『マテリアル/糸地獄』


2009年7月
(新)テラ・アーツ・ファクトリー 第8回公演

2009年4月15日(水)

昨日、今日は終日、7月公演の原作となる岸田理生さんの『糸地獄』と にらめっこした。


そしてテラの稽古でテクストアプローチを具体的に提案してみた。今ま であれこれ探ってきたが、とにかく最初の一歩を踏み出さなければな かなか前には進まない。3月末まで外部出演や実験・創造工房創作・ 発表会などでみなふさがっていたから、やっとそろりそろりと踏み出し 始めたばかりだが、なんせ今回はいままでに比べると「大人数」だ。テ ラ以外のメンバーも多数参加だから、早めにプランを確定して進めな いと今までのようにはいかんよなあ、とアクセルかける。黙ってると「ノ ンビリ屋」、ぎりぎりになってしまう。が今回はそれは許されないと兜の 緒を締める。結構、青筋立っているし。みんなも私も初めての岸田作 品挑戦だからなあ、キンチョーするんだ、これが。


これまでは集団創作をじっくり時間をかけてやってきた。が、今回はあ る程度戯曲テクストのラインを残してやってみる予定なので、進め方 はこれまでとは異なる。私(演出)の実際機能も変わる必要あり。通常 の演出の仕事に近くづくが、それでも可能な場所、可能な限り「集団創 作」の良さは出したい。そのためにはまずは軸を作り、たたき台を作っ て、そこで皆から案や意見を受け、少しづつ形を作っていく、方向で進 めなきゃなあ、とか。何回やっても演出は慣れない仕事である。


気づくとも4月もなかば、時間が飛んでいる!新年度の始まり、あわた だしい、あれやこれややること一杯。7月公演のチラシ製作も佳境、大 至急便、文言考えなきゃあああ。スタッフもまだ未確定の部署があり、 今週来週心当たりの人と面談。

そして土曜日は協会の理事会。前回理事会で予想外の新展開、これ からどうなるかわからない「動乱期」に入る感じ。今までとは役割も仕 事も変わる(増える)のを覚悟しないとならない。新事業に対する対応 が要求されてくるだろう。

テラは大分安定してきたが、まだまだ気を緩めることはできない。今年 で4年目、いろいろと「飽き」が出る時期でもある。それを超えると更に 面白さ、倍加なのだけど。外側からの成果も出てくるし。集団としては 正念場。さて今年一年、果たして乗り切れるか。

全くもって胃の調子がよろしくない。B型イチローも胃潰瘍になる。O型 だってたまには胃痛、いやそこまでは行ってないが、ちょっとつっかえ る感、程度にはなっている。

2009年4月21日(火)

舞台監督さん候補と面談。今泉さん、若い。。。でも、井口、ウメが人 物を知っていて彼女たちの目に適ったのだから問題ないだろう。ま、う ちは7、8年一緒にやり続け、実験・創造工房試演会を15回に渡って 見たりやったりし、7回の舞台作りも共有してきたメンツが現在の劇団 メンバーだから「盤石」。人物もしっかりしているから、あんまり心配し てない。役者が舞台に上がって出来ないところを補佐してくれればそ れでよし。舞台(空間)は役者の身体と声で作る。


清田さん、今日から稽古参加。戸惑いもあると思うが、少しずつ頭か らでなく、からだ、感覚で感じ取っていってもらえれば。役者は「動物」 です、まずは。そこから徐々に人間の輪郭を形作って行けばいい・・・ って何を言ってるのか、わかりずらい。そりゃあ判り易くないですよ、役 者道は。1000年、2000年の芸能史の流れの上に乗った「芸道」だ から、テラは。少なくとも武智さんの薫陶を受けた最後の一人だと自任 している。

清田さんは川村のところにいたから、テラに合うと思うな。役者の「血」 が騒ぎ、たぎってくれば、まずはよし。

2009年4月28日(火)

■『マテリアル/糸地獄』チラシ、もうじき完成。





3月から撮影を続けた東京風景の写真コラージュを背景にして(これ まで同様、無記名だが吾輩の写真撮影による)、その上に吉永さんの 描画がかぶさり、更にデザイナー奥秋氏のレイアウトによるタイトル文 字などが重なる。並行してスタッフの確定や出演者の確定、種々の文 字データやキャッチコピーを考える。順々に作業が行われ、取りかか ってからここに来るまで約一カ月。

仮プリントした表紙、見た感じ「爽やか」、これまでとはまた一味違うも のに。同じコンビによる作品だが、複数で作業をしているとずいぶん バリエーションが出るもんだ。奥秋氏によると今回の仕上げには「和 紙の雰囲気」を出したとのこと。

文字校正を終え、昨日は版下原稿完成前の最終打ち合わせを奥秋 氏と。その後、新宿東口の東京リスマチックに原画を持ち込みスキャ ンしてもらう。データ出力に時間がかかり夜の引き取り予定だったが、 ワークショップ後にデータ引き取りに行く予定も疲れてしまい今朝一番 で引き取りに行った。それをメディアに入れてもう一度奥秋氏に手渡 す。そして版下が完成した段階で主催者の最終チェックを受けると原 稿段階の作業は終了で、次は印刷段階の作業に入る。

とにかく一枚のチラシだが、各作業のあいまを取り持つ「手足」の仕事 がいろいろと多い。現在の進行状態では連休前の印刷完成は無理の ため、連休明けに印刷所に持ち込み、それから印刷完成まで数日を 要する。であるから、みなの手元に刷り上がったチラシが届くのには あと二週間はかかる、か。

2009年5月1日(金)

■テラ・アーツ便り

キャパが足りない!

公演準備を進めている。今日は稽古場前に演出チームの打ち合わ せ。その後、制作ミーティング。観客動員に関してうっかりのんきにし ていたが、もしかすると予想より入る?テラはどこの劇団もやっている 「客を呼べ、動員を増やせ!」ということを劇団員に全く要求しないで やってきた。「陣地戦」の構えで来たゆえだ。「経済繁栄」の流れを受 けた昨年夏までの日本、日本人の意識の大勢を敏感に表象してきた 演劇の中で、それに抗する「抵抗勢力」という認識を持っていたゆえ。 大勢とは違う場、違うものを求めている人の「受け皿」、少数派の場を めざして2005にスタートした。

が、昨年秋からの世界状況の変化で180度、世の中の大勢が変わっ てしまった。もちろん、それが実際の演劇にストレートに反映されるわ けではないし、影響をすぐ受けるような(風向きでコロコロと宗旨を変 える風見鶏のような)ものはあまり信じない方が良い。


と、そんなことだけでなく、今回は出演者も多いし、d倉庫のキャパも思 ったより限られている、ということで追加公演を決定したのである。


まずは全員で協議、決定は迅速(チラシ印刷前)にということで、多数 決で決めた。

テラは小劇団では珍しく「独裁体制」ではない、「民主主義」体制。しか し、「民主主義」は怖い。時として多数派が少数派を蹴散らす。だか ら、簡単に「多数決」にせず、少数意見を尊重し、徹底して論議する。 そうやって作品を作っていく。テラの「集団創作」はこうして継続されて きた。

しかし、時間の制約があるから、まさにせめぎ合いである。今回のよう に「即決」が必要な場合は、創作ではなく運営面に関してはその場で 「多数決」、これしかない(創作では演出裁定)。まあ、是非の非の部 分を分かった上で、ケースバイケースで運用する、「民主主義」は最善 の策ではないが、時には必要な策である。それ以前に集団を構成す るメンバー相互の信頼関係、それがあってこそなのだが。


■稽古『マテリアル/糸地獄』
連休前に、原作「引用」部分を絞り込む。
その後、三グループに分かれてオープニングシーンと全体に関してプ ランニング会議。

2009年5月3日(日)

「岡谷蚕糸博物館」へ行く。

滞在したホテルのすぐ前にある。
スタッフの女性の方としばし歓談。
「岡谷」を知る上で大いに触発され参考になる。

ちなみに蚕糸博物館の中に「岡谷美術考古館」が併設されていた。
そこに吾輩お気に入りの「縄文日本(天皇制日本以前)」の痕跡があり うれしくなる。

下の写真は縄文中期の深鉢形土器につけられた顔面把手。
単なる飾りではない。飾り以上の意味と必要性があったのだろう。
こういう精神文化はどこへ行ったのか?消えたわけではない。
様々な日本人の深層意識の底に入り込み現在も生きているはずであ る。

近くにある諏訪神社のミシャグチ(大木を拠り代に蛇が降りる)信仰。 そもそも諏訪神自体、律令制度によって整備された天皇中心神道の 中ではよくわからない神なのだ。日本は天皇の祖先から歴史が始まっ たとするのは大間違い、すると象徴天皇制の根拠が崩れてしまう?

