えているからだろう。20代前
半で武智鉄二に出会い、深い感銘を受け、その精神だけでも継承し
たいと思った。それがこういう結果になってしまった。だから、この歳に
なっても毎日が闘いである。「世間」ともその延長の「演劇世間」とも。
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昨日は公演後、打ち上げ。
メンバーは至って元気。スタッフもまた次回一緒する。おそらく映像を
使う。映像の吉本さんと打ち上げ最中に作戦会議。ギリシア悲劇やる
なら、映像使うと決めていたんだ。
映像とパフォーマンスという表現スタイルで80年代に、これでもかと映
像を駆使し、人間の身体が映像と等価となる、そういうメディア環境下
で分裂する人間と破壊されてゆく人間の脳(精神、こころ)の世界を表
現した。一般の芝居で映像使用が流行り出した90年代は逆に映像使
用を封印していた。80年代当時のテラの活動に関わりを持った、今
はd―倉庫の小屋担当吉村さんと初日前にちょっと会話。
吉村さん曰く「当時から先行ってましたよね」、林「いやあ、先行きすぎ
て相手にされなかった(笑)」。まあ、半歩前位が丁度いいのよねえ。
でも、仕方ないさ。やりたいことを表現したい。そのために演劇の形式
を捨てた。パフォーマンスと映像でないと表現できなくなった。それが2
4年前のこと。
携帯電話(のようなもの)が直接的な人間のコミュニケ―ションを歪め
る世界を舞台でやった1986年。すごく重たい自動車電話くらいしかな
い時代。子供にまで携帯が普及したのはそのずうっと後、だから当時
は予想さえしなかった。公衆電話とテレフォンカードの時代だ。
パソコンやWEBがこんなに身近になるずうっと前、1988年ころ、コン
ピューターが人々の生活をすっかり変えてしまう世界を表現した。誰も
ピンと来ない、想像さえ出来なかったがやがてそういう時代になった。
ようやく時代が自分に合ってきたのだと思う。テラ創立以来の、メディ
ア社会が人間を分裂させる、歪みを強める(結果としてうつ病、神経症
が増加)というテーマが今も続く。時代に合わせる気は毛頭ないが、時
代が勝手にこっちに来てしまった、感。
次回は1999年に何と出演者によって葬られた幻の作品『カサンド
ラ』。これは「弔い合戦」だから力が入る。「戦争と演劇」、「戦争と女た
ち」を主題とした作品は1990年代のユーゴスラビアでの内戦を作品
世界の背景としたものだったが、作品がほぼ出来上がるにつれて、何
と出演者たち(ある劇場でプロデュース、オーディションを通った出演
者、20代から50代まで、小劇場から老舗新劇団員まで総勢40名参
加)が「作品の演出意図がわからない」と、紛糾。「何でこんな平和な
日本で日本と無関係な外国の戦争を扱う芝居、やらなきゃならない
の?」とバカなことを言いだす女優もいた。寄せ集め集団内は異様な
空気に。とても公演どころではなくなった。ほぼ作品の各部のパーツ
(13のシーンに分かれ、ブリコラージュ式に相互シーンが無関係なよ
うで次第に関連して行く構造、つまり今回の『ノラ』のような)が仕上が
って、あとは並べて通し稽古、という公演10日前のこと。
結果的に仕切り直しを決意し、公演は中止にせざるを得なかった(希
望者7名だけで1週間で作り直し、試演会という形で上演はした)。そ
の時、こんな寄せ集め(プロデュース)じゃあダメだと心底思った。日本
の演劇人の知力(思考力)の低さ、見識の狭さ、技術のなさにとことん
絶望した。
そして深い挫折から10年かかって、理想に近い集団を作った。しっか
りした深いところまで理解しあえる仲間たちがいる。その間に9.11が
あり、イラク戦争では日本も自衛隊を参加させ、いまアフガンをどうす
る、普天間をどうするという話が出てきた。「現代の戦争」は日本と無
関係な「遠い話」ではなくなってきた。ようやく時期が来たわけである。
何より今度は「演劇内向病」から自由なメンバーたち、同志たちが身
近にいる。10年かかって、やっと「機」は来た。
んだから、来年7月の再開10回目公演はとっても個人的に大切な公
演なので全力投球、そこまでは生きていたい(笑)。まあ、悔しい思い
をするってのはいいことだと思う。これだけしぶとく頑張ろうというやる
気が叩き起こされ奮起したんだから。『カサンドラ』をやり終えたら「腑
抜け」になるかもなあ。とにかく来年7月までは頑張るぞ、っと。
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