それはともあれ、私の中にも理生さんの中にも「縄文」の血は流れて いる・・・。












午後、岸田理生さんの墓参りに行く。

2009年5月5日(火)

野麦峠に行く。


まだここは序の口、ここから徐々に峠に向かって勾配はきつくなる。


峠から見た乗鞍岳、絶景。


野麦峠、クマザサの穂が10年に一度実をならせる。それを「野麦」と 言った。農地の限られた飛騨の人々は、飢饉の時、野麦で飢えを凌 いだという。



飛騨の貧しい農民の娘たちがこの厳しい峠道を越えて岡谷の製糸工 場へ行った。帰りは真冬。5月の今でさえ、ところどころに雪が残り、 冷たい風が身を切る。思わず、当時を想像する。。。

2009年5月10日(日)

快晴、暑い!
5月2日から東京を離れて以来、久しぶりに地元新宿で一日を過ご す。

連休を利用して岸田理生さん、『糸地獄』に関連する取材のため、岡 谷、諏訪、松本、野麦峠へ行ってきた。6日夜遅く東京に戻り、7日に はすぐ名古屋の学校へ仕事に出かける。


3日、理生さんのお墓参りに行った。
理生さんも岸田姓もペンネームと初めて知った。私と同姓の林さんだ った。いつも姓ではなく、名前の「英樹」と呼んでいたのはそのため? 林という姓が嫌だったのだろうか?墓地に行くと辺り一体「林姓」のお 墓が集合していた。この林さんのお墓の多さには絶句した。まる30分 近く、お寺の若い僧侶さんが一緒してくれてやっと理生さんのお墓を見 つける。理生さんの芝居に出てくる「戸籍」話も、血の脈々と続く話もこ こに来て物凄い重さと実感でわかった。それだけでも来て良かった。 文字を追っているだけ、戯曲や作品を読んでいるだけではわからない ことがある。そうした作品の表層に現れるもの、更に作家自身も気づ かない無意識の部分、そこに触れた気がした。言葉という記号の組み 合わせの中に見過ごしていたものを具体的に体感することが出来た。


その日その足で、岡谷の「旧林家住宅」に行った。
岡谷の大製糸家林国蔵の居宅で国の「重要文化財」の指定を受け、 一般公開されているものだ。そこの案内の方が親切で一時間近く、話 を聞いた。いやいや、「岡谷」は実に深い!




廊下の頭上に蜘蛛の巣模様の飾り、シャレのようだ。

私の先祖は尾張の林という旧家、おそらく縁起話に事欠かない。祖父 さんが明治の頃、尾張を出て北海道に単身渡った。血縁地縁社会を 嫌ったのだろう。無数の親族、林一族が名古屋にいるはず。地縁血 縁の日本社会、大都市部では完全に壊れているが、地方にはそれが 現在にまでつながって存在している。妄想は一層、膨らむ。


頭の中を少し整理したいが、三日間の岡谷滞在で岸田理生さんが以 前より身近に感じる。

歌舞伎町の雑踏の中、7月公演の構想をあれこれ練る。8日(金)にメ ンバーたちが創作プランを検討し、その記録を読みながら、少しずつ 形が頭の中で膨らんでくる。

2009年5月13日(水)

テラ・アーツ『マテリアル/糸地獄』稽古

メンバーたちが自主的に作ったオープニングシーンを見せてもらう。そ の後、男性陣が創作したシーンを見せてもらう。

オープニングは少し手直しすればこれはこれで行ける。男性陣のシー ンは、うーん、面白くない。面白くしようとしている分、見ている側は面 白くない。「滑稽」コンセプトは難しいか。もう少し様子を見たい。

2009年5月15日(金)

ちらしがついに出来た!

2月から製作に関わり、やっと完成。いつもながら長かった。これで一 仕事終わった感。自分で作業進行をやっているからよけい手間がか かる感じがする。が、進行の仕事、出来る人間いないから仕方がな い。やるしかない。その分、まるで自分の作品のような愛着がちらしに はある。


連休明け最初の稽古立会いを前回水曜日に。そこで見せてもらった シーンを考えながら、全体のコンセプトを定める。これまで2月〜4月 は週に1〜2回程度集まり、ワークショップスタイルで作品の検討、プ ランニングをみんなでやってきた。これからは私が指揮して演出して ゆく。今月中に基本の柱を立てるつもり。じっと考える時は林のごとく、 動く時は火のごとく。

2009年5月19日(金)

私たちはアバンギャルドで、ありたい

テラ・アーツ『マテリアル/糸地獄』稽古


部分部分を作り始める。さて、これからだ。

この段階ではみな雲をつかむ状態。しかーし、「こういうのをやりた い!」という、それは頭の中にある。あとはどう形にするか、なんだ。い くら演出プランを言葉で聞いてもわかりずらいだろう、そりゃあそうだ。 出来上がってみなくちゃなあ。しかし、それは出来あがらないと見せら れない。ここが演出のつらいところ。皆の衆、今しばしは「忍」の一字で ついて来てくれ。テラの面々は何度も経験してきたから心配はしてな いが、外部から初めて参加する衆は不安だろう。言葉で通じるものと 通じないものがあって、こういう芸事に関わることは言葉以外の、つま り「共有体験」がものを言う。その文脈、コンテクストの上に現場の演 出言語がある。コンテクストを共有していないとなかなかわかりずら い。もちろん、言葉で表現できるものは最大限表現するが、なかなか これが厄介だ。

ただ、今回の上演メンバーに「凡庸」と「常識」、くそおもしろくもないモ ラルや退屈極まりない当たり前のことを強制するタイプはいない。そう いうのは「危険」だから内部に入れない。極めて求心的に実験的作業 を進めやすい。つまらない常識や凡庸、退屈を押しつけて得意顔する 役者が世の中多すぎる。みな、死ね死ね死んじまえ(笑)。そうすると 演劇界はもう少し美しくなる。

冒険心、怖いものみたさ、やんちゃ精神。何より芸術と創造に対する 純粋無垢な精神。それしか興味ない。前衛、アヴァンギャルドとは大 勢や権威に依存しないこと。常識や当たり前は分かっているが、そこ にあぐらをかかない。それ以上の、人が想像しないことを想像する。そ ういう態度や姿勢を自分に課す。そういう意味合いで使っている自分 への「負荷」だ。だから、私たちはアヴァンギャルドである。これまで 「常識」と「凡庸」からつねに攻撃され、時には作品自体を破壊された こともある。つねにこういう「退屈」と闘う態度でいたい。クレイジーであ り続けたい。

2009年5月20日(水)

テラ・アーツ『マテリアル/糸地獄』稽古


一日、二部屋に分かれる稽古場での稽古内容や構成陣容、さらに作 品の構成プランと試してみたい実験案などをじっくり考え稽古場に入る と、「おおおっ」休みがなんと6名。いきなりはずされた。シーンを構築 する稽古がこれでは全く出来ない。急遽、計画180度変更。


理生さんの言語を身体的に消化してもらうため、二部屋に分かれて 我々の舞台の基盤、ベースであるファリファリ(F)基礎2をそれぞれで 徹底してもらう。初めて参加する門田さん、清田さんも体感してもらう。 記号化された言語ではなく、言語化できない意味と意味からはみ出る ものとしての身体性。そこが空間の時間を支える、それがテラの舞台 である。そのための第一歩。

今日は骨格部分の前半ダイアローグ部も稽古する。だいぶよくなる。 まあ、一歩前進。試しにやってみたミザンセーヌ。斜めのラインを使う のと、男子陣(のっぱらぼう役、この舞台の重要な一方の柱的存在) に身体から声を出してもらうために仕組んだ態勢、虫的で面白いと好 評。使える!苦肉の策、切羽詰まったところからいつも演出のヒントや ひらめきが生まれる。

2009年5月22日(金)

テラ・アーツ『マテリアル/糸地獄』稽古


今日、稽古を見る予定だったシーン、役者が体調不良などで揃わず。 またまた予定狂う。限られた稽古予定、迫る期日が頭に迫ってきて、 積み重ねてゆく稽古が出来ないと苛立ちが高まる。それを鎮める、 「がまんがまん」と自分に言い聞かせる。演出は忍耐の一字である。 抑圧が高まる一方。

臨機応変にすぐに切り替えをしないと。気持ちの切り替え。


前回に続き、強度ある音声空間という舞台の基盤作りの稽古を主体 にする。二部屋に別れて7〜8人ずつのチームで並行して稽古。出来 るだけみな体を動かし、声を出すようにするため、そうした。この二部 屋を小生は行きつ戻りつ、指示をし、チェックをし。つつ。結構、これが 疲れる。まさに移動散髪屋(大杉栄、伊藤野枝の話に出てくるアナー キスト渡邉政太郎の生業)ならぬ移動演出家。


しかし、今回はテラメンバー以外に男性メンバーが大勢加わり、中堅 の清田さんも加わって、稽古場の空気が新鮮でとてもいい。アラ30、 U30の男子4人に加えアラ50、U50の滝、酒井さんもいてくれ、それだ けで稽古場に落ち着きが出てチームとしてはとてもいい。


稽古後、滝、酒井、江口の男子メンツで稽古場近くの居酒屋へ。

中大の准教授殺害の犯人が捕まった話題。犯人は元ゼミ生(28)と いうことで、ゼミを持った経験のある小生、学校の先生でもある酒井さ んと経験談義。教室での言葉に極めて慎重になる。下手に叱ったりで きない。どう真意をねじまげて受け取るか分からない。心の屈折のひ どい生徒は自尊心を深く傷つけられたと思ってこちらに攻撃的にな る。たびたびネットを使って悪意ある中傷をされた記憶が蘇る。匿名 の個人攻撃って陰湿だ。そういう心性、精神的な「崩壊」を教室にいて 若者や子供を相手にするとひしひしと感じる。

でも教室で生徒を相手にクラスをまとめていった経験が、集団の組織 化に関していろいろ参考になった。


観念のレベル、抽象のレベルの話が出来る。これは適度な「ガス抜 き」になる。今日は吉田喜重の映画(ヌーベルバーグ)との出会いの話 に花が咲く。

2009年5月30日(土)

今週水曜日の稽古(前回)後の演出チーム横山、佐藤との打ち合わ せで、その日に試したシーン案を材料に浮かんだアイデアを出し合う。 そこでひらめきが幾つかあり、「やったあ」という感じで帰り道の足取り も軽かった。その次の朝、夢を見た。舞台の構成・構想で議論でいて いるがかなり厳しい状態。で、起きるとぐったり。よくあるパータン。 が、演出プランはあれやこれやと冴えわたる一日になり、稽古に臨ん だ。

が頭で考えるようには現場は行かない。
一昨日の稽古(前回)の後に浮かんだ案を皆に伝え、原作テクストを 元に改作した幾つかのダイアローグ、モノローグ、会話部分のパーツ を並べて、流れを試してみる。舞台の空間設定(装置プラン)もかなり 定まり、「壁のおんなたち」というコンセプト、鏡の使用などアイデアを 伝え、みなでプランニングの話し合いをした後、ざっと鏡の実験、動き や配置は仮で「壁のおんなたち」の居方や動きも仮のプランで頭から 粗通しでやってみる。が、どうもしっくりこない。「取りあえずこんな感じ でやってみて」といきなりの注文(いつもの創作スタイルだが)で俳優に 動いてもらったのだから仕方がないが、それにしても構成にもうひと工 夫必要だ。それは何だ、何だと考えるながらの帰宅は前回と真逆に足 取り重く。。。さてどういう風にしたものか、帰り道は小雨。で気分もひ どく「小雨」状態。

しかし、今日、土曜日の午前。ひらめいた、頭が冴えた。3部構成の 第一部の構成がほぼ固まった。そして第二部の基礎プランもかなり展 開した。そんなこんなで一喜一憂。ともあれ次回の稽古(来週火曜日、 あと3日)が早く来ないかと気が急く。

テラの面々は仕事の関係で土日は稽古が出来ない。私はむしろ土日 がいい。そんなことで稽古時間がうまく調整できないため、稽古は限ら れた曜日になる。だから早めにプランを進めるのと、基本的に芝居の ように暗唱したセリフを固めて、「それいいね」となったものをなぞって もらう、そいうことで「演技を作る」ことをしない。かわりに話し合いをた くさん入れて、稽古は稽古ではなく具体的に案を立体的に試してみる 実験、演技は即興性主体で固めないで本番に臨む。即興が見せられ るレベルで常に100点に近くづくような基礎度量は公演稽古ではなく、 普段の稽古(公演を前提としない基礎稽古)で磨く。そこでかなりの力 量(5〜10年程度はかかる)をつけてもらって初めてこうした作業が成 立する。このやり方は現在のプロデュース主体の演劇公演では不可 能である。

2009年6月2日(火)

稽古前、藤井、横山と演出打ち合わせする。

先週の金曜日のあと、構成図表を作成したせいでだいぶ、整理がつ いた。

演出チーム(藤井、和紅、横山)に、あたまの整理のため作成した第 一景の図表入り構成進行表を提示。取りあえず立ち稽古で「柱」を建 てることをめざす。演出チームで仕切ってもらい、それを少し見ながら 全体構成を考えてゆくことに。


原作テクストを使うとどうしても「物語」性が強く出てくる。物語性はヒロ イン、ヒーローの物語に集約されるものだ。つまり物語性が強いという ことは、「主役」(ヒロイン、この場合繭の物語)芝居になってしまう恐れ があるということだ。それではこれまでテラがやってきたことの意味が なくなる。個人、主役、一人の俳優を引き立てるために集団があるわ けではない。劇があるわけではない。「集団の演劇」が私たちの主張 であり、本領である。何より物語の完結は舞台の上で、「あちら」の世 界で世界が閉じてしまうことを意味する。装飾を排除すると古典的で 保守的とも思える『糸地獄』の持っている「世界」の可能性をその保守 的な形式から解放するにはどうすればいいか。試行錯誤は果てしなく 続く。


稽古
はじめに確認を兼ねて、全体構想を図で示す。「壁の女」コンセプトの 説明、作品の中での位置づけ。彼女たちは物語を引き立てるコロス役 とは考えていない。物語の外にいて物語から独立した存在。時々「糸 地獄」物語内部に入る存在。第二景までは物語に沿っていさせるが、 徐々に彼女たちの存在が物語を越えていく。物語の骨格を柱にし構 造をより浮き上がらせるため、原作をいったん「解体」(ほぐす)し再構 成する。そこからさらに私たちの考えを表わす型式、内容を作りだす。 鏡、母と私の関係、男対女の対立構造を第三景に持ち込み、第三景 は物語外として創作する考えである。


20:00〜21:30
「おんなたち」の動きなどははぶいて、改作テクストラインで二景の終 わり「母と繭ダイアローグ」まで粗通ししてみる。意外だったのは話が わかりやすくなったこと。肉を削ぎ落とした感じだった。

途中休憩で清田さんと話す。金曜日に休んだためか、「いきなり進ん でいるのでびっくりした」と。「やっている作業がすごく面白い」とも。面 白いと思ってもらえるのはうれしい。テラスタイルは、普通の「再現演 劇」を演劇の本質、普遍、絶対と思い込んでいる多くの役者たちには 理解を超えるものだ。それだけにまず直感的にわかってもらえるのは 極めてありがたいし彼女を選んだ勘があたった、と感じる。。

稽古後、滝と軽い会話を交わす。第三景は男がじわじわと女たちを包 囲してゆくのだろう、との滝の意見。最後に逆転、だろうなあ。それし かないし、ぎりぎりまで持っていって逆転が、一番効果的だ。実際の縄 を使うと陳腐になるかもしれない。縄はなしか・・・。


帰りに「らあめん屋」で門田、藤井と食事する。
第三景で現在の題材を持ち込む(「おんなたち」による)のはどうかと の藤井の意見。「糸地獄」は過去の時間だから、明確に二つのライン が提示できる。過去の男たち(神権天皇制下)と現在(時間設定は今 から30年後・未来。象徴天皇制下)のおんなたち。彼女らが第一景、 第二景を妄想し、あるいは参加したという構造。今から30年は昭和4 9年、しかし年号はおそらく平成ではない。われわれの生きる時間は 一人の人間の生死で区切られている。一代一元は明治から。ここを 突くのも一つの手だ。あまり認識していない盲点。ラストの「盛り上げ」 方としては対立構図の中で、男子陣と競り合い、競り上げる感じにす る。テクストは?


今日の粗通しを見て、展望が十分開けた。
繭と男、母と繭の対話で物語の筋、展開はわかるし、「材料」の整理 や糸女を男たちが演じることで「壁のおんな」たちを活かせる。前中半 で男性陣を活用し、テラ女子は脇、背景にしたことで後半部に前面に 出てくる効果が出やすい。抑えられた、外に追いやられた存在、がよ うやく語り出す感じ。滝の意見→第三景は男たちが女たちを包囲し、 追い詰めていく感じ、がいい。

2009年6月11日(木)

公演の制作まわりとして、フェスティバル主催の宗方さん、参加劇団座 長の野口さんと共同通信社に行く。月曜日は朝日新聞だったが、急な 時間変更で対応できず行けなかった。先週は名古屋のためやはり駄 目。で、今日だけは参加しようと馳せ参じた。

汐留のメディアタワーの中。まるで迷路、通路は白い空間。キューブリ ックの映画の世界、ここにいると脳の中が組織変化するのではない か。そんな近未来建築の中をしばらく3人で彷徨い、ようやく受付に辿 り着いた。日ごろ、アナログスタイルの「歩く」に身を置く身には貴重な 経験であった。


新聞社まわりは10数年ぶりのこと。今回はフェス参加一員として加わ り、一通りの説明は出来た。「ブランク」大きいからなあ、しかし集団が 育ってきたし、これからって感じの一日を味わう。

テラのメンバーは20代女子の集団。意図して集めたわけではなく、た またまそうなったのだが、そうなった以上、「女性」を主題として考え る、しかも男の立場で、そこに徹してみよう、とやってきた。

通信社の文化欄担当記者のSさんには、テラは集団創作スタイル、自 分は演出と言うよりドラマツルグ(文芸・演出面をサポートする。時に はテクストを書いたり、引用したり、テクスト編集する者)の立場です、 と説明した。自分の子供くらいの世代の女性たちの感性に根ざしてテ ラは創造活動をやっている。


今回もそうだが、グラウンドデザインや方向性、集団がまとまらなくな ったり、方向性を失った時にまとめ役をし、かつ最終的に一つの作品 に固まってゆくように誘導する役割が私の仕事だ。だから出演者は単 に台詞や役をもらう、というだけのものではなく、作品の全体を作って ゆくクリエーターになる。「部分であり全体」であるクリエーター。それが テラ独自の集団態勢、作劇システム。結果として、メンバーは大いに 育つ(人間として、クリエーターとして)。

そして公演を一つやった時の「達成感」は自分が作った作品だから余 計大きい。これは演劇創造の究極の「理想形」ではないか。演劇現場 を去ってゆく多くの人を見ながら、彼らが何故去ってゆくのか(単純に 生活の問題だけではない)、そこを考えてきた。やっていて「空しくな る」ことが一番の原因なのだ。「スター」になる「大女優」になる、のはご く一部だ。いや、演劇現場からそこに行くことは殆ど皆無だ。そこに行 くのは4万7千人の中の一人(堀プロオーディション)だったりスカウト だったり。後は、演劇をやることが人生にとって価値あるか否か、の問 題になる。

通常の芝居では役者をやっていても結局、全体の歯車の一部にすぎ ない。会社の仕事と何ら変わりない。いや、本当はそうではない。自分 が必要、自分が作り手、自分がその場を形成する重要なファクターで あるのだ。そういう意識が持てる集団の仕組み、舞台創造の仕組みを 考えてゆくべきであると思う。そのモデルケースを現在のテラは作って いる。演劇を志すものが「空しくならない」ためにはどうすればいいの か、という。



テラ・アーツ『マテリアル/糸地獄』稽古
昨日のプランニングで演出チーム藤井、横山、和紅が考えたシーン案 を彼女たちに仕切ってもらってやってみる。私は脇で拝見してみる。す るとまたまた見えてくるものがあったので、さっそく今日の自分の脳の 中で「浮かんできたこと」を伝える。

今日の稽古の様子を見て、浮かんだこと・・・
演出チームの構想によるシーンの試作を見ながら、ふとおんなたちは 繭(原作の物語の主人公名)も含めて、繭ではなく(蝶で言うさなぎ)、 繭の中身、つまり幼虫なのではないか、そんなイメージを持った。幼虫 が繭を割ってやがて外界に飛び出す、その間の苦しみ、もだえ、葛 藤、そこを反映させてみる、そういうアプローチもこの作品にはある。 すると女たちはみな、「幼虫」から孵化し、一人前、独り立ちするため の準備期間としてそこにいる。。。。

こうなるとテラが追及してきた「自立」過程としての葛藤、「もだえ」を表 現化(演劇化)するというこれまでの路線とぴったり照応する。まあ、繭 の自立の物語として最初からとらえてはいたが、「糸地獄」という原作 タイトルもあって、「糸」・・・「縁」・・・「絆」・・・「しがらみ」・・・「世間」::: と発展し、それと対決する主題をテラ版「マテリアル/糸地獄」の切り口 に、人の「配役」や配置、構成、基本構想を考えてきたが、形になって きた現前の「空間」を見ながら、更に考えは深まってきたようだ。

2009年6月16日(火)

テラ・アーツ『マテリアル/糸地獄』稽古 江古田ストアハウス


劇場で稽古をやると気分が乗る。役者もずいぶんハイテンション。今 日は一気に第二場終わり(全体の8割)まで「粗立ち」で試演する。


先週稽古で第一場の大雑把な構成、舞台の流れが固まった。


それを受け週末は第二場の構成案とテクスト改作に着手(個人作 業)。この改作テクスト、構成案に沿って今日は「粗立ち」試演と相成っ た。ほぼこの流れで行けると確信する。そのせいか肩の荷がどっと降 りる。この一か月、息を詰めるように考えに考えてきた。やっと気分が ほぐれる。



稽古場で作ってゆく(台本も含めて、動きなどのスコアーも)やり方、今 回もそれは変わらない。テクストは一度ばらばらにし、稽古場で再構 築する。稽古の中で人の配置や動き、構成が作りだされ、試作・試演 のたびに皆の感想・意見を聞き、一緒に作り上げてゆく。並行して上 演台本(テクスト)を作成する。そこで重視されるのは、身体とエネルギ ーの渦が生み出す見えない「時間」である。私たちの<生>と言い換 えてもいい。


話やセリフで進行する舞台ではなく、身体、空間の変容、エネルギーと 言った「見えない力」で時間(演劇空間)を作るスタイルだから、テクス トが先行しては実態と合わなくなる。が、今回は原作と言う物語の「制 約」がある。それを活かしつつ、同時にテクストを一度ほぐして、もう一 度、テラで「集団創作」されつつある私たちの時間に収斂させてゆく。 五感をフルに動員して集中し、実際に試演し、それを全身で感じ、聴 覚触覚(日常は視覚中心、そこに偏りすぎる。だから稽古現場では他 の感覚を重視する)を研ぎ澄まし感じたことを話し合いの中でフィード バックし、他の人間がどう感じたかも聞きながら、自分の感じたものを 客観化する。こういう作業を積み重ね、繰り返している。


今回の原作は完成度が高い。その分、自由に手を加えられる「すき」 がない。自己完結した作品である。この原作に基づいて作られた舞台 は80年代を代表する作品の一つとも言われた。集団が最も充実した 時期のものである。同時に私が当時主宰していた演劇集団アジア劇 場が世に認められ注目を集めた個人的にも上昇期。隣通し、薄壁一 枚隔てた稽古場で岸田事務所+楽天団の『糸地獄』の稽古が行われ ていた。だから「あかの他人」とは思えない作品。

しかし、あまり思い入れをしないほうがいい。少し「冷たい目」で作品を 見た方がやり易い。その為には岸田理生さんの舞台を見たこともな く、むろん岸田事務所+楽天団のことも全く知らないテラ・アーツ・ファ クトリーの女子メンバーとの共同作業は貴重だ。自分で勝手に「思い 込み」していたことも確認できる。

緻密なテクスト、「言葉の魔術師」、言霊の魔術師岸田理生の代表 作。その「糸」をほどいて別のコスチューム(フォルム)を作ってみる。 改作テクスト担当者(つまり私)は岸田理生さんに言葉のレベルで負け てはそこまでだ。サシの勝負をかけないと敵は突破できない。出来る か?

そんなことで、第二場の改作テクストは先週構築されつつあった舞台 の流れ(時間)とその中での身体の変容、を見ながら構想した。今回 は当初、ドラマリーディグの変奏版をなどと軽く考えていたのだが、総 力戦になってしまった。理生さんの術中にすっかりはめられている (笑)。

2009年6月18日(木)

テラ・アーツ『マテリアル/糸地獄』

昨日、今日と女性メンバーに第二場、身体表現を導入した部分の創 作(シーン構築)を任せる。前後の場面、全体の構成が固まったところ で、それを前提に、場面作りを彼らに託す。こういうリレー作業も「集団 創作」の面白さ(役者、メンバーにとっては)だ。テラ独自の創作スタイ ル、だんだん軌道に乗ってくる。経験が必要だが、もう8回も創作・上 演を経験してくれば、連係プレーも「阿吽の呼吸」である。私はそれを 横でただ眺めさせてもらった一日。

2009年6月19日(金)

テラ・アーツ『マテリアル/糸地獄』稽古


男子3人、江口と滝を入れ替える。場面が途端に活発になる。江口と 酒井は主人、紐に。「二人三脚」式にする。これで機能し始めた。4人 の日程が全く合わないため、稽古の時間も取れない、そのための苦 肉の策でもある。これで頭を痛めていた部分の一つに何とか目途が 立ち、気持ちも少し楽になる。


桑原、佐々木はリズム感がいいし、声に緊迫感があり緩急や、場面に よって声の使い分けも出来て、すごく劇のスピード感と大きな展開(2 〜3分に一度、大きな場面転換する。時間が行ったり来たり、記憶や 光景が一気に変化する。大波連続の舞台。それを装置でなく、役者の 身体と声で変化させる)に対応してくれている。ので、彼らの存在が有 効に機能している。何よりもスピード感が出て来た。


稽古
第一場〜第二場まで「粗通し」をする。
すごくいい感じになっているので、構成に手直しの必要がない。構成に 関してはこれで行ける!

ほぼ見えてきた。構成に関しては8割方、出来あがる。来週は第三場 の創作のたたき台を私から皆に提示し、皆の意見・アイデアを聴取す る(上演台本・構成を考えるプランニング作業)。しかし、勢いがついて いるので、また一番ラストはこうしたい、というのが明確にあるので、あ とはこれまで8割方出来ている流れを壊さず、かつ大胆な観客の「予 想」への「裏切り」を込めたシーンをつなぎとして作って行けばそれで 行ける。


第二場中・後半の対話部で物語自体は見えてくる。あとは、もう一つ の柱(女たちの存在)をより強く競り出させてゆく→第三場への流れを 作る。

2009年6月20日(土)

テラ・アーツ『マテリアル/糸地獄』
公演まで一ヶ月を切る。

今週の稽古でようやく出来上がりの目処が立ち、気持ちが楽になる。 5月下旬から異様に切羽詰ってやってきたが、そのため構成・プラン ニング・テクスト作成(上演台本作り)もかなりな勢いで進行し、何とか 間に合いそうな状態になる(上演台本構成に関して)。この緊張感が 必要なのだと思う。


6月中の土日月は稽古がない。この三日間がすごく長かった。しかし、 ここで次の週にするべきこと、稽古場で試したいこと、テクストの試案 版の用意などをする。それにはちょうど良い「インタバル」と言える。こ のくらいの時間が準備には必要なのだ。そしてまた人が集まり、一気 に試作、実験を重ねてみる。メンバーもじっくり前の週に試したことを 反芻し、次の週の作業準備や思考の時間が出来る。この連携で、私 とメンバーとの一日一日が勝負のキャッチボールの中で作品が徐々 に出来てゆくのである。通常の戯曲上演芝居と、稽古場で上演台本 自体を作ってゆく私たちの「集団創作」スタイルの大きな違いがここに ある。

2009年6月24日(水)

テラ・アーツ『マテリアル/糸地獄』稽古

歌舞伎は公演の稽古は3、4日しかしない。それで12時間の芝居を 作ってしまう。稽古も段取り合わせ、確認をする程度だ。それがいいと は思わないが、それでもやれる(もちろん2〜3歳から舞台に立ち、舞 踊やら義太夫やらも習い、普段の稽古は半端ではない時間を費やし ているが)。現代演劇の人間は公演の「稽古」を何のために延々とや るのか再考すべきだと思う。その殆どが安心と段取り固めのためとし か思えないからだ。こうして公演の「稽古」は必要以上にやるが普段 の稽古(基本や基礎を作るための)は全くしない。これは怠慢以外の 何物でもない。

テラは何のために「稽古場」の時間を共有するか?上演テクスト作りも 含めた作品(舞台)作りのためである。つまり「集団創作」に時間がか かるのだ。稽古でテクスト(上演台本のようなもの)を作ってゆく。同時 に身体表現、動作表現のスコアー(振り付けのようなもの)も形成して ゆく。そしてある程度構成が決まったら、その一時間なら一時間の流 れを「身体が生きる」自然なもの、起伏に富み、変化に富み、どんどん 身体が変わってゆき、そのことで空間が変化してゆく、そういう時間を 産み出すために流れを何度も繰り返す(通し稽古)。。。。。


今日はテラ団員女子メンバーに稽古場を任せた。目の具合が不調の ため。動きのスコアー作りに入ってもらう。これは演技する側が自分た ちで作った方がいい個所でもある。作る楽しみを皆で「分かち合う」な り。

2009年6月25日(木)

テラ・アーツ『マテリアル/糸地獄』

最後の場面(第三場)までのほぼ構成の流れが固まり、第三場をプラ ンニングしながら、並行して構成が固まった場面の詰めの稽古や、身 体演技を中心とした場面の細かい交通整理に入る。ある状態(集中 状態、憑依的な身体状況)に入ると、言葉のリズムが他の人間と合わ せられなくなる。つまり「特権的な個」というでも言う身体状態になる。

今回ある場面のテクストレベルで、合声するシーンを作った。実際に やってみると、他の役者たちと合わせると「特権的な個」、つまりその 本人独自の面白さが消えてしまい、維持しようとすると合声できなくな る、ことがわかった。さっそくテクストを手直しする。こんな作業をやっ ている。

2009年6月26日(金)

テラ・アーツ『マテリアル/糸地獄』

2手に分かれて稽古。一方は男性陣。ファリファリ基礎U、ファリファリ 基礎Uからスペース移動、F空間構成を実施。ネックになっているシー ンの問題は「根本的」なものから来ているから、F式基本訓練をやるの がむしろ一番の「近道」か。Fは自由のF、稽古を重ねたり、考えすぎた り、疲れたら、人間「不自由」になる。からだもこころも固まった「糸玉」 のようになる。それを溶きほどいてくれる絶大な効果がファリファリに はある。


男性陣は今回、外部から6人が参加。何度か一緒に芝居作りをした 者もいるし、今回お初もいる。他に30年来の友人、アジア劇場からの ベテランの滝君。月蝕歌劇団に参加する門田さんはいつも最初に稽 古場に来る律儀で真面目な人物。「ろくな奴」はいない。テラは女子集 団だから、「ろくでもない男」は入れないよう気を使っている。この世界 にはホントとんでもない輩がごまんといるし、役者をやろうなんて奴の 半分は「社会人失格者」だ。私は「脱・社会」的思考は持つが、その前 にちゃんとした「社会人」、常識があって、その上でそれを超えたい、と いうことで初めから世をすねて、あるいは甘えて生きているような人間 は御免蒙りたいと思っている。一番のベテラン戦友滝君はもう25年も 「会社員」を続け、今では経営者側なのだ(小さい会社で人一倍苦労し ているが)。お子さん二名を大学にまでやった(今はまだ在学中)。そ の上で今回参加した。と言っても、そんなこんなの事情で私の演出舞 台でまともな役に就くのは実に25年ぶりだが。いずれにしても、若い 女子ばかりのテラとしてはこれだけの男を迎えるのは殆ど初めて。前 回は女子だけの舞台だった(『イグアナの娘、たちU』)。だから、今は 良い刺激になっているし、稽古場の空気も変化に富んで心地よい。


今日の稽古、女子陣はテラ独自の身体表象ファリファリとF空間を駆 使した「プリミティブな歌舞(歌も踊りもないけれど、歌と踊りの発生の 根源、身振りとリズムへと向かう欲望と重なる位相で演技を再創造す る)シーンの構築に集中。

これは昨日今日のものではない。長い時間を費やして作り上げてきた 身体表現能力を発揮した場面になる。稽古レベル、即興レベルでも十 分見ごたえがある。これをより丁寧に交通整理をしてさらにパワーアッ プをめざす。メンバーたち自身で手が加えられ、実験(試演)し、また 手を加え、修正する。それを繰り返してゆく。何回かやるとみなぐった り状態、それだけエネルギーを使う。最大10分が限度か。それだけ 演技者が心身ともにフル回転する場面である。どの回も面白い、それ 自体何パターンもの組み合わせ、出来不出来があって、こういうもの 全てを観客も見られたらいいのに、とか思ったりした。




プロデュース公演や、あちこちから人を集めてくる最近の「劇団」は主 宰者が一人でやっている場合が多い。演劇をやる人間(若い役者)の 息が短くなっているのも原因か。簡単なバイトがある。バイトしながらし ばらく演劇をやり、飽きたら、しんどくなったらさっと辞める。私たちの 頃は、大学を出て正規雇用(会社勤め)を拒んで演劇を続けるという のはそれこそ親からの勘当覚悟のことだったし、そういうこともあって 学校を出ると仲間は芝居から足を洗う場合が多かった。演劇に残留し たものは逆に簡単に辞められなくもなる。今は芝居を始めるのもやめ るのも簡単だ。そういう時代(豊かな時代、もちろん本当は豊かではな いが)の影響もあるだろうか。いずれにしても、公演の度にあちこちか ら「フリーター役者」をかき集めて「にわか劇団」を作る。「演劇フリータ ー」が現在の小劇場を形成している主体だ。こういう条件の中では、じ っくりと腰を降ろして深い探求作業、実験作業は出来ない。流行りを受 けた「にわか演劇」ばかりが増殖する。新テラはこういう風潮と真っ向 から逆行することをやっている。20代のメンバー主体で、人を育てる というのも重要な活動の柱である。テラでの経験を将来に活かし、引 き継いで行ってもらいたいと心から期待する。蓄積の中でしか、良いも のは出来ないんすよ。根なし草の、その場その場の「いま、ここ」は決 して「いま、ここ」には辿り着かない。なぜなら「いま、ここ」は時間軸、 歴史性の中で相対化されて初めて浮かび上がってくるものなのだか ら。

2009年6月27日(土)

演出家にとって一番の心労は稽古で役者が揃わない、ということだ。

他の役者も来ない役者のために中途半端な稽古しかできず、苛立ち が昂じるだろう。昔は売れ出してテレビなどに同じ劇団の役者が出始 めると途端にkの問題が出た。今の小劇場では、バイトのためそうな る。しかし働かなくては生きていけないのだから仕方がない。


今回の問題は外部からの出演者、つまり男子の稽古だ。特に男性4 人の「糸女」シーン。面白いシーンなのだが面白くならない。からだが 互いに絡んでいない。抜き稽古をしなきゃあ、とスケジュール確認した ら、4人が揃う日が一週間で何と一日だけしかなかった!ということが 先週、判明した。何じゃこりゃ、とびっくりもんどり打つ。

公演直前稽古体制の7月に入ればみな揃うだろうが、6月はかなりば らばら。何て相性の悪い4人!(笑)。それで急遽対策を講じ人を入れ 替え、セリフの割り振りも考え直して第二景の上演テクストを作り直 し、何とか練習時間も合わせられるように配置した。一番練習の必要 な人達が一番揃わないんじゃ、話にならん。あとは特に絡む3人組に 滝君を入れた。これでまあ、かなり「破天荒」だが、それはそれで無茶 苦茶な味が出て、「見世物」としては合格、になるだろう。ほっと安心、 頭痛の種が一つ消えた。やるだけなら誰でも出来る、昨日今日芝居を 始めた素人でも芝居は出来るし、私の生徒だって一年でみなそこそこ やれる。が、そんなんじゃ意味ない。と自分に「水準」を課すと途端にし んどくなる。これってM気質ってことかなあ(笑)。



テラの団員に関してはほぼ毎回稽古に皆が揃う。
プランニングや構成、スコアー作りに時間は必要だが、稽古自体は同 じことを何度も繰り返さなくても出来るように育っている。もちろん、も のには「練度」というのがあるから、その上で稽古もばっちりやるが。し かし外部からの出演者はより多く練習しないと演技面がついてこな い。「ヘタウマ」式、素人っぽくても可能な芝居ならそれでもOKだろう が、テラの芝居、演技は完全に玄人もの。訓練を積み重ねた者でない となかなか出来るものではない。盆踊りは素人でも踊れるが、仕舞や 日舞は「腰が落ちない」と形にならない。同じ原理がテラの演技にも言 える。テラの舞台に一緒に立つのは「生」、「素」の身体では無理なの である。だから、そこに時間をたっぷり割く必要がある。フィクショナル な身体、「虚構」の空間に立つ身体、である。が、時間が割けない。そ の葛藤が目に来たか(笑)?



ま、やっとチームが動き出した感。昨日は全員が揃って「粗通し」が出 来た。これからだ。頑張れみんな、頑張れ自分!

2009年6月30日(火)

テラ・アーツ『マテリアル/糸地獄』
今日から公演直前体制(戦闘態勢)。公演まで毎日稽古が入る。

音楽作曲の落合さんの到着を待って通し稽古(リハーサル)。細かい 直しはこれからだが、今のところ、すごくシャープで見ごたえのある作 品に仕上がりつつあるのに一安心。とにかく今回は「プレッシャー」と の闘いである。勝手に自分で自分に課した「プレッシャー」だが、理生 さんの作品を使うなら絶対に自分の持っている力の限りでぶつかりた い、という覚悟ゆえの「プレッシャー」。しんどいが、でもこのしんどさが 心地よい。アーチストとしては作品を作るのに苦しんでいる、そういう 時間を生きているのは「幸せ」。どこで尽きるかわからないこの命、燃 やしまっせ!


音楽の落合さんは今回初めて組む方だが、すでに作品は何度か見せ ていただき、また何度か話をし、絶対の信頼を置いている。昨夜、前 にやった「粗通し稽古」のビデオを見てもらいながら演出の考えや希 望を伝え、さっそく作っていただいた音楽を持参された。わくわく、であ る。

2009年7月1日(水)

テラ・アーツ『マテリアル/糸地獄』

7月、である。公演まであと残すところ17日、稽古も詰めに入った。


今日から第三場(ラストの場面)を作り始める。

第一場、第二場でほぼ作品の大きな柱は立った。第三場はそのまま ラストシーンにつながる。時間にして20分前後。昨夜の「通し稽古」の ビデオを何度も見ながら、また落合さんからあずかった音楽を聴きな がら最後の仕上げプランを立てて稽古場に臨む。

始まる前に演出チームで打ち合わせ。昨夜のリハーサルで明確にな った修正点や何か所もある場面と場面のつなぎなどの音響・音楽と照 明、演技の細かい連携の確認を行う。

そして、演出チームともどもに考えてきた案を稽古場で出演者全員に 参加してもらい実際に「立ち稽古」。10分もやるとみな「フラフラ」状 態。かなり過酷に身体を使うが、見た目は静かに見える。しかし、内側 はたいへん。こういう仕掛け方が空間をしっかり支える要素になる。演 技者が楽をすると、観客は「すき」を見つける。演技者が外側には決し て見せない内側の「過酷」と闘っている時、観客は楽しむ。観客とはサ ディスティックな存在なのである。役者はだからマゾヒスティックを要す る存在と言えよう、か。

途中で短い休憩を与えながら何度も演技陣に「過酷」な試練に耐えて もらい、「すまない」と思いつつも(笑)、当然のように「冷酷」に稽古を 進める。繰り返しながら次第にそこで思いついたことやアイデアも加え て膨らませていく。稽古場は演技者の体「熱」でまるでサウナ状態に。


今日は「これで行ける!」と強い確信を得る(構成に関して、テラの舞 台では「構成」がもっとも重要になる。言葉も含めてみな素材、材料。 それをどう組み立てるか、そこで決まる、それが「構成」)。あとは稽古 を重ね「身体」でどう流れを生きるか、「内面」化するか。演技者の課 題である。最後の最後の一瞬をどうするか。今日はそれも頭の中に絵 が浮かんできた。冴え渡る一日!

これで理生さんに何とか顔が向けられそお。。。ほっ・・、と肩の荷が一 つおりた。

2009年7月3日(金)

『マテリアル/糸地獄』秘話

ほぼ出来上がりに近づく。


今回の舞台ではアラ・フィフティ滝君の存在も大きい。演出補の藤井 曰く「滝さん、かっこいい」。やったね、若い芝居をめざす女子にこんな 言葉言われるなんて「役者冥利」に尽きるって。

アジア劇場以来、舞台に中心的に立つのは実に25年ぶりのこと。し かし、年輪を重ねて、ブランクを感じさせない(本格的ではないが、完 全に遠ざからないよう、ちらっちらっとテラの舞台の端の方に二〜三 年に一度は、出てもらってきた。それがようやく実を結び出すか)。「細 く長く」が、やっと生き始めてきたのかもしれない。もちろん本人自身が あらかじめ持っているものも大きいが。20代前半で批評家も含め多く の観客から支持をもらった、そういう才覚がもともとあった。それが 今、20数年を経て確実に「醸成」されてきたのかも。何にしてもこれか らが楽しみ。男は50過ぎてから勝負、それを示したいね!「渋さ」と 「味」で勝負です。今後は徐々にテラの舞台への露出頻度を上げてい けたらいいなあ。

元第三エロチカの清田さんも一緒だったので昔話に華(笑)。滝やアジ ア劇場が活動を開始した1980年代前期のこと。役者ではアジア劇場 の滝、斎藤、塩原の三人組が小劇場でも突出していた。他に第三エロ チカに若くして事故死した佐々木君、第三舞台にこれも若くして事故死 した岩谷君がいて、滝、佐々木、岩谷が私が私的に見た当時の小劇 場の「突出」したいい役者。みな20代前半、だった。「いい役者は早く 死ぬんですよね」(清田)、「だよね、滝は長生きしたから、いい役者じ ゃなかったのかな」・・・一同笑。まあ、「太く短く」も良し、しかし生きな がらえた以上、これからは「細く長く」、「末広がり」で行こう。めざせ「森 光子」・・・「ええええ」、まあ、人生いろいろでんな。

音楽作曲の落合さんも後から来る。寺山さん、理生さん系はたくさん 関わっているが、テラの理生作品は異色だと。「こんなやり方が可能な のかと、驚き」桃の木、らしい。とにかくテンポが速いそれだけでも理 生さんの独特のこってりした文体からは想像できない。「役者がみな 飲まれちゃうんですよね、その文体に。気持ちいいし」、「うんうん」。で もそれをテラはやらない、突き放してしまう。乾いたドライな感じからど んどんその世界に踏み込んでいく。今回はそんな感じ。とにかくこんな に歯切れがよくて、リズムがあって、しかも物語の芯がはっきりと明確 に立ち上って、その上、最後に大きな「想像しがたい」ひっくり返しがや って来る。

テラ・メンバーもずいぶんと成長した。みな、追及してきた「志」を体現 できる能力を持ってきた。やろうとしていることが実現できるだけの基 盤が出来てきたところだ。何事にも「旬」がある。いま、テラ・アーツ・フ ァクトリーはまさに「旬」に突入。すぐれたテクストに出会い、独自の方 法と形式が互角の勝負をし、演技者が十分それを消化し体現する。 舞台は一回しか出来ない。今回はぜひ観てもらいたい。

前回の『イグアナの娘、たちU』も高い完成度を示すことが出来たし、 観客がそれを認めてくれた。今回もそれに続くものになりそうな確証が 今日の稽古でつかめた。さて、これで友人たちに自信を持って案内を 送れるわいなあ。

2009年7月5日(日)

いよいよラストを作る。

考えてきたプランを試してもらう。よし、これで決まった!

ラストの一瞬で作品は決まる。今回は「切れ味鋭い」、鋭利な作品に 仕上がった(構成に関して)。演技者のからだがうまく乗って最後まで 持って行ければ見ごたえのあるものにはなったと思う。

『マテリアル/糸地獄』は『糸地獄』という原作を軸に展開しながら、原 作を最後の場面(第三場、約20分)で一気に越える。ぱあっと拡がり を持つ、こういう拡がり方を潜在的に持った作品なんだ、と観客にはっ と思わせる作品になった。もちろん初見の人はこう いう作品なんだと 思うだろうし、それはそれでよし。原作そのままではないが、その精 神・ 思想からはずれてはいない。むしろより強化し、見えやすくなって いる。

2009年7月7日(火)

『マテリアル/糸地獄』通し稽古

ラスト場面が出来あがり、ほぼ完全なかたちで通し稽古。

舞台監督さん、音響さんも立ち会う。「すごい迫力ですね」、舞台監督 さんの第一声、感想。

ラストは「凄まじい」の一言。そこへ劇構造、劇構成が一気に集約、集 中する。終わるとしばらく「脱力状態」、思考がバラバラに破片化し、脳 内はパラサイト、だ。とんでもないものになっちゃった(笑)。

2009年7月12日(日)

あまり暑すぎない夏っぽい日曜日。

まる一日、公演会場のd−倉庫で稽古。ふううっ・・・。

テラ・アーツ『マテリアル/糸地獄』、劇場にて粗通し。
その後、衣装をつけて2回目の通し稽古。

空間を身体感覚でつかむ、そのために実際の上演場所で稽古して試 してみたい!幸い、たまたま小屋が空いていたので借りてしまった。か らだを縦横無尽、舞台狭しと動き回るテラの舞台。演技陣が空間を把 握できるよう、本当はもっと劇場で稽古したかったのだけど、今日しか 空いてなかった。で、今日は劇場を一日借り切りで稽古した。

あまり稽古しすぎると体力フルに使う「プリミティブな(未開の、野蛮な) 歌舞劇」だから、からだが持たない。あいだに休憩たっぷり入れて、演 技陣にはまずは本番を迎える劇場と「仲良し」になってもらった。

腰をどすんと落として腹の底から発声するテラ式発語ゆえ、声がでか すぎ、やかましすぎないか心配だったが(場合によっては声のエネル ギー量を落として調整の必要ありかと)大丈夫そうなので、安心。ささ やき声、吃語発声から絶叫まで、声量のボリュームの大小の開きの 大きいテラゆえ、小屋の反響・残響のバランスが気になるのだが、小 劇場はそこまでケアする余裕がないから、私たちの声の力に対して 「容量」が小さすぎる場合が多い。いつも苦労するところで新しい劇場 ゆえ、一番気になった問題。残響がかなりあるが、セリフのスピードの 調整で何とか対応できる範囲。まだ本番まで6日ある。今か ら対処 可。

2009年7月13日(月)

『マテリアル/糸地獄』通し稽古3回目。

音楽の落合さん、来る。今日から現場に密着、頼もしい限り。頼りにし てまっす!

本篇と並行した「パラレルシーン」となる第三場=「もう一つの糸地獄」 シーンは音の組み立ての巧妙さが肝心。それがうまく演技陣、舞台と 噛み合うとすごいシーンになる。まるで「糸地獄マシーン」だ。


『マテリアル/糸地獄』は原作の再現ではなく、原作の中で私たちが関 心を持った部分、気になった部分を柱に再構成し、観客に問題提起す るタイプの作品になっている。 第三場はそうした構造をフルに現出さ せる場面で、第一場、第二場と少しずつ伏線を張り、一気にここで「勝 負」に出る。理生さんがハイナー・ミュラーと接触し、原作に手を加えよ うとして志半ばで「中絶した」ものを、その遺志を私たちなりにくみ取 り、試みてみた、そういう作品に仕上がってきた。

2009年7月14日(火)

テラ・アーツ『マテリアル/糸地獄』通し稽古4回目

いつも舞台撮影して下さる森さん、稽古場に来られる。同時多発、多 面的、照明も変貌自在、そんな動きの展開の早いテラの舞台だけに 事前把握、素晴らしい!!舞台撮影写真家の鏡!ステキな写真、今 回もお願いします。

音楽未定個所に作曲の落合さんが音をつけてくれ通し舞台に当てて 下さる。わおっ!!音楽劇でもあるテラ、音が命綱。いい感じでぞくぞ くしてくる。

前半30分、こらえにこらえ、一気に踊り出す、いや動き出すテラ女子 軍団!「プリミティブな歌舞劇」本領発揮。そして動く動く。ここに来てこ れはテラの舞台だ、と胸躍る。何度見てもテラ女子団の集団の動きは 圧巻だ。見飽きない、見応えあり。これを「ダンス」と呼ぶ観客もいれ ば「奇妙な動き」と言う観客もいる。そのどれでもない。いや、何であっ てもいい。役者が息づく、華やぐ、そういうものであり、それを何と名付 けるかはこっちの知ったこっちゃあない。

そして静寂・・・、静かに語り出される母と娘の切ない物語。

ラスト、繭がぶっ飛んでいく。。。。どこへ行く?舞台出ずっぱりの志 村、いつも「憑依」するが、今回はそれが「見せ場」に。ここら辺はテラ 版『もう一つの糸地獄』の圧巻シーン。

2009年7月15日(水)

テラ・アーツ『マテリアル/糸地獄』通し稽古5回目

繰り返し、通しをやりながら各人、調整をしてもらう。とくにテラ女子メン バーによる集団パフォーマンスシーンは構成が多重的で同時多発で 動く。みなの呼吸の一致が必要だ。全く「シンクロナイズドスイミング団 体版、かつ、みなの動きは全て違う版」なのである。こ れはテラの取り 組んでいる新しい「身体表現様式」、現在開発中のもの。みながよくこ なすようになり、調子はどんどん上向き。ダイナミックで見ごたえあるシ ーンになるだろう。

前半部、とにかくはらはらの男子「外人部隊」組演劇的シーン、であ る。なかなか思うようには行かない。まあ、これはこれでいいか・・・。

2009年7月16日(木)

最後の通し稽古

作品の構造・構成的には盤石。ただ演技者にとってはやはり流れをざ あっとやっておいたほうがいいだろう。テラは「ダンス的演劇」だから、 身体の流れ、状態の変化にともなう空間の変化、が一番の基本。一 時間半の上演時間の経過に伴う空間の変容にからだ が馴染むよう 公演前は通し中心。懸案のラストの音楽、効果音、音響と演技の連携 の目途も何とか立ちそう。


小屋入り前にするべきことはすべてやった。今回も長〜い道のりだっ た。振り返ると、ほんとよくやってきたと感慨深い。こんなに時間とエネ ルギーを集中する、それを「無償の行為」としてやる。まるでイエスじゃ ないか(笑)。「もうこれで最後か」、いつもそんな気持ちになる。終わっ たら、カスミを喰って生きてゆこう!

2009年7月17日(金)

劇場でリハーサル。

照明が入るともうこれは「この世」ではない(笑)


照明が入ってびっくり仰天、なんじゃこりゃあ状態。「ありえねえ〜」っ てくらいありえない。そこがサイコーにいい!!アバンギャルっ子だ。 ムービング、レーザービーム・・・、まるでバブル期のデスコ状態。それ がテラ女子軍団の集団パフォーマンス、身振り身体 表現シーンにや たら食い込んでくる。テラ独自に常に舞台上に展開される身体表現は 「ダンス」ではない。音楽のリズムに合わせてターンやステップを踏む ことはない。これはあくまで身振りの延長であり、その象徴表現であ る。動きの動機はイメージや内発的感情ではなく、空間の中での「関 係」を基礎とする。自分自身をひたすら対象化し、客観化 し、自分の 中の状態の変化も対象化し、動きとして組織する。徹底して「記号化」 する。「象徴的な言葉」と同じように「象徴性」を持たせて動きとして機 能させるものである。

音楽はあとからつけている。その際に、絶対にリズムに乗らない、合 わせないことを鉄則にする。「はずす」のである。合わせながら、合わ せた上ではずす技術。「身振り」はその人自身の存在、何者であるか を表出するものとしてある。だからそれ一個一個が「小さな物語」とつ ながる。人間の生活であり、世界の断片であり、存在根拠の破片であ る。


それで、照明。岸田理生さんの芝居でこれは「ありえねえ〜」。そういう 明かりが欲しかった。このギャップ、これは「この世」のものではない。 とにかく今回はサイコーに「ありえねえ〜」ぶっとんだ舞台になること間 違いなし。シュールな動き、象徴的な理生さんの言葉、アバンギャルド でパンクな照明、そして押さえつつも要所でブレイクする落合さん(解 体社の音楽も担当、私は最初にそれを聞いて彼を知った)の独特な 音楽がスパークする。

時代は昭和14年・・・、時間は70年前であり、70年後でもいい、そん な「異世界」。あの世かこの世か、わからない世界。「アバンギャルっ 子向きワールド」である。

2009年7月18日(土)

初日、無事終了。

とにかく無事、幕があいた。終わるとぐったり状態。一気に脱力、腑抜 けな私。


これだけみんがエネルギーを使い果たして作り上げてきたものが、ア クシデントや予想しない事で、陽の目を見られない。それくらい悲しい ことはない、絶望的なことはない。そういう経験をすると公演前にはい つも「トラウマ」が蘇る。「とにかく公演をやらせて下さい」、そんな気持 ちで公演前は毎日祈る思いが続く。来世も神仏への信心もない私だ が、公演が近付くと「無事、幕が開きますように」と毎日神様に祈って いる(笑)。そしてとにかく幕が開いた!


照明、音響、音楽、空間、美術、演技者の配置、シーンとシーンのつ ながり、コントラスト、対比・・・とミックスされ初めて全容が明らかにな る。出演者は稽古場の蛍光灯のもとでの稽古しか見てないから劇場 に入って幕があくまで舞台全体のことは想像つかない。

現実再現、リアリズムではなく、その対極にあるような舞台だから余計 稽古場ではつかめない、台本だけでは目測が立たない。イメージ、明 暗、音の揺れ、ノイズの突然の参入、一瞬の静寂、空間の立ち位置、 人とものの配置、布や衣装の触感、全てが象徴(記号)となり重なり合 い、響き合い、「イメージの渦」を産み出す。だから観客席で本番を観 て初めて全体が見える。観客は「神」の席に立つ。私たち一人一人は そのパーツ、材料をなす。そういうタイプの劇だから、関わっている人 間も上演するまで全てを把握できるわけではない。演出でさえ今回の 照明案は実際、劇場のリハで見せてもらうまで想像出来なかったし。


それでもこれまでの「信用」があるからテラ・アーツ・ファクトリーの面々 は絶対の確信と信念でついて来てくれる。だいたいこうなるだろうとい う予測も経験から立てられる。

だが、客演組、特に今回初めての人はさぞ「不安」だったろう。でもき っと後でビデオで見たら、「えっ、こんなことになってるの!?」とびっく りすると思う。それだけテラの舞台は幕があくまで、内部関係者でさえ 想像しずらいタイプの作品なのである。でも舞台は自分たちの「満足」 のためにやっているわけではない。あくまで観客に向けて発信するも の、 当たり前だけど。観客の裁断を仰がず、自分の判断や趣味を観 客に押しつけようとする、そういう演劇人が、多すぎる。何故だろ う・・・。



今日の舞台は。。。。照明、音楽、音響、空間、演技がかみ合い、イメ ージの交響。観客一人一人、十人十色の受け止めが可能となるタイ プの舞台だ。「見世物」としても十分面白い。鋭い変化、緩急、コントラ スト、演技者の超人技(もうフツーの役者には真似のできない神業に 近付いている)、ラストはフルパワーがさく裂し、志村麻里子が「絶句」 する。凄まじい舞台になった。



生徒たちが見に来てくれた。「びっくりしました!感性でみないと駄目で すね」、「まだ頭の整理がついてません。たぶん家に帰ってもいろんな ことが頭を駆け巡ってしばらく整理がつかないと思います」、「すごい、 刺激的でした!何と言っていいのか言葉が見つかりません」、目を輝 かしていた。あまり芝居慣れしていないから余計新鮮なのか。こういう 人たちの反応が一番楽しみ。まだ「擦れていない」鮮度の高い感性は 何を感じたか・・・。

客演組の声、「芝居に関わっていない人の方が面白がるでしょうね」、 「演劇と関係ない人たちに声かけてます」、「観ながらすごくいろんなこ とを考えたと知人が感想を言ってました」。演劇関係の人と言っても例 外はあるが、うちのはだいたい芝居関係の人間に受けが悪い。芝居 をやっている人がよりすがっている根拠、暗黙の了解、「芝居とはかく あるべき」、という「定型」思考、固定観念を脅かすからだろうか。

2009年7月19日(日)

二日目、マチネー、ソワレとも客足が伸び、満席になる。

今回は結果的にしっかり「エンターテイメント」舞台になった。「実験」す れば面白いという人と難しい、わけわからない、嫌いという観客とには っきり二分される。バリエーション、 多面性。固定したイメージで集団 を掴みたい人もいるだろうが、やる方は毎回、チャレンジ、で行きたい と思うのだ。それでも今回は今までより、好評か。。。まあ、「好評だか らいい」という風に楽観してるわけじゃないし、「陣地戦」というのが私 たちの基本態度。それは観客の欲望と対峙する、「世間」と世相、風 潮、空気、風に流されない、観客の嗜好 に合わせない、観客受けを 目的にしない、という覚悟を持つ(これはこれでタイヘン。誰でもが恐 れる孤立を恐れない覚悟、だからよほどの覚悟がいる)。そういう趣旨 で新テラは活動を開始し、動員が増えなくて経済的に苦しくなっても支 え切れる意志と基盤はしっかり作ろう、ということでやってきた。


テラは「実験性」、「パフォーマンス性」、「演劇性」、この三極で作品作 りをしてきた。三極間は均等ではなく、作品ごとにバランスは変わる。 今回は原作をシンプル化し、まず話がある程度はわかるようにした(と 言っても理生さんの思想は深く謎に満ち、それほど簡単に「理解」出来 る代物ではないし、それを分かり易く「解読」、「解説」する立場にもテ ラはない)。展開をシャープに早く、かつ原作を材料にしつつ、現在の 劇として再生してみようということをやってみた。音楽や照明、テラ女 子陣の集団演技など、「エンターテイメント性」はたっぷり混入した。 が、やはり提示した「世界」は単純ではない。後は観客一人一人の「解 読能力」に委ねる。どう捉えても構わない。切って捨ててもいいし、大 感動でもいいし、自分はこう考えた、こう解釈したでもいい。悪評も好 評も全て受け入れる。というか、それはもう観客一人一人のもので、だ からこれは私たちの「趣味」の「表現」なんぞではない。もっと「公的」な 広場を仕掛けたのだ。百家争鳴を望むばかり。「アフタートーク」なん て糞くらえ。観客同士が、今見た舞台(共通体験・共有体験)を餌に語 り合う場はあっていいと思うが、演出家が出てきて説明する、なんてバ カな話はない。ありのままを提示すればいい。あとは観客が考える番 なのだ。観客を「芸術」表現や「お話し」表現の受け手、受動者にする ものが多すぎる。観客は作品を構成する三極の一つなのだ。つまり原 案・原作・テクストが一つの極。上演者の思考の形式にアレンジされた 上演(演技、表情、身体、照明、音楽、空間、雰囲気、匂い、構成、演 出、布や壁の感触、声の質感、重量感・・・・etcなどの身体表象)がも う一つの極。そしてもっとも重要な観客の想像力が三つ目の極。この 三極によって生成される場、それが私たちの考える「演劇」、つまり 「想像力の広場」。残念なのはこうしたごく「フツー」の「当たり前」のこ とが「フツー」ではなく「当たり前」でもない、異例のものになっているそ ういう現状なのである。「日本に人が集まる広場としての劇場がない」 (上野千鶴子)、まさにまだ劇場はない(あるが、少な い、目立たな い)。




今日は公演の間にフェスティバル主催者のシンポジウムが入った。よ ほどきちんと事前に用意をしないと、形式的なものにしかならない。 「議論」なんてありえない。一方的にそれぞれがしゃべる、情報が羅列 される。話は噛み合わない、で殆どが終わる。観客から の質問が入 る。それも何だか質疑応答的、になる。今まで参加したシンポ、アフタ ートークでは。

今日は事前に全く何の打ち合わせもなかったから、非常に困った。頭 はいまやった舞台の、特にラストの場面(第三景)が納得いかず、そこ の問題を打開する方策をすぐにも考えないと、ということで切羽詰ま る。目の前で決壊しそうな亀裂を見ながら「ダムの歴史について」なん ておしゃべりをしている心境にはなれない。それも必要だが、タイミン グがなあ。やってもいいが、出来るなら終わってからして欲しかっ た。。。。観客同士でやりとりすれないいのに。上演は啓蒙活動ではな いし。もちろん勉強会や啓蒙的な場は他にあっていいが。大学とか、 カルチャーセンターとか、劇場の上演以外の活動とかで。


今日のソワレ前の修正は時間的に不可能。今夜一晩ビデオでチェッ クして明日のマチネーまでに対策を講じることに。やはり問題はラス ト。ここだけは稽古場ではどうにもならない。劇場で照明と音楽と音響 操作が演技・舞台と一体となって呼吸を始める場所、まだうまく行か ん!場当たりでまずはここを、と思ったが演技者や照明、音響は他の 場面の確認が必要なため、後に回った。うん、なかなか思うようには いかない。一人でやるものとここが違う。

2009年7月20日(月)

いよいよ公演最終日。

初日、昨日のマチネ、ソワレとも満席。

小屋入り前の梅雨明けと急な猛暑にからだがついていかない、ぐった り状態での小屋入り。バテてしまったのだが、それだけではない。

シェイクスピアだ、ギリシア劇だをネタ/マテリアル(材料)に演劇を再 構築する作業は原作に対して距離が取り易い。みな「対等」。が、今回 は劇団内にこそいなかったが身近にいられた理生さんの作品。私とし てはきわめてやりづらい。その上、メンバーは理生さんには何の思い もなく、上演を見たこともない、「伝説」さえ知らない世代。このギャッ プ。赤道直下と北極近くの違い!?


このギャップはカラオケに行った時の感じに近い、であろうか。親子く らいの世代が違うと、カラオケに行ったら、もう外国人同士。こっちが 「70年代、南沙織だ!」とか言って歌ったりしようものなら、場は一気 にシラける。まあ、今回の理生さん芝居とのことはカラオケに行った時 の「どうしよう」状態かもしれない。とは言っても深いところまで作業を 突き進めるとむろん、密接なつながりが見えてくる・・・そういう発見 の、出会いの場に集団がなった。


2005年からメンバーに原作を手掛かりにまずはテクストをバラバラ に解体し、好きに小作品を作ってもらったりした。原作の原型は全く留 めないそんな小品が出来た。今年の3月にも小さな企画をやった(内 部発表)が、これも原作のかたちは殆ど何も留めていない。そんな作 業を経て、一度バラバラに解体した小指だ、肝臓だ、くるぶしだ、耳 だ・・・を縫合してみる作業を4月から始めた。解体には長い時間をか けた(間に別の公演があって中断的だったけど)。しかし再構築には 極めて短い時間で対処した。だから今回はこれが私たちが出来る精 一杯のもの。でも、まだまだやりようがある、縫合のし方はいろいろあ る。そういう可能性をたくさん感じた次第。

そんなわけでようやくスタートラインについた、そんな感じである。





